イエス・キリストをより良く知るために

イエスの12人の弟子たち

 
この記事を書いている人 - WRITER -
若井 和生師
若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。

マタイの福音書10章1~4節

イエスは十二弟子を呼んで、汚れた霊どもを制する権威をお授けになった。霊どもを追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいを癒やすためであった。十二使徒の名は次のとおりである。まず、ペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、ピリポとバルトロマイ、トマスと取税人マタイ、アルパヨの子ヤコブとタダイ、熱心党のシモンと、イエスを裏切ったイスカリオテのユダである。    聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会 

1.十二弟子の選出

今までマタイの福音書の8章9章のメッセージに耳を傾けてきましたけども、今日から10章に入りますが、また新しいテーマになります。8章から9章では、イエスキリストの数々の御業について教えられていましたが、10章では弟子の選出と発見というテーマになります。

今日の箇所で、イエス様が12弟子を選ばれるそういう内容ですけども、イエス様がなぜこの時点で12弟子を選ばれたのか?その理由は今までの文脈の流れから明らかだと思います。

イエス様は全ての街や村を巡り福音を伝えようとされました。また「群衆を見て、羊飼いのいない羊のように弱り果てて、倒れている人々を見て深く憐れまれた」と書いてあります。その過程でイエス様は深刻な人材不足を感じられました。イエス様は基本的に、一人で務めを果たしておられました。ただでさえたくさんの人々がイエス様のところに押しかけてくるのに、イエス様自ら、さらにすべての町や村をめぐり、多くの人と出会われました。そして主のみわざをなされました。福音を伝えられました。しかしとても一人では全ての事をやりきれませんでした。まさに「収穫は多いが、働き手は少ない」という状態だったわけであります。前回イエス様が弟子たちに語られた、「収穫は多いが、働き手が少ない」ということを私たちは学びましたけども、これはイエス様の体験から生み出された切実なイエス様の祈りであったということであります。そこでイエス様はここで12弟子を選ばれました。

弟子と言うと私たちはすぐ12弟子を思い浮かべるわけですけれども、おそらくイエス様に付き従った弟子と呼ばれる人たちは、他にもたくさんいただろうと考えられます。でもその中からイエス様は12人の自らの弟子として特別に選ばれた、それが今日の聖書の内容です。

2.十二弟子

鎌倉殿の13人というドラマが今始まっておりますけれども、イエス様の弟子は12人ですね。どうして12人だったんでしょうか?12という数字は、旧約聖書に出てくるイスラエル12部族を象徴的に表しております。つまりイエス様はこの12弟子をもとにして、新しいイスラエルを築き上げようとしているということがわかります。神様の救いの御業、そのご計画は、新しい段階に入ったということが言えるわけであります。

イエス様に選ばれた12人の弟子たちって一体どんな人だったんでしょうか?その12人の名前が2節から4節にかけて出て参ります。読んでみたいと思います。

十二使徒の名は次のとおりである。まずペテロと呼ばれるシモンと、その兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、ピリポとバルトロマイ、トマスと取税人マタイ、アルパヨの子ヤコブとタダイ、熱心党のシモンと、イエスを裏切ったイスカリオテのユダである。

ここに12人の名前が出てまいります。そのほとんどの人たちは、ガリラヤ湖を中心としたガリラヤ地方出身のいわゆる田舎者達と言って良いと思いますが、田舎者で且つ個性豊かな一人一人であったと言って良いかと思います。この12人をイエス様は「呼んだ」と、1節に出てきます。呼び出して、次のように指示を出されました。1節、

イエスは十二弟子を呼んで、汚れた霊どもを制する権威をお授けになった。霊どもも追い出し、あらゆる病気、あらゆる患いを癒すためであった。

つまりここに出てくる内容は、イエス様が今までしてきたことですよね。イエス様がそれまでなされてきたお働きを、弟子達にも出来るように、必要な権威と力を弟子たちにお与えになったということであります。イエス様の今まで一人で全部ご自分でやられてきたそのお働きを、担う人材として、この12人が特別に選ばれたということがわかります。「弟子」っていう言葉、ギリシャ語では、「マセテス」っていう言葉ですが、これは「マンサノー」という「学ぶ」という意味の言葉からきております。つまり「弟子」というのは「学ぶ人たち」という意味がそこに含まれております。

イエス様の弟子と言ったらそれは、イエス様から学ぶ人たちという意味です。弟子たちはイエス様と共に歩みながら、イエス様の教えを直接聞きました。 イエス 様のなされる御業を直接見ました。イエス様が人々とどのように関わられるか、そこでどんな言葉をかけられるか、よく見ながら、彼らはイエス様の教えについて、その生き様について、イエス様から直接学んだ人たちです。またイエス様もあえて、弟子たちをそばにおいて、ご自身の姿を見せられたように思います。

今まで8章・9章と学んできたんですけども、その中でイエス様が沢山の御業をなされました。困った人たちがたくさんイエス様の所にやってきて、イエス様がその方々と向き合って、そこで病を癒したり、罪を許したり、悪霊を追い出したり、死人を蘇らせたり、いろんな御業をなさって、基本的にはイエス様と、そしてイエス様が関われた人々との、その間の話なんですけども、私たちは聖書を読んでいて、さりげなくそこにちゃんと弟子達がいたなっていうことに気づかされますよね。弟子達がいつもいるんですね、側に。イエス様のすぐそばにいます。そしていつもちゃんと、やっぱり見せていたんだと思いますね。どのように福音を語ったらいいのか、どのように人々と関わったら良いのか、どのように人々に仕えたらいいのか、ということをイエス様は弟子達に見せていたということであります。その時々で福音を伝えられたのはイエス様でしたけども、その様子を弟子達もしっかりと見ていました。いつも、すぐに弟子達に何かをさせませんでしたね。最初は見せて、そしてしばらくともに弟子たちと過ごされた後、十分な準備を経た上で、12弟子をここで選ばれ、そしてイエス様によって権威を持って、送り出しているという、そういう順番になっているということが分かると思います。

弟子達にとって、今まではただ見て、聞いて、感動していただけだったかもしれません。本当にイエス様は素晴らしいなと思ってついてきただけだったかもしれません。でもこの時から今まで見たり聞いたことを、自ら実践する学びが始まったと言えるんではないでしょうか。

イエス様の御言葉を聞いて、イエス様の御業を見て感動して、それで終わりと言うことではなくて、教えられた事を自ら実践するための学びが、ここから始まりました。そのようにして弟子たちの学びは続いていったということがわかります。ですので「使徒」は「イエス様から学ぶ者たち」であるということを私たちは覚えたいと思います。

私たちもこのようにしてイエス様の聖書の箇所を読んで、学んでますけれども、そして本当にイエス様は素晴らしいなあ、イエス様は、このように人々に仕えられたんだって教えられます。教えられたことを実践する学びが、私たちにも課せられているのではないでしょうか。それが弟子としての歩みであるということを、ぜひ覚えるものでありたいと思います。

また12弟子にとっての、最大の学びと言ったら、一体何だったでしょうか?

それは「互いに愛し合う」という学びであったということも心に留めたいと思います。どうしてかと言うと、イエス様はヨハネの福音書の13章34節で、

私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。

と命じられているからであります。 この12人の顔ぶれは、ただ名前だけ出てますので、私たちはその人間関係がどうだったかというのは、詳しく知ることはできませんけれども、でも聖書に記されている記述を読みながらですね、この顔ぶれはいかにもまとまりのない、チームワークの悪そうな顔ぶれだなあという感じがします。その最たる例は取税人マタイと熱心党のシモンが、一緒にいるということに、一つ表されているんではないかなと思います。ここにマタイって出てきます。これはマタイの福音書を書いたマタイですけれども、つまりマタイは、ここに自分の名前を書いてるわけですけれども、でもその自分の名前を書くときに、ちゃんと取税人マタイって書いていますね。自分が取税人であったという事実を忘れずに書き留めているということがわかります。そしてその後、ちょっと読み進めていくと、熱心党のシモンという人がでてきますね。この人も熱心党ということが、ちゃんと出てくるわけです。

熱心党というのは、過激なユダヤ民族主義者たちの集団です。当時ユダヤはローマ帝国に支配されておりました。そのローマの支配からの独立と開放を求める民族主義者たちが、当時たくさんいたわけですけれども、その中でもとりわけ過激だったと言われているのが、この熱心党の人達ですよね。一方取税人というのは、人々から税金を集めてローマ帝国に納める仕事をしている人です。ですからローマ帝国に協力をしている人達ですよね。熱心党員から見ると、ユダヤの国の裏切り者に見えた、そういう人々だったと思うんですよね。つまり政治信条がまったく逆でが、水と油のように決してまじり合わないような顔ぶれがこの中に含まれているということであります。

聖書にはこのシモンのことについては、ほとんど出てこないので、私たちは分かりませんけれども、マタイにはこのシモンがいることが、とてもやりにくかったんではないかなというふうに考えます。また他の弟子たちも、本当に我の強い一人一人で、お互いにライバル意識を燃やしあっていたということが、聖書を読んでいるとわかりますよね。誰が一番偉いのかと議論しているようなことがありました。イエス様の一番弟子になりたいと、互いに競い合っているような、そんな間柄でありました。イエス様がいるからこそ、かろうじて成り立ってはいるものの、イエス様がおられなくなってしまったら、すぐにバラバラになってしまうだろうという、そういう脆い集団であります。

つまり「互いに愛し合う」のが極めて難しい、そんな12人でありました。どうしてイエス様は、こういう顔ぶれの弟子を集めたのかなと、不思議に思うような顔ぶれですね。

もし私がサッカーの監督か野球の監督だったら、もっとチームワークの良さそうな顔ぶれを集めるような感じがしますけれども、全くそうではない。もう本当にバラバラの人たちを、あえて集めているように見える、そんな顔ぶれだった。でもイエス様はあえてそのような人たちを集めたということだと思います。それは彼ら一人ひとりが、愛の乏さを知るということ、とても人を愛せないということを知るということ、そしてまさにイエス様の愛によって、互いに愛し合うことを学ぶために、そのような人々が集められていたと考えられます。イエス様も言われました。

私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。

まさに彼らはイエス様の愛を経験することによって初めて、互いに愛し合うことを学びました。教会は愛の学校と呼ばれております。私たちもここで実は、自らの愛の乏さを学びます。とても自分では人を愛することができない。自分自身の愛の乏しさを学びます。そしてまさにイエス様に愛されて、イエス様の愛を経験することによって、自分自身の愛の乏しさを学びます。そしてまさにイエス様に愛されて、イエス様の愛を経験することによって、互いに愛し合うことを学んでいく、そのような学びが今も続いているのではないでしょうか。私たちもぜひイエス様から学ぶものでありたいと思います。もし学びを軽んじる人がいるならば、その人は弟子として用いられることはないでしょう。聖書の学びを大切にし、その御言葉に生かされたいと願う人は、イエスキリストの弟子として、豊かな働きをすることができます。私たちもイエス様からよく学びたいと思います。イエス様の教え、イエス様の御業、イエス様の人々に対して見せてくださったその姿から、私たちも学ぼうではありませんか。そして学んだとおり実践できるように、それもまたイエス様が与えてくださる学びです。そのようにして私たちもイエスキリストの弟子として成長していくものでありたいと思います。

3.十二使徒

「十二弟子」は、同時に「十二使徒」と呼ばれていることが分かると思います。1節では十二弟子と紹介されている彼らが、2節では十二使徒という名前で呼ばれていることがわかります。十二弟子は同時に十二使徒であったということであります。使徒という言葉は、遣わされた者達という意味があります。一方に彼らを遣わす人がいて、他方に彼ら、遣わされる人たちがいるということです。まずは彼らを遣わすのはイエス様です。5節を見ると、「イエスはこの12人を遣わす」って書いてありました。「遣わした」って書いてありますけども、まさにこの12使徒は、イエス様によって遣わされていく人達です。イエス様の権威を受けて、イエス様の権威のもとに遣わされていく人たち、そしてその一方で彼らは、彼らが遣わされていく人々がいました。それは日々の歩みの中で、彼らが出会う人々のことです。それらの人々に、神様の祝福を届けるために、福音を伝えるために、彼らはイエス様の権威の下に遣わされていったということであります。

私たちも同様に、私たちが出会う人々のもとへ遣わされていきます。私たちが属している家庭の中で、職場の中で、学校の中で、地域の中で、私たちは多くの人々と出会います。私たちはそのような人々と、ただなんとなく出会っているのではなくて、その人々のもとに遣わされているっていう事です。家庭や職場や学校や地域へと、イエス様の権威によって、送り出されているっていう、そのような健全な派遣意識というものが私たちには必要ではないでしょうか。特にこの世にあって私たちが、より積極的にこの世と関わっていくために、このような健全な派遣意識というものが私たちには求められているということを覚えたいと思います。

私が岩手の親元から生まれて初めて離れたのは、私が大学生になった時でした。私は静岡の大学に入りました。でもそれはまだできたばかりの新しい大学でした。私は生まれて初めて親元を離れましたので、少し羽を伸ばそうと思いまして、自由なのびのびしたキャンパスライフを過ごしたいと願っておりました。静岡に移ってしばらく経った後でしたけども、一人の方が私のことを尋ねてきました。その方はキリスト者学生会「KGK 」という働きを、静岡でサポートしている一人の姉妹でした。その方が私に会いに来たんですね。そして私の顔を見るなり言ったんですね。「私は新しく出来たばかりのこの大学に、クリスチャンの大学が起こされることをずっと祈ってきました。若井さん、あなたがその祈りの答えだと思います。」ってそういう風に言われました。私がその大学に入学したっていうことが、どっかから伝わったみたいで、それでわざわざ私を訪ねてきたということでありました。その話を最初に聞いた時私は、正直迷惑な話だなと思いましたね。あんまり乗り気ではありませんでした。でも嫌だともはっきりと言うことも出来ず、「少し考えさせてください」という曖昧な返事をしてその時は対処したかなと思います。でも非常に積極的な方でしてですね、私が行って助けるからといってですね、大学にまで乗り込んできて、サポートしてくれるっていうそういう人でした。そういうサポートも頂いて、そんなに乗り気ではなかったんですけども、学内の中でクリスチャンのグループを立ち上げました。クリスチャンといってもその時、私一人しかいなかったんですけれども、まず祈りから始めましょうっていうことで、「祈り会」を初めてとして、「聖書を読む会」というグループを立ち上げて、友達を誘って一緒に聖書を学ぶようなグループを立ち上げました。でも最初はほとんど誰も来ませんでした。何のためにやってるのかな?って、なんかすごく疑問を感じるようなこともあったんですけれども、でもそういう経験が与えられてきました。しばらく葛藤の日々が続いたのですが、でもだんだん私は 分かってきましたね。私は自分でこの大学に入ったのではないということ、神様から導かれてこの大学に遣わされてきたっていうこと、そしてこの大学で必要な学びを納めるため、そして必要な訓練を得るため、さらに大学に神様の祝福をもたらすために、神様から遣わされてきたんだという、そのような自覚を少しずつ持つように変えられていきました。そうするとだんだん大学生活楽しくなってきたんですね。そして充実したものとなってきました。それで、十分ではありませんでしたけども学内で伝道したり、また友達のために祈ったりする機会が与えられました。そのグループハ、私が卒業した後もずっと継続されて、その後、そのグループを通して救われた学生達も起こされてきたっていうことも、後で知らされました。そのようにして私の大学生活は祝福に満ちたものと変えられたわけであります。

私達は時々、自分の置かれた境遇に満足できずに、不平不満をこぼしてしまうことがあるかなと思います。そしてもっと快適な環境を願うこともあるかなと思います。そんな新しい導きを主が与えてくださるということもあると思います。ただ、どのような厳しい状況の中にあっても、健全な派遣意識をもし持つことができたならば、もしかするともっと積極的に、もっと喜んで、その環境と関わっていく道が開かれることがあるのではないかと考えます。神様は今、どうしてかわかりませんけれども、このところに、この場所に、私を置いてくれた、私を遣わしてくれたと思うことができたならば、そこに何か計画があるかも知れない、何か神様がさせようとしていることがあるのかもしれない、そしてそこで出会う人がいますね。いろんな人々と出会う人がいます。この人々のところに、もしかしたら主は私を遣わせてくださっているのかもしれない、そうもし思うことが出来たならば、より積極的より喜んでその人と関わり、その環境と関わっていくことできるんじゃないでしょうか。そのような健全な派遣意識というものを、もし私たちが持つことができたならば、私たちはより積極的にこの世で生きていくことができるんではないかなと思うんですよね。イエス様は、私達をも、色んな所に遣わしてくださっているのではないでしょうか。皆さんの置かれている家庭があります。職場があります。学校があります。地域があります。そこで出会ういろんな人たちがいます。そういう人々のところに主が遣わしてくださると知るならば、私たちはそこで祈りながら、その人々にお仕えしていくことができるのではないでしょうか。主にお仕えしていくことができるのではないでしょうか。そのようにして主が私たちを遣わしてくださっているということを心に留めるものでありたいと思います。

4.むすび

イエス様の弟子になるなんて、とてもおこがましいと思ってしまうような私たちかもしれません。イエス様の弟子としては、本当に力不足で、何もできないという風にも感じてしまうような時もあるかなと思います。でもパウロは第1コリントの手紙1章27節28節でこのように教えています。

しかし神は、知恵あるものを恥じ入らせるために、この世の愚かな者を選び、強いものを恥じ入らせるために、この世の弱い者を選ばれました。有るものを無いものとするために、この世の取るに足りないものや見下されているもの、すなわち無に等しいものを神は選ばれたのです。

神様はこの世の弱い者たち、この世の取るに足りない者たち、そして無に等しい者たちを、あえて選ばれたと聖書に書いてありますね。それはそのような取るに足りないものたちを通して、神様の力が豊かに表されるためであるということであります。またヨハネの福音書の15章16節にもこのように言っておられます。

あなたがたが私を選んだのではなく、私があなたがたを選び、あなたがたを任命しました。それはあなた方が行って実を結び、その実が残るようになるため、またあなた方がわたしの名によって父に求めるものを全て、父が与えてくださるようになるためです

私たちがイエス様を選んだのではなくて、イエス様が私たちを選んでくださった。そして私たちを任命してくださったと教えられています。それは私たちが行って、その行ったところで実を結び、その実が残るようになるためであると約束されている。私たちの働きの実を見ることができるように、主が約束をしてくださっているのではないでしょうか。またそのために私たちが主に求める時には、父なる神様がちゃんとそれに応えて、必要なものを満たしてくださるという約束もそこに加えられている。そんな約束と共に私たちが遣わされているならば、そこには本当に大きな祝福が待っているのではないでしょうか。私たちはこのようにして主が選んで下さった恵みに感謝しながら、遣わされたところで、主が共にいてくださる恵みを味わいながら、主に信頼して祈り、そしてそこで祝福を見るものでありたいと思います。ここから共に遣わされていこうではありませんか。お祈りをいたします 。

この記事を書いている人 - WRITER -
若井 和生師
若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。

- Comments -

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください

Copyright© 聖書の言葉の余韻に浸る , 2022 All Rights Reserved.

You cannot copy content of this page