「愛をもって真理を語る」とは?・・・エペソ人への手紙4章13~15節
エペソ人への手紙4章13~15節: 私たちはみな、神の御子に対する信仰と知識において一つとなり、一人の成熟した大人となって、キリストの満ち満ちた身丈にまで達するのです。 こうして、私たちはもはや子どもではなく、人の悪巧みや人を欺く悪賢い策略から出た、どんな教えの風にも、吹き回されたり、もてあそばれたりすることがなく、 むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において、かしらであるキリストに向かって成長するのです。” 聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会 |
この箇所を読んでパウロはとても良い羊飼いだなというふうに思いました。羊飼いは、ある時には羊たちの後ろに回って羊たちを後ろから追いたてるんですね。ここにいてはだめだ、前に進みなさいと、時には杖でお尻を叩いたりしながらですね、前に来なさいという風に、前に押し出してくれるんですね。
でもその後、羊飼いは、前の方に回って、羊たちにちゃんと目標を指し示しますね。ここまでおいで、ここが君たちのくるべきところだよと言って、後ろから前から、羊たちを正しい方向へ導いてくれるわけですけれども、この箇所のパウロはまさに、そのような良い羊飼いの働きをしているというふうに思いました。私たちの主なる神様は、私たちを後ろから前から私たちを導いてくださる方であることを感謝したいと思います。
1.霊的に、子供のままではいけない
私達はまず14節において、お尻を叩かれたいとおもいます。後ろから私達を押し出してくださる神様の導きを覚え感謝したいというふうに思います。その、後ろから私たちを押し出してくださるその言葉が、この14節の「こうして私たちはもはや子供ではなく」というこの一節の言葉であります。いつまでも子供でいてはいけない、前に進みなさいと言ってくださるのです。
私たちは信仰者になった時、みんな子供から始まります。どんな年配の方でも、イエス様を信じて洗礼を受けた時は、みんな子供です。子供から始まるんです。ですから最初はミルクでもいいんです。でもいつまでたってもミルクばっかり飲んでいると、ちょっとそれは心配になりますね。少し硬い食物を食べられるようにしないと、成長していかないですね。
ですから私たちは、もう子供ではなく、どんどんどんどん成長しなさいという風に、後ろから押し出してくださっている、そういうパウロの気持ちをここで感じたいというふうに思います。なぜ私たちは子供のままではいけないんでしょうか。
もしかしたら私たちの中に霊的な意味でいつまでも子供でいたいな、というそういう思い持ってる方いるかもしれません。あるいは、そのような心をどっかに持っているということがあるかもしれない。でもそれではいけないよ、前に前に進みなさいと、ここでパウロは励ましてくれているわけです。
けれども、どうしても私たちは大人にならなければいけないのか、子供のままではいけないんでしょうか。この14節で二つの理由が指摘されていることが分かると思います。
(1)理由1
1番目の理由は子供はとても不安定で、騙されやすい存在であるからであるということです。14節を読んでみます。
「こうして私たちはもはや子供ではなく、人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略から出た、どんな教えの風にも吹き回されたり、弄ばれたりすることがなく」という風にここに書いてありますが、ここでパウロは、小さな船が風によって吹き回されたり、波に弄ばれたりする状況を、視覚的に捉えております。船の本当に不安定な姿を、あたかも目に見えるような形でここに表しているということが分かると思います。
確かに子供達は不安定なところがあると思いますね。さっきまでニコニコしてかわいいなあと思ってた子供が、なんかちょっとしたことで急に泣き出したり、あるいは癇癪を起こしたりすることがあると思います。おもちゃの積み木が倒れただけで、この世の終わりが来たのかと思うような大騒ぎすることがありますね。でもそのくせ、ママが大好きなケーキを用意したりするとニコニコと、また笑顔に戻ったりしますけれども、それは子供だから見ていて可愛いいなと思います。でも見方を変えるならば、とても不安定だということになるんじゃないかなと思います。
自分の気持ちが全てということです。自分の気持ちにぴったり会えば満足です。自分の気持ちに合わなければ、すぐに不機嫌になります。その結果とても不安定です。自分の気持ちにとらわれやすいということが言えるんではないでしょうか。それが子供に見られる特徴だということが指摘できると思います。また子供はとても騙されやすい存在だと思います。すぐに人を信じます。その人のその言葉の裏側に、どんな思いがあるのか見極めたり判断したりする力はまだまだ子供には足りないんじゃないかなと思いますね。その点は、大人がしっかり守ってあげないといけないということになると思います。また子供は自分にとって、何が大事であるか、何が必要であるか、ということを判断する力もまだ十分ではないという風に思いますね。そしてどうしても楽しいこと、おもしろいことに心が向きがちだという傾向が強いかなというふうに思います。親たちは子供の成長のために、躾がどんなに大事であるかということを、よくわかってますね。ですから子供達を何とかしつけようと思います。でも子供達は時々親に躾けられることを嫌がります。時間を守りなさい、後片付けしなさい、部屋の掃除をしなさいと、次々言われると、だんだんイライラして怒り出して、反発したりすることもあると思います。
親はそれらが子供にとってどんなに大事なことであるか、大人になるためにどんなに大事なことであるか分かりますね。ですからそのことを与えようとするけれども、でも子供は、それがまだまだ判断できないですね。ですからどうしても、テレビとかゲームとかカードとか、楽しいことに心が向いてしまうという、そういう傾向があるかなというふうに思います。子供には自分で何が大事で、何が必要なのか判断する力が十分ありません。ですからとても騙されやすい面があるということがあるんじゃないでしょうか。
でもよく考えると、大人にもなかなかこの性質から抜け出せないという傾向があるんではないだろうかと考えさせられます。クリスチャンでも未成熟な子供っぽさをどこかに抱え持っているということがあるんではないだろうかと思います。自分の気持ちが全てです。自分の気持ちに合うかどうかで、信仰が左右されるということがないでしょうか。自分の気持ちに合えば満足だし、自分の気持ちに合わなければ不機嫌だし、そんな自分の気持ちにとらわれやすい傾向というのが、私たちにはないでしょうか。それは非常に不安定な信仰ということになるんではないでしょうか。状況の変化や、人の言葉や態度に、すぐに振り回される、まさにここに出てくる、風に吹き回されたり、波に弄ばれたりする、そんな不安定な信仰になっていないだろうかということですね。私たちは、自分にとって何が大事なのか、何が今、自分にとって必要なのか、なかなか判断できないという、そういう傾向持っていることがあるんじゃないかと思います。
教会では、聖書の言葉が大事ですよということを、繰り返し教えられます。毎日聖書を読みましょう、御言葉は皆さんの魂の糧です。この御言葉によって成長していくんですよ、ということを何度も何度も繰り返し教えられますね。これではなかなか信仰は成長していかないんではないでしょうか。また教会に来て、祝福されることは大好きです。祈ってもらうことも大好きです。恵みを頂きたいです。でも奉仕するのはちょっと、献金も遠慮したいです。捧げるのはあんまり積極的ではありません、という、そういう信仰形態も時々見られるかなと思いますね。自分の好きなことばっかりに気持ちが向くんです。もらうのは大好きです。お年玉でも、プレゼントで、もらうのは大好きですね。でもなかなか捧げようとしない、なかなか神様に捧げようとしない、これでは、バランスの取れない、偏った信仰者になるなってしまうんではないでしょうか。そんな子供っぽさをどこかに抱えながら、信仰生活をしているということが私たちにはないでしょうか。救われて間もないし信徒であればそれも可愛いかなと思いますけれども、しかし救われて何年も経っていて、洗礼を受けて何年も経ってるのに、いつまでもその状態ということであれば、やはりこれは心配しなければいけないということになるんじゃないかなと思います。やはり私たちは成熟を目指していかなければならない。聖書は私たちに、「もはや子供ではなく」という風に教えている。そんなところに、心を留めたいなと思います。
是非私たちは、成熟を目指して、子供から大人に向かって、成熟を目指して歩んでゆく者になろうではありませんか。そのような主の励ましに感謝したいと思います。
(2)理由2.
なぜ私たちは子供のままでいけないんでしょうか。二つ目の理由を指摘したいと思います。
それは人の悪巧みや、欺きや、悪賢い策略が、私達を狙っているからであります。
もう一度14節の言葉を読んでみたいと思います。
「こうして私たちはもはや子供ではなく、人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略から出たどんな教えの風にも、かき回されたり、弄ばれたりすることがなく」と、書いてあります。
ここでパウロが使っている言葉の連続に、私たちは注目したいと思います。
人の悪巧み、欺き、悪賢さ、策略、一つ一つの言葉が、私たちに最大限の注意を喚起する言葉であります。そして重大な危機が私たちに迫っているんだということを警告している言葉ですね。一つ一つの言葉がそういう言葉です。しかしその言葉を四つもつなげているというところに、パウロの危機感が表されているということを、私たちに感じさせられる言葉ですね。
そして皆さんの中には、使徒の働き20章の記事を思い出す方が、もしかしたらおられるかもしれない。パウロがミレトスという町に、エペソの教会の長老たちを呼び出して、お別れをするという場面がそこに出てきます。それはもう、涙の別れだったという、そういう場面なんですけれども、その箇所の中で最後にパウロは、エペソの教会の長老たちに、「自分自身と群れの全体に気を配りなさい。神はご自分の血をもって買い取られた神の教会をしっかり守りなさ」ということを言うんですね。教会をしっかり守るようにというのが、この最後のメッセージだったわけです。でもその続きの箇所で、こんなことをパウロは言っているんです。
「私は知っています。私が去った後、凶暴な狼があなた方の中に入り込んできて、容赦なく群れを荒らしまわります。」使徒の働き20章29節です。
「私は知っています。」パウロも察知してたんですね。その危険が迫っているということ、私が去った後、凶暴な狼が、あなたがたの中に入り込んできて、容赦なく群れを荒らしまわる、そんな危険が迫ってるんだよという、それが最後のエペソの教会の長老たちに対する、お別れのメッセージだったわけですね。そしてパウロは、今ここで、パウロはエペソの教会に手紙を書いている。ですからの使徒の働きの20章と、この聖書の箇所が繋がってるわけですけれども、これが当時のエペソの教会を取り巻く状況でありました。教えの風に吹き回されたり、弄ばれたりする危険が、たえずエペソの教会に迫っている、そういう危険の中に置かれているということを、パウロは危機感をもって感じているわけです。その危機感が、この言葉中にも表されております。
人の悪だくみや、人を欺く悪賢い策略から出た、どんな教えの風にも吹き回されたり、弄ばれたりすることがないようにということが、ここで述べられています。一筋縄ではゆかない、そういう相手である。
つまり、危険な風には見えないということです。非常に危険が迫ってるんですけれども、全然危険なようには見えないということなんです。その人たちはもしかすると、とても優しい人たちかもしれないです。その人たちはもしかすると非常に熱心な、情熱がある人たちかもしれない。その人たちはもしかするととても魅力的な人達かもしれない。私たちが安心して心を許してしまうような、そんな安心感を抱かせるような人たちかもしれない。しかしその影響力は破壊的です。容赦なく群れを荒らしまわる。イエス様も以前、弟子たちに、こんなこと教えておられました。
「偽預言者たちに用心しなさい。彼らは羊の衣を着てあなた方のところに来るが、内側は貪欲な狼です。」イエス様も弟子たちに、かつてそんなこと教えてたことありました。偽預言者たちは実は狼なんだけども、格好は、羊の格好してるから、その姿でやってくるから、気をつけるように、用心しなさいと、イエス様も教えてくださっていた。このような危機がエペソの教会に対する、差し迫った現実的な危険であったということが、聖書を通してわかるわけであります。
だからパウロはここで、あなたがたはもはや子供であってはいけないんだよという事を言ってるわけです。危険が迫ってるんです、それはタクラミなんです、欺きなんです、悪賢い策略なんです。敵は私達よりも一枚も二枚も上手なんです。だから不安定で騙されやすい子供のままでいては、いけないんだよと、ここで語られていることに、私たちは注目しなければいけない。
(3)今の時代へ
今の時代も状況は全く同じであるということを覚えたいと思います。最近この日本では、年配の方々の財産を狙う犯罪が多発しているということを、皆さんはニュースで聞いてると思いますね。この一週間の間にも、そういう事件があったようですけれども、その手口がだんだん巧妙になってきているなと思いますね。電話で何か色々調べたりしたりとかして、非常にに巧妙になってきている。本当に気をつけなければいけないですね。
でも、霊的な意味でも全く同じです。私たちは、いつでも狙われてるんです。私たちの敵であるサタンは、いつでも私たちを狙っていますね。そして教会の群も容赦なく荒らし回ることを、絶えず狙っている。少し空きがあれば、必ず攻撃してくる。そしてその攻撃は実に巧みです。欺きに満ちています。悪賢い策略です。
あなたは創世記3章で、エバがどのように蛇に騙されたかを、聖書を読んで知ってると思います。あの3章の記事は、とっても大事な記事ですね。どうしてかと言うと、サタンが人を騙す時の手口が、そこには示されているからですね。サタンがどうやって人を騙すかというその方法が、創世記3章の中に出てくるんです。ですから、あの箇所は非常に大事な箇所であります。
エデンの園の中央にある木の実について、蛇はエバに語りかけるんです。
「園の木の、どれからも食べてはならないと、神は本当に言われたんですか。」本当にそんなひどいことを、神様はおっしゃるんですか、というような感じでですね。エバに迫って、エバは、しっかりと神様の言葉に信頼していたはずなのに、その神の言葉の信頼に対する疑いを引き起こしてるんです。本当に神様は、そんなことを言ったんだろうかと、疑いを引き起こして、そして神の御言葉に対する信頼から、自分の心へと信頼 を移しているということですね。そういうことが、そこに出てくることですね。非常に巧妙です。そのようなサタンの悪賢い策略に、いつも私達は狙われているということを自覚しなければいけない。
「教えの風」と、ここに出てきますけれども、風はどこから吹いてくるか分かりません。いつでも吹いてきます。今まで穏やかだなと思ってたのに、突然風が吹いてきたりしますね。どこから吹いてくるかわからない。教えの風は、いつでも、どこからでも、吹いてくる。そのような教えの風に吹き回されたり、弄ばれたりすることがないように、私たちは本当に自覚して、絶えず成熟を目指して歩んでいかなければいけないんです。御言葉をしっかりと蓄えて、そしてそれによって成長していかなければいけない。その危険が迫っているということ、いつでも狙われているということを、私たちは覚えようではありませんか。そのようにして霊的な意味で、私たちは、いつまでも子供のままではなくて、成熟を目指して歩んでいくものでありたいと思います。
2.愛を持って真理を語る大人
さて私たちは14節を終えて、15節に進みたいと思います。パウロはここで一転して、15節では、今度は前の方に回ってですね、こっちまでおいで、ここが、あなたがたのくる目標だよ、その目標はキリストなんだよ、キリストに向かって成長しなさいと、前から私たちを導いてくださっております。今度は私達は、前から引っ張られたいと思いますね。そのような導きを与えられていることを覚えながら、15節を味わっていきたいと思います。
そこで、私たちの目指すべき、「大人の姿」ということを指し示しております。それはどのような姿でしょうか。パウロはここで、私達が目指すべき大人の姿というものを、私達に示しています。15節を読んでみたいと思います。
「むしろ愛をもって真理を語り、あらゆる点において、頭であるキリストに向かって成長するのです。」
大人として私たちが目指していかなければならない姿というのはどんな姿でしょうか。それは「愛をもって真理を語る。」そのような姿である、それが大人としての成熟した姿であるということが、ここで示されています。
二つの事がここで教えられております。
一つは愛を持ちなさいということですね。そしてもう一つは真理を語りなさいということです。これら二つがバラバラではなくて、一つでありなさい、愛を持って真理を語りなさい、これは一つなんだよ、一つであるというところに、大人としての成熟があるということが教えられています。
私たちはどうでしょうか。どちらか一方に偏りやすい、傾きやすい、そういう傾向があるのかなというふうに思います。愛があっても、真理を語らないか、愛がないのに真理を語ってしまうか、どっちかに偏りやすい、傾きやすい、そんな傾向があるかなというふうに思いますね。
でも聖書では、私たちに、どちらも両方必要だということを教えているということを心に留めたいと思います。
(1)真理を語る
まず、私たちは真理を語るということを心に留めたいと思います。ここで「真理を語りなさい」と教えられております。ここで「真理を語り」と、訳されているギリシャ語本文の言葉は、真理を保てとか、真理でありなさいという、そういう意味の言葉です。ですから、ただ真理の言葉を口にすればいいという、そういう程度のことではなくて、私たちがしっかりと、真理の土台に立って、真理に生かされるように、その上で、真理を告白するようにと、勧められているということがわかりわかります。
(2)相対主義との闘い
これは現代の私たちにとって、非常に大切な課題ではないだろうか、という風に思わされます。今は真理などという、難しいことを言うのは、毛嫌いされるような、そんな世の中になっているんじゃないかなと思います。むしろ、「色んな考え方があっていいんじゃないでしょうか、それぞれの立場が尊重されるべきではないでしょうか」、というですね、そういう考え方が時代の主流になってると思いますね。
相対主義という風にいますけれども、全てが相対的なものである、絶対的なものはこの世にはないんだという、そういう価値観の中で、この世の中が回っているんじゃないかなと思います。そんな時代の影響が、時々教会の中にはびこってきたりすることがあるので、私たちも注意が必要だと思います。とにかくみんなで仲良くやりましょう 、あまり真理とか、何を信じているかとか、そういうことの吟味はそんなにしなくても良い。それぞれの立場があるんだから、みんなで仲良くやりましょうという感覚が、時々時代の感覚として、教会の中にも流れてくることがあるかなと思います。
でもそうなるとですね、教会は、どんどん真理から、それていきますし、清さが失われていきます。命が失われていきます。教会が教会でなくなってしまいます。
イエス様は言われました。「私が道であり、真理であり、命なのです。私を通してでなければ、誰も父のみもとに行くことはできません」とおっしゃっています。
イエス様が真理です。イエス様以外に神様のもとに行く道は無いんです。そしてペテロも、使徒の働きの4章12節でこんなこと言っております。
「この方以外には、誰によっても救いはありません。天の下で、この御名の他に、私達が救われるべき名は、人間に与えられていないからです。」
この方以外に、イエス様以外に、救いはないんだよ、イエス様が真理なんだよということを、はっきりと私たちに語っている。この確信が教会の中で、もし揺らぐようなことがあったならば、それはもはや教会ではなくなってしまうということですね。私達は、その危険が迫っているという事を、本当に意識しなければいけないと思います。
そして実は今、本当に真理が求められている世の中ではないでしょうか。今、とても便利になりました。たくさんの情報が溢れています。地球の裏側の人とも、瞬時に繋がることが出来るくらい、考えられないくらい、便利な世の中ですね。本当に情報がたくさん溢れているけれども、しかし人間関係はどんどん希薄になっている。
何でもあるのに、欲しいものはすぐ手に入るのに、人々の心は深いところでは満たされていない。そして偽りの情報、嘘の情報に、非常に人々は騙されやすくなっている、流されやすくなっている。何か、人々の生きる基準になるものがないですね。何でもあるんです。何でも出来るんです。けれども、その自分の人生を律していくための、基準が無い。そしてその基準を生み出すところの真理が無い。
ですから 、なんとなく漠然とした不安が今の世の中を覆っているのでは無いでしょうか。今こそ私達は心理に堅く立って、真理を語っていかなければいけない。それが教会に与えられた大切な務めであるということを覚えたいと思います。もし教会が真理を失ったら、そして教会が真理について口を閉ざしたら、いったい誰が真理を知ることができるんでしょうか。そのことが、私たちに与えられている、大切な務めであるということを、ぜひ覚えたい。そういう意味で私たちは成熟していきたいというふうに思います。
(3)愛をもって語る
同時に、私たちは愛をもって真理を語らなければならない。真理を語る時に、そこに愛が伴っていなければならない。そういうことも、ここで教えられていることを、合わせて覚えたいと思います。
かつて私が神学生だった時、神学校の先生から聞かせて頂いた、忘れられないエピソードがあります。神学校では必ず、夏に、キャラバン実習伝道というプログラムがあります。どこか一つの教会で、一週間寝泊まりをしながら、そこで教会のお手伝いをし、実習伝道をするというプログラム、訓練の時があります。そのような訓練の機会が昔からあったそうですけれども、ある年に神学生たちが、ある地域の教会に遣わされて行きました。その時に訪問伝道して歩くという、そういう時があったそうです。神学生たちが、一軒一軒訪ねて行って、そこで福音を語るという、そういうことがあったそうです。ある時一人の神学生が、その家を訪ねました。福音を伝えに行ったんだと思うんですけれども、最初は福音を語っていたんだと思うんです。でもだんだん、キリスト教に関する議論になったんだそうです。そしてしまいには何と喧嘩になってしまった。最終的にはその家を、喧嘩別れをして出てきてしまったという、そんなことがあったから、君たちはそうならないように気をつけなさいと、そのように神学校の先生に教えられたんです。
この神学生は、一体その家に何をしに行ったんでしょうか。福音を伝えに行ったんではなかったんでしょうか。それとも自分の正しさを主張するために行ったんでしょうか。私たちも気をつけていないと、そういうことになりがちではないかなと思いますね。
真理を知っているということが、知らず知らずのうちに、プライドになってしまうことがあります。福音を伝えているつもりが、いつのまにか自分の正しさを主張しているということになりがちです。自分の正しさによって、結果的には相手を打ち負かしてやりたいという、そんなことをしてしまうことがありますね。
それでは福音は全く伝わらないんではないでしょうか。聖書にもこんな言葉が出てまいります。
「たとえ私が、人の威厳や、御使いの威厳で話しても、愛が無ければ騒がしいドラや、うるさいシンバルと同じです。たとえ私が、 預言の賜物を持ち、あらゆる奥義と、あらゆる知識に通じていても、たとえ山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、私は無に等しいのです。」
第1コリント13章1〜2節ですけれども、どんなに偉大な、どんなに立派な信仰を私たちが持っていたとしても、どんなに素晴らしいメッセージを語ることができたとしても、もしそこに愛がなければ、やかましいだけです。もうそれは聞き苦しい騒音です。そして何の意味もない。そのようにコリント書の13章で教えられております。私たちには愛が必要であるということ、愛を持って真理を語らなければならないということを、ぜひ心に留めるものでありたいと思います。
3.まとめ
「愛を持って真理を語る」とは、どういうことでしょうか。
それはその人の側に立って、話をするという事、その人の最善を願って、真理を語るということですね。その人のために、時にはその人を傷つけてしまうことあるかもしれない。
愛をもって、真理を語るということは、何でもその人の立場を認めてあげるということではないですね。時にはその人にとって、聞き苦しいことを話さなければならないこともあるかもしれない。でも信じるんです。必ずその人は、立ち直る。必ず成長する。必ず神のものにされる、ということを信じながら、祈りながら、語るんです。そのようにして、愛をもって真理を語っていくということが、私たちに求められているということを、ぜひ覚えたいと思います。
子供を全く叱らない親がいたらば、それは愛のない親だと思いますね。もし本当に子供を愛しているのであれば、必ず叱ると思いますね。本当に真剣に叱ると思います。親は子どもの最善を願ってるからです。
そして実は、この姿というのは、イエス様の姿です。イエス様は、愛をもって真理を語りました。その姿が、福音書の中にたくさん出てきますね。イエス様は、弟子たちの事を、本当に愛を持って、真理を語って、育てました。そのような姿勢で人々と関わられました。それはイエス様に見られる。姿だから、私たちの目標は、イエス様です。パウロがここで語っているように、私たちは、頭であるキリストに向かって成長するのです。目標はイエス様ですね。その目標がちゃんと示されています。その目標を目指して、私たち成長していかなければならない。願わくは、私たちが御言葉によって、日々養われ、子供から大人へと成長を経験することができますように。そして愛を持って、真理を語ることができるように。そのようなイエス様の姿へと、一歩一歩近づけられていこうではありませんか。頭であるキリストに向かって、成熟していくことができますように、私たちは共に心を合わせて祈り、励まし合っていきたいと思います。
お祈りをいたします。恵み深き私たちの父なる神様。あなたは、良き羊飼いであられ、私達を後ろから前から励ましてくださり、導いてくださり、正しい方向へ導いてくださる方であることを覚えて、ありがとうございます。どうぞ私たちが成熟を目指して歩んでいくことできるように、弱い私私たちを励まし導いてくださるように、そして愛をもって真理を語ることができるように助けてくださるように、お願いいたします。御言葉を心から感謝し、イエス様の御名によってお祈りをいたします 。9