イエス・キリストをより良く知るために

死につながれていることなど、あり得ない

 
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若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。

使徒の働き2章22~24節

イスラエルの皆さん、これらのことばを聞いてください。神はナザレ人イエスによって、あなたがたの間で力あるわざと不思議としるしを行い、それによって、あなたがたにこの方を証しされました。それは、あなたがた自身がご承知のことです。
神が定めた計画と神の予知によって引き渡されたこのイエスを、あなたがたは律法を持たない人々の手によって十字架につけて殺したのです。
しかし神は、イエスを死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、あり得なかったからです。
聖書 新改訳2017

私たちが今生かされている時代って、今どんな時代なのかなと思います。そして私たちはどんな時代認識を持って歩んでいるでしょうか?私たちに与えられた人生を有意義に生きるためにどんな時代認識を持っているかというのはとても大事なことではないだろうかというふうに思わされております。

聖書によると今は、「終わりの日である」ということが教えられています。

「終わりの日」と呼ばれる時代に私たちは今、生かされているということであります。

「終わりの日」ってどんな日なんでしょうか?またそれはどんな特徴のある時代なんでしょうか?そのことを私たちは前回の礼拝の説教で教えられたことでありました。

 

終わりの日には三つの特徴がありました。

一つはイエスキリストを信じる全ての人に、聖霊が与えられる時代ですね。その信じる全ての人に聖霊が注がれている時代。

二番目に天と地に数多くのしるしや不思議が現れている時代。

そして3番目に、主のみ名を呼び求める者は、皆救われる時代。

そういうことを前回私たちは学びました。どのような人にも救われる可能性が与えられています。ただ主のみ名を呼び求めるならば、その人は必ず救われると聖書に約束されています。パウロの第二コリントの6章2節の中で、

今は恵みの時、今は救いの日です。

と教えています。終わりの日ってそのような恵みのときであり、救いの日である、そのような時代に私たちは生かされているということを覚えあいたいと思います。

そのような「終わりの日」と呼ばれる時代を提示した上で、ペテロのメッセージが続いていきます。

さらに今日はその続きの場面を共に学んでいきたいと思いますが、ペテロは続けてこのように声をあげています。22節、

イスラエルの皆さん、これらの言葉を聞いてください。

このようにペテロは呼びかけました。そこにいる人々に向かって、「イスラエルの皆さんこれらの言葉を聞いてください」、というこの言葉から、人々にどうしても聞いてほしいメッセージがペテロにはあるということがわかります。

前回学んだ14節でも、ペテロは「あなた方に知っていただきたい。私の言葉に耳を傾けていただきたい」、と人々に向かって語っていました。ペテロの中に、もう本当に伝えたくて伝えたくて仕方がないメッセージがあるんですね。本当に聞いて欲しいんです。本当に耳を傾けて欲しいんです。それだけのものを持ってるんですね、ペテロは。それを伝えたいその情熱が14節でも表されていますが、更に22節にも繰り返されているということが分かるんですね。そしてその伝えたい内容の、核心部分に、いよいよペテロが迫りつつあるということに私たちは意識させられます。

ここで伝えたいと思っている一番大切なこと、一番伝えたいと思っていることは何でしょうか?それが今日のメッセージの内容ということになるんですが、その後を読んで行くと、それはイエスキリストであるということが分かるんですね。ペテロが一番伝えたいと思っていることはイエスキリストなんです。イエスキリストを知って欲しいんです。これらの言葉を聞いてくださいというのは、イエス様のことなんですね。福音の中心は、イエスキリストであるってことです。

なぜペテロはこれを一番伝えたかったんでしょうか?

それはイエスキリストは「救い主」だから。イエスキリストを信じる者は、必ず救われるから 。私たちもこんな思いでイエス様を信じ、またイエス様を伝えていきたいなという風に思います。

1.神の子イエス

なぜイエスキリストを信じると、私たちは救われるんでしょうか。

ペテロはここで、救いの根拠について三つの事を掲示しています。そのことを今日ともに確認し覚えあってきたいなと思います。

なぜ人はイエスキリストを信じれば救われるんでしょうか。

第一にイエスキリストは人として来られた神だからです。22節の言葉をお読み致します。

イスラエルの皆さん。これらの言葉を聞いてください。神は、ナザレ人イエスによってあなたがたの間で力あるわざと不思議と印を行い、それによってあなたがたにこの方を証されました。それはあなた方自身がご承知のことです。

このようにまずペテロはイエス様のことを紹介しています。イエス様は当時のイスラエルの人々にはナザレ人イエスという風に知られていました。ガリラヤ湖の近くのナザレという町の出身でしたけども、その出身地をもってナザレ人のイエスという風に知られていた。そしてそのナザレ人イエスによってたくさんの力あるわざと、不思議と、印が行われました。そのことは当時の人たちは、よく知ってたんですね。「あなた方自身がご承知のことです」ってここに書いてあります。イエス様によって当時本当に色々な御業がなされました。目の見えない人の目が開かれ、足の不自由な人が歩き始め、ツァラートと呼ばれる病に犯された人たちが癒され、罪が清められました。耳の聞こえない人の耳が開かれ、死人が生き返り、貧しい者に福音が伝えられました。そのような御業がイエス様によってなされた。

これは旧約聖書の預言の成就でした。かつてイザヤがイザヤ書35章5節6節でこれを予言していましたね。

その時目の見えないものの目は開かれ、耳の聞こえないものの耳は開かれる。その時、足の萎えた者は鹿のように飛び跳ね、口のきけないものの舌は喜び歌う。荒野に水が湧き出し、荒地に川が流れるからだ

預言者イザヤがこのように予言していた。そのメシヤと呼ばれる救い主が、まさにイエスキリストの到来によって成就したということが聖書を通して教えられていることであります。イエス様はまさに、人として来られた神でした。人の姿を取って来られた神ご自身でした。そして神様は、イエス様を通してご自身を表された。神ご自身を現された。

そのようなイエス様の素晴らしい御業を見た人々、経験した人々、たくさんの人が信じましたね。そしてそのことの故に神を崇めました。どうしてかって言うとイエス様は神ご自身だったから。多くの人々はイエス様の姿に、神を見たからであります。

ところがイエス様によってそのような数多くの素晴らしい御業がなされているにも関わらず、信じない人たちもたくさんいたということが、福音書読むと分かります。例えばパリサイ人という人たちは、イエス様に向かってこんなことを言いました。イエス様が「悪霊どもの頭によって、悪霊どもを追い出しているのだ」とそんなこと言いましたね。イエス様によってなされている奇跡を認めながらも、それは悪霊の仕業であるというようなことを言って批判したという記事が出てきます。またイエス様によって行われる印を見て感動しそれを求めるのに、イエス様自身のことは信じないという、そういう人々もいたんですね。お腹の満たしや病気の癒しは求める、そのような神様、イエス様から与えられる祝福は求めるのに、イエス様自身を信じないという人たちもたくさんいた。

そんな時イエス様は心の 中で深いため息をついて、「この時代はなぜ印を求めるのか」と言われて嘆かれたという記事が聖書読んでいると出てきますね。

人々は印を求めるのに、神ご自身を求めない。そういう人々の姿を見て、イエス様はとても悲しまれたんだそうです。

私たちはイエス様をどのような方として認識しているでしょうか?私たちにとってイエスキリストってどのような方なのでしょうか?私たちはイエス様の何を求めているんでしょうか?イエス様から与えられる祝福を求めているんでしょうか?それとも私たちは本当にイエスキリストを自分の「救い主」として信じ受け入れているんでしょうか?

イエス様は人となられた神ですね。私たちを神のもとに導く救い主なんです。この方を是非私たちの救い主としてうけいれようではありませんか。自らの救い主として受け入れ、この方に従って歩んでいきたいと思います。

2.イエスの十字架

イエスキリストを信じるとき人はなぜ救われるんでしょうか?2番目に進みたいと思います。2番目にそれはイエス様が私たちの罪のために十字架にかかって死んでくださったからです。23節をお読みいたします。

神が定めた計画と神の予知によって引き渡されたこのイエスを、あなた方は律法を持たない人々の手によって十字架につけて殺したのです。

このようにペテロはここでイエスキリストの十字架について語っています。そしてここでペテロは十字架のもつ二つの意味について語っているということに気づかされる。

第一番目に神が定められた計画と神の予知によってイエス様は十字架に引き渡されたということがわかります。つまり十字架というのは、神様の御手の中でなされた御技であるということがここで教えられております。イエス様の十字架を神様の側から見るならば、そのように見えるんだと思います。

でももうひとつの面もここに示されている。それは人々はイエス様を律法持たない人々の手によって、十字架につけて殺したとここに書いてある。それは人間の罪がもたらした結果でした。人の側からイエス様の十字架を見るときに、そのように見えるんだと思いますね。

ですから十字架っていうのは二つの側面があるということを、私たちこの御言葉から教えられます。そこでペテロは「あなた方は律法持たない人々の手によって」と書いてあるんですが、この「人々」って誰のことを指しているんでしょうか?ペテロがこういう風に語る時に、ペテロの中では誰のことが想定されていたんでしょうか?

もしかするとイスカリオテユダのことが思い出されていたかもしれないなと思いました。イエス様が十字架によって殺されてしまう最初のきっかけを作ったのは誰だったでしょうか。それは十二弟子の一人のイスカリオテのユダの裏切りだっだったということを私たちは聖書を通して教えられますよね。あるいは、イエス様を本当に心の底から憎んで、不正な裁判にかけてしまった、あの祭司長たち、律法学者たちのことも、もしかすると思いだされていたかなという風に思います。そしてイエス様の事を裁判の時にですね、「十字架につろ、十字架につけろ」と叫んだ群衆たちもいました。そのことも思い出されていたかもしれません。そして最終的にはイエス様に死刑の判決を下したローマ総督ポンテオピラトのことも想定されていたんではないかなという風に思います。イエス様は確かにこれらの人々の不法の手によって、十字架刑によって処せられて葬り去られたという言い方が可能だと思います。

ただペテロはここで、そのような人々の罪を告発しているのではないんですね。ここでペテロが強調しているのは、それらの人々の手によってイエス様を十字架につけて殺してしまった「イスラエルの人たちの罪」をここで問題にしている、告発している、ということに私たち気づかされるんですね。

ここでペテロは「あなた方は・・・殺した」っていう言い方してる。非常に強い言い方だなと思うんですね。あなたがたは律法を持たない人々の手によって、イエス様を十字架につけてイエス様を殺したんだっと言っている。いろんな人の手がそこに入ってきてはいますけれども、色々な人の手段が入ってきてはいるけれども、でも最終的にはそこにいたイスラエルの人々の罪の責任を追及しているって言うことに私達気づかされるんですね。

そこにいたイスラエルの人々の多くは、イエス様の十字架刑に直接手を下していなかったと思います。おそらく多くの人達は傍観者だったと思いますね。

しかしそんな人々に向かっ、ペテロは、あなたがたがイエス様を十字架につけて殺したのですよと訴えている。あなたがたが取り返しのつかないことをしてしまったんですよということを、ここで訴えているわけです。

私たちももしかするとそうではないかなと思うんですね。私たちもイエス様の十字架に直接関わっているわけではないですよね。それは私たちにとっては、あまり関係がないことのように感じられているかもしれない。

でも聖書はそんな「私達の罪」を告発してるんではないかなと思うんですね。私たちの責任を問いかけているんではないかなと思うんですね。私たちの罪がイエス様を十字架につけたという側面があるんではないでしょうか。イエス様は私たち人間の罪の結果として、十字架にかかって死んでいったということを忘れるべきではないという風に思います。

でもそれは十字架の持つひとつの面ですね。一つの側面に過ぎないんです。もう一つ十字架の真理が示されている。それはここの最初の部分に書いてありますが、

それは神によって「あらかじめ定められていた事」なんです。神ご自身の計画の中にあり、神がずっと前から知っていたことなんです。そんな人間の取り返しのつかないような罪そのものを、全てご存知の上で、神様はイエス様を用意して下さって、そのイエス様を十字架にかけて殺してくださった。私たちの罪の身代わりとなって、十字架にかかって、贖いとなってくださることが、もうすでに神の計画の中にあったということを、このみ言葉を通してて知られるんではないでしょうか。

私たちもずいぶん罪をおかしてきたと思いますし、今でもおかしてると思います。その中には本当に取り返しがつかないような罪もあったんじゃないかなと思うんですね。もう戻りたくても戻れない、帰りたくても帰れない、本当に後悔ばっかりという、そういうような人生かもしれない。そういう罪もたくさ犯してきたかもしれないんですよね。でも全部主はご存知なんですね。そしてそんな私たちのために、イエス様が来てくださって、十字架にかかって死んでくださり、私たちの身代わりになって、裁かれて、そのことによって私たちに救いの道を開いてくださった。これはもう全て神様のご計画の中にあったということを私たちはこのみ言葉から教えられたいなという風に思います。

なぜ私たちはイエス様を信じれば救われるんでしょうか ?それはイエス様が私たちの身代わりになって十字架上で死んでくださったからです。是非私たちはこの方を自らの救い主としてしっかり受け入れて歩んでいきたいなと思います。そして許された恵みを味わいながら、感謝しながら、めぐみに生かされていくものでありたいという風に思います。

3.イエスの復活

イエスキリストを信じる人はなぜ救われるんでしょうか?3番目の根拠に進みたいと思います。

それはイエス様が復活されたからです。よみがえられたからです。24節をお読み致します。

しかし神は、イエスを死の苦しみから解き放つて、よみがえらせました。この方が死に繋がれていることなどあり得なかったからです。

このようにペテロは続けて語っています。確かに人々はイエス様を、律法持たない人々の手によって十字架につけて殺しました。もう取り返しのつかないようなことをしてしまいました。その結果イエス様は死なれました。間違いなく死なれました。お墓の中に葬られました。

しかし神はその三日後に、イエス様を死の苦しみから解き放ち、蘇らせてくださったと、ここでペテロは告白をしております。そしてその理由は何でしょうか?

そこに示されている理由、それはこの方が、死に繋がれていることなどあり得なかったからだと、ペテロは伝えております。

イエス様は神です。死に勝利して、死を滅ぼす力を持っておられる方です。そのイエスキリストが、死につながれていることなどはあり得ない。実際に死なれましたけども、死ぬことはありましたけども、その死にいつまでも繋がれていることはありえない。そのことをペテロはことで伝えている。それゆえに神様は、イエス様を死の苦しみから解き放つてくださったということがわかります。

この24節の言葉はすごく力強い言葉だなと思うんですね。この方が死につながれていることなどありえないんです。すごい逞しい力強い言葉だなと思いますし、希望に満ちてる言葉だなと思います。

そして実は、この告白は私達の告白でもあるんです。私たちもこのように告白することができるんです。私達も同じように言うことができるんです。私達も死に繋がれていることなどありえないって、告白することができる。それは私たちはいつも信じる故に「復活の命が与えられているから」。イエスキリストを信じる人々には、このイエス様の復活の命が与えられているということが、聖書を通して約束されていることです。

例えばパウロが第2コリントの手紙の4章14節でこのように教えています。

主イエスを蘇らせた方が、私たちをもイエスと共に蘇らせ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださることを知っているからです。

そういう風にパウロは、第2コリント4章14節教えていますが、イエス様を蘇らせた方、父なる神様が、私たちもイエス様と共に蘇らせて、そして私たちと一緒に御前いに立たせてくださる、そういうふうに聖書はわたしたちに約束してくださっている。

私達いずれ死ぬんですね。間違いなく死にます。必ず死の時を迎えます。その運命から離れられないんです。その運命から逃れることはできないです。

でもたとえ死んだとしても、私たちはいつまでも死に繋がれていることはありえない。

なぜならばイエス様とちゃんと繋がっているからです。そして復活の命が与えられているからです。ですからそれはありえないことです。イエス様を信じているということがどれだけ私たちにとって希望であり喜びであるかということを是非ここで味わいたいなと思います。

いずれイエス様の再臨の時がやってきますね。この地上にやってこられます。 その時にイエス様は「起きよ」と命じられます。死人たちに向かって、「おきなさい」と命じられます。いつまでも寝ている子供たちに向かってお父さん、お母さんが起きなさいっていうような感じですね。起きなさいって言われるんです。

その時に死者の復活がおきる、その時に死んだ私たちも蘇ります。そして先に召された人たちとの再会を果たし、ともに主の御前に立って、主を礼拝する日が来ると、それが私たちに与えられている希望なんだと、そのように聖書は私たちに教えてるんですね。

4.結び

なぜ主イエスキリストを信じる者は救われるんでしょうか?それはイエス様が復活されたから。その恵みの故に、本当に私たちは感謝したいなという風に思います。この救いの恵みが与えられるかどうかは、私たちがイエス様を信じているかどうかにかかっています。そしてさらにもう一言付け加えるとするならば、「信じるだけ」ですね。信じるだけで救われるんです。私たちの努力とか、行いとか、善行とか、そういうことは関係ないんですね。全く関係ないんです。私たちが成した行いではなくて、努力ではなくて、ただイエス様が私たちのためにしてくださった御業の故に私たちは救われるんです。そのことを私たちが信じるだけで救われるんです。是非このイエス・キリストを信じようではありませんか。私たちの救い主として信じようではありませんか。そして本当に信じている私たちは、そのような恵みが与えられていることを感謝したいと思うんですね。私たちの罪は全部許されていますね。そして復活の希望が与えられています。恵にいかされている幸いを味わいながら、本当にイエス様についていきたい。そして願わくは、このイエス様を一人でも多くの人たちが信じることができるように私たちはキリストを宣べ伝えたいと思うんですね。

今は本当にめぐみの時です。今は全ての人に救いの道が開かれている時です。全ての人に救いの可能性が与えられている時です。主の御名を呼び求める者はみな救われると約束されている。その時代に、私たちは生かされている。 このイエスキリストを宣べ伝えていきたいなと思いますね。本当に私たちの家族や友人や仲間たちが、イエス様を信じることができるように日々祈り続けるものでありたいと思います。

 

祈り

 

お祈りをしましょう。恵み深き私たちの父なる神様、私たちに救い主イエスキリストが与えられていること覚えてありがとうございます。主がイエス様を通して現わしてくださった数々の御業のゆえに、あなたの御名を褒め称えます。そしてイエス様は、私たちの罪の身代わりとなって十字架にかかって死んでくださいました。救いの道を開いてくださいました。そして永遠に続く希望が与えられていることを覚えてありがとうございます。ためらわずに、このイエス様を私たちの救い主として受け入れ、信じることができますように。まだこの中に、イエス様を救い主として信じ受け入れていない方がいましたならば、どうぞその方が、あなたを信じることができるように導き励ましていてください。また私たちも救われた恵の中に生かされながら、このイエス様を伝えていくことができるように、どうか助けて下さい。今はまだめぐみの時です。どうぞこの時に、主イエスの御名を呼び求めることができるように、そのような人々が多く起こされていきますようにどうぞ導いてください。御言葉を心から感謝し、イエスキリストの尊い御名によってお祈りをいたします。

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