不妊の辛さを乗り越えて・・・祈りの力・・・第一サムエル記1章1~28節
9.ハンナの請願と神様からの問いかけ
さて私たちは、このハンナの祈りの内容にも注目してみたいと思うんですが、それは11節の言葉であります。ここにハンナが具体的に祈っているその祈りの言葉が記されてあります。それはどういう祈りだったでしょうか?
こういう祈りだったと書いてあります。
11節「そして誓願を立てて言った。『万軍の主よ、もしあなたが、はしための悩みを顧みて、私を心に留め、このはしためを忘れず、このはしために男の子を授けてくださいますなら、私はその子の一生を主におささげします。そしてその子の頭にカミソリを当てません』 と祈ったということが聖書に記されてあります。
つまり、もし神様が祈りを聞いてくださって、男の子をくださるならその子を主に捧げますと、ここで誓願をしているということが分かる。
ここで私達、考えたいと思うんですね。ハンナは、神様と取引をしているんでしょうか?神様にどうしてもこっちを振り向いて欲しいために、あるいはどうしても子供が欲しいために、もしその子供が与えられたら捧げますというそういう取引をしているんでしょうか?安易な約束をそこで交わしてるんでしょうか?
そうではないですね。むしろ祈りの中でハンナは深く神様に心を探られ、心の深いところから主に捧げる献身へと導かれていた、ということを私たちは気づかされることであります。「そして、その子の頭にかみそりを当てません」というのは、その子を「献身者」にしますという誓いで、献身者になる子どもは3歳頃に手放し、主にささげなければならないのです。だからこの決意は、ただ単に子供がほしいという動機からは絶対にできない決意です。献身の決意がなければできない祈りです。
おそらくハンナは祈りの中でこのように神様から問われたんではなかったでしょうか?
「あなたにとって本当に大切なものは何ですか?子供を求めているけれども子供さえ与えられれば、あなたの問題は本当に解決するんですか?
そうではない。仮に子供が与えられても、あなたはその子供にすがって生きていくでしょう。そしてその子供に振り回されて生きていくだろう。本当の問題はあなた自身には子供がいないということが問題なのではない。子供という目に見えるものにすがって生きて行こうとしているあなた自身に問題がある」。
そんな、自分に振り回されながら、これから生きていくのか?それとも目に見えない万軍の主に信頼しながら、歩んで行くのか?そんな深い神様からの問いかけを、祈りの中で受けたのではなかったでしょうか?
心を探られ、自らの中途半端さを示され、そして心からの献身にハンナが導かれていることを、私たちは気づかされるわけであります。
ハンナは長い時間祈ったんですね。一体どれだけ祈ったのか分かりませんけれども長く祈っていた。その祈っている間中、祭祀のエリという人が心配して、彼女のことを見守っておりました。柱のそばから見守っていた 。ハンナはまるで酔っぱらってるように見えたそうです。それほど激しい祈りだったってことですね。「いつまで酔っているのか。酔いを覚ましなさい」って言われるようなそういう祈りでありました。
それはハンナが神様の前に格闘していた、本当に神様の前に自分自身が問われる祈りだったということであります。
10.ハンナの決心
そしてそんな主の問いかけに彼女は、はっきりと答える決心をした。そんな彼女の姿が18節に出てきます。
「彼女は『はしためが、あなたのご厚意に預かることができますように』と言った。それからこの女は帰って食事をした。彼女の顔はもはや以前のようではなかった」。
ハンナの顔がもはや以前の顔のようではなかったという風に書いてあります。祈りの結果はまだ与えられてはいないんです。この時点では。子供はまだ与えられていないんです。子供が与えられるのは、この後のことなんです。
子供はまだ与えられていないけれども、ハンナはこの時には既に変えられた。顔は以前のようではなかった。この時にハンナの信仰は変えられました。
「子供さえいれば」という信仰から、「子供がいなくても」という信仰に、彼女は変えられた、ということが指摘されます。
それまでのハンナの信仰は、子供さえいればというそういう信仰だったと思いますが、この子供さえいれば問題は解決する、子供さえいれば私は幸せになれる、というそういう、そういう信仰でありました。
神様に祈りながらも、依然として目に見えるものにすがって、目に見えるものに縛られている、そういう彼女の姿がそこに示されております。
しかし祈りの中で彼女は変えられていきますね。「子供がいなくても」という、そういう信仰に変えられた。
目に見えるものにより頼むものではなくて、目に見えない神様、万軍の主により頼む信仰に彼女が変えられていく。祈りのうちに変えられていったということが分かる。そして自らの深いところから主にお捧げをして、積極的に主のために自分をお捧げする、そのような姿に変えられていることに私たちは気づかされます。神様がそのようにハンナを導いてくださったわけであります。
神様は、祈りのうちに、私たちにも同じように問いかけ、そして同じように私たちを導いてくださることがあるんではないでしょうか。私たちにとって一番大事なものは何だろう?仕事だろうか?子供だろうか?家庭だろうか?財産だろうか?健康だろうか?
もちろんそれはひとつひとつみんな大事なものです。つまり私たちの生活というのはみんな、そういう目に見えるものを中心として回っているということがあるんではないでしょうか?
でも私たちはもっと深いところから主に求められているのではないでしょうか?。私たちは目に見えるものではなくて、目に見えない神様を見上げて、そこに信頼し、この方に全てを捧げて従っていくと言う、そういう献身が私たちに求められているということ覚えたいと思います。
神様の偉大さに私たちは目を止めて行きたい。 この方を見上げ、この方に信頼してくものでありたいと思います。
11.まとめ
そんなハンナを神様は大いに祝福してくださったということを最後に見ていきたいと思います。神様はハンナに二つの祝福を与えてくださった。
一つはハンナに男の子を与えてくださいました。ハンナの祈りに応えて主は、ハンナに子供をくださった。その男の子はサムエルと名付けられました。
でももっと大きな祝福を神様はくださったということに気づかされます。
それは神様の救いのご計画の中にハンナをくわえてくださったということであります。今、読んでいる箇所は、第一サムエル記の1章です。
ここからサムエル記という書物が始まっていきます。ここから偉大な神様のご計画が始まっていきます。ハンナに与えられたサムエルが、やがてイスラエルの預言者となって、そしてそのサムエルを通してダビデという王様が選ばれていく。そしてダビデ王朝とイスラエル王国が築かれていく。その後ソロモンという王様がでてくる。そしてその偉大なそのイスラエルの王朝のその家系の中から、やがてイエスキリストが誕生する。神様の救いのご計画が実現されていく。そのような偉大な御わざが始まっていくその発端に、彼女がいる。
その始まりにこの女性の祈りがあったと教えられるわけであります。ハンナの心を注ぎだした祈りから、全てを捨てて神様に従うという彼女の決断から、神様の偉大な御わざが始まって行きました。そこに私たちは大きな励ましとチャレンジを受けるのではないでしょうか?
神様は、今日にあっても、そのような祈りの民を求めているんではないでしょうか。心を注ぎ出して主に向かって祈る民、心から主に従う民を、神様は求めているのではないでしょうか。
そのような人を神様は豊かに祝福してくださいますし、さらにその人の祈りを通して神様の偉大な御業が前進するのではないでしょうか?
私たちの心の中にあるのは何でしょうか?家族も仕事もお金全部大事です。でも、それもすべて神様に差し出していこうではありませんか。全てを主に捧げて「この者を用いてください」と祈ろうではありませんか。
そこからたくさんの祝福が始まっていくということ、そしてそこから、神様の御業が始まっていくということを信じたい。 私たちはハンナのように心を注ぎ出して祈る者となりたいと思います 。そのようにして私たちを通して主の偉大な救いのご計画を、前進させていただこうではありませんか 。