虚しさからの解放・・・エペソ書4章17~19節
エペソ人への手紙 4章17~19節
17:ですから私は言います。主にあって厳かに勧めます。あなたがたはもはや、異邦人がむなしい心で歩んでいるように歩んではなりません。 聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会” |
「さて主にある囚人の私は、あなた方に勧めます。あなたが召されたその召しにふさわしく歩みなさい。」
この言葉を通して私たちも、神様によって召された一人一人であり、召された私たちには、召されたその召しにふさわしい歩みが求められているということを、この時覚えあったことでありました。では、その「ふさわしい召し」、「ふさわしい歩み」とは、どういう意味だったんだろうか。その内容がずっと 4章、5章と続いていくわけですけれども、その最初のこととして学んだことは、これは「御霊による一致を熱心に保ちなさい」、ということでした。御霊によって与えられている一致、その教会の一致を保ちなさい、教会は一致が大切なんだよということを、ずっとパウロはここで教えてきたわけですね。そして前回学んだところですけれども、16節においては教会はキリストによって建てられているんだよ、そして一人一人が組み合わされたり、結びあわされたりしながら、全体として愛の内に成長していく。ここに理想的な教会の姿が描かれている、それが前回学んだところでした。
1.異邦人が虚しい心で歩んでいるように歩んではなりません。
今日は、17節からということになります。ここからまたパウロは、新しいテーマで話を進めていきます。教会が大切にすべきことがもう一つある。そのことを17節から 4章、5章と展開していくわけですけれども、それはどんな事でしょうか。
それは「聖さ」であるということが分かります。教会は神のご性質が表わされる場所です。つまり聖い場所でなければならないということ、その教会の聖さということがここから教えられていく。そして今日のところはその冒頭の言葉ということになります。どういうことがここで語られているか。今日のみ言葉に注目をしていきたいと思います。17節の言葉をお読みいたします。
「ですから私は言います。主にあって厳かに勧めます。あなた方はもはや異邦人が虚しい心で歩んでいるように歩んではなりません。」
「ですから私は言います。」これが16節の言葉と繋がっているということ、つまり前の内容と繋がっているということがわかります。そして「主にあって厳かに勧めます」と、今まで以上にパウロが緊張しながら厳粛な気持ちで、重要なメッセージを伝えようとしている、そのパウロの気持ちを感じさせる言葉であります。
それはどんなメッセージだったでしょうか。17節の後半にこう書いてあります。
「あなたがたはもはや、異邦人が虚しい心で歩んでいるように歩んではなりません。」
これがパウロが主にあって、厳かに語りたかった言葉の内容であります。このメッセージが非常に重要だった、どうしても、これを伝えたかった、「主にあって」と語っておりますから、これは、神様の言葉ですよね。神様が話す言葉をパウロが代わりに伝えている。そして非常に厳粛な気持ちで伝えている。
どうしてこの言葉が大事だったんでしょうか ? 二つの理由が考えられると思います。
(1)その危険があった
一つの理由は、そのような異邦人のあゆみへと、エペソの教会の信徒たちが逆戻りしてしまう危険が大きかったからであります。パウロはここで、「異邦人が虚しい心で歩んでいるように、歩んではなりません。」と、書いていますが、エペソの信徒たちは、かつて霊的な意味で異邦人でした。つまり彼らはキリストから離れ、遠く離れ、この世にあっては望みもなく、神もない人達だった。そのかつての彼らが歩んでいた歩み、その状態に逆戻りしてはいけないということを、ここで語っているわけであります。つまりその危険が迫っているということです。逆戻りしてしまうような、その危険が迫っているということです。
そしてそのあゆみの一番の特徴はつまり、「虚しい心で歩んでいた」ということです。彼らが、イエスキリストを知る前の状態、神を知らない状態は、どんな状態だったでしょうか。
それは虚しい状態だった。むなしい心のままに歩んでいた、それがかつての彼らの姿だった。そのかつての姿に、キリストの恵みを与えられて、神を知る者にされたはずの彼らが、また戻ってしまう。そんな愚かなことが、あるのだろうか。
パウロはここで、あり得るということを伝えているわけです。その危険が非常に大きい、だから「主にあって厳かに」パウロは、ここで伝えているわけです。もしその危険がないのであれば、こんなに厳かに伝える必要はなかったと思いますね。パウロがこんなに真剣になっているのは、それだけ危険が大きかったということであります。エペソの地域というのは、非常に異教的な世界でありました。その街の中心に、大神殿、女神の、アルテミス神殿という神殿が、当時立っていた。そしてその街全体が、その神殿によって成り立っているような、そういう街であり、そういう地域でありました。その街でパウロもかつて伝道したことがありました。その時、パウロは迫害にあったということが使徒の働き19章に出てきます。ですからもうそこにはパウロはとどまることが出来なかったけれども、そこに残された信徒たちの戦いというものもまた大変な戦いだっただろうということも考えられるわけですね。ですからパウロは本当に気が気ではなかったと思います。いつでも彼らは元に戻ってしまう。救われる前の虚しかった時の歩みに戻ってしまう。そういうことにならないように、せっかく与えられた神様の恵みが無駄になってしまうことがないように、パウロがここで、キリストにあって厳かに命じている、そのパウロの気持ちというものを、私たちも汲み取っていきたいと思います。
(2)教会が壊されてしまわないように
パウロがここで厳かにメッセージを語らなければならなかったもう一つの理由があります。
それは彼らが、かつての異邦人としての生活に戻ってしまい、結果的に教会が壊れてしまうからであります。パウロはこの箇所の冒頭で「ですから私は言います」とすぐに語っていますね。いままで話してきた話の内容が本当に生かされるために、これから話す言葉がとっても大事だよという、そういう繋がりが、ここで意識されているということがわかります。
この前の場面で、パウロは何を語っていたか、それは、教会の一致した姿について、ずっと教えてきた。教会は愛によって建てられていくということ、その素晴らしさをずっと語ってきた。そしてその姿が16節に書かれてあります。
キリストによってカラダ全体はあらゆる節々を支えとして組みあわされ、つなぎ合わされ、それぞれの部分が、その分に応じて働くことにより成長して、愛の内に立てられることになると、ここに教会の理想的な姿が書かれています。
「ですから私はいま」と、16節に描かれた教会の素晴らしさが、決して失われることがないように、この後のメッセージが大事だよというパウロの思いが、ここで伝わってくる。要するに、もし彼らが異邦人としての古いあゆみに戻ってしまうならば、せっかく与えられた恵みが台無しになり、教会が破壊されてしまうということであります。教会は愛の内に建てられると、パウロは教えていますけれども、でもそれはたぶん時間がかかるんだと思いますね。私たちは少しずつ時間をかけながら愛のうちに成長していくのだと思います。長い時間がかかるんだと思います。それは本当に一歩一歩の歩みだと思います。
でも壊れる時は本当に束の間です。あっという間に壊れます。そしてその痛みというものは計り知れないものがあるんじゃないかと思います。だからパウロは主にあって厳かに勧めている。教会は愛の内に少しずつ建てられているけれども、自分勝手、自己中心によって、すぐに壊れてしまう。たから教会には、聖さが必要だ。聖さがいつも重んじられ、大切にされていかなければいけない。そのことがここから語られていくということをぜひ私たちも心に留めるものでありたいと思います。
私たちもかつて虚しい心で歩んでいた一人一人だったと思いますね。あなたが救われる前の、もうだいぶ昔の話かもしれませんけれども、でも救われる前の、あなたの状態を思い出していただきたいと思います。本当に虚しかったんではないでしょうか。何のために生きているのか分からない、何のために自分はこんなに苦労しているのか分からない。そんな虚しさの中に歩んでいた日々があっのじゃないでしょうか。でもそんな中にあって、イエス様を知らされ、神様を知る者にされて、そこから解放されたはずの私たちが、逆戻りするようなことがあってはいけない、そんな虚しさの中に戻ってしまうようなことがあってはならない。そのことによって教会が壊れてしまうとすればなおさら、私たちは本当に注意しなければいけない。逆戻りしてしまうことがないように、私たちはこのパウロの言葉をしっかりと受け止めて、聖さというものを大切にしていくものでありたいと思います。
2.「無知」と「頑なな心」、真理を拒否する誘惑
せっかくそのような恵みをいただいたのが無駄になってしまったら、本当にそれは残念なことですね。悲しいことです。でもそれは起こり得ることだとパウロはここで教えているわけです。そしてそれは一体どこから始まるのか ? 。
それが今度は、18節に書かれていることであります。18節の言葉を読んでみたいと思います。
「彼らは知性において暗くなり、彼らの内にある無知と頑なな心のゆえに神の命から遠く離れています。」
神の恵みをいただいて救われたはずのエペソの信徒たちが、救われる前の異邦人としての歩みに逆戻りしてしまうのは何故か ? それは彼らが知性において暗くなるからだとここに書かれてあります。そして彼らの内にある無知と頑なな心が、その原因であるということがここに示されている。つまりどこから始まるんでしょうか。それは彼らの頭の中、つまり心の中から始まるということです。
(1)神を神として崇めず、感謝もしない心
まず「彼らは知性において暗くなり」と書いてありますけれど、これはどういうことでしょうか。これは真理を拒否するということですよね。真理を拒否するために、神の御心に関して盲目になるという事です。見えなくなるって言う事です。真理の光が示されているのに、それを拒否すれば光がなくなってしまいます。暗くなってしまいます。私たちは何をしたらいいのか分からなくなる。何が正しいことなのかわからなくなる。まさに知性において暗くなってしまう。しかもその原因はどこにあるのか。彼ら自身の内にあるということがわかります。「彼らの内にある無知と頑なな心のゆえに」と、ここに書いてありますね。これが知性において彼らが暗くなることの原因です。無知は彼らの内にある。彼らの内にある無知と書いてあります。つまり彼ら自身の選択によって道を選び取ってしまっているということです。
何故、神の恵みをいただいて、神を知っているはずの彼らが、あえてそのような選択をしてしまうんでしょうか。その点についてパウロは、ローマ書の1章21節で同じメッセージを語っていますけれども「彼らは神を知っていながら神を神として崇めず、感謝もせず、かえってその思いは虚しくなり、その鈍い心は暗くなったのです。」と書いてあるんですね。ここでもパウロは心が暗くなったという表現を使っておりますけれども、なぜ人々の心が暗くなってしまったんでしょうか。そのそもそもの原因は、彼らが、神を神として崇めず、感謝もしなかった。それがことの発端である、そこから全てが始まっている。人の堕落はそこから始まっているということが、ローマ書の1章でも教えられていることでした。心の中で本当は神を知っているのに、神を神として崇めないところから、人間の堕落が始まるということが、ローマ書においても、そしてこのエペソ書においても教えられていることであります。これが私たちの無知と頑なな心の原因であるということを覚えたいと思います。
私たちの教会は本当に賛美がとても盛んな教会で、素晴らしいなと思います。今日も礼拝賛美で共に主を崇めることができたことを、本当に感謝しております。賛美はとっても大事ですよね。どうして大事かと言うと、私たちがもし神を崇めることを忘れてしまうと、私たちの心は暗くなるからですね。神を神として崇めることを忘れるところから、私たちの堕落が始まっていくからであります。私たちが神様を、神様として覚えて、愛することを忘れてしまうと、私たちは暗くなるんです。知性が暗くなるんです。そして神様を中心とした意味が見失われていきます。そうすると何が正しくて、何をなすべきか、そういう判断ができなくなってしまいますね。ですから教会にとって、礼拝と賛美はとっても大事ですね。今年も私たちは礼拝と賛美を大切にしながら、この教会の礼拝が賛美で溢れるそういう教会にしていきたいというふうに思います。
(2)頑なな心
さらにもう一つの原因がここに指摘されている。それは「頑なな心のゆえに」と、出てきます。私たちの心が頑なであるということ、それが私たちが知性において暗くなってしまうということの原因であるということが、ここで教えられていることであります。私たちはおそらく心の深いところでは、この頑なな心をずっと持ち続けているんじゃないかなと思います。神様に従いたくない心、神様に従いたいと思いながらも、でもそうなれない自分の性質というものを、ずっと深いところに持っているんじゃないでしょうか。そしてやっぱり神の御心ではなくて、自分のやりたい通りにやりたいという、そういう思いが時々出てくることがありますね。そういう気持ちに私たちの心が支配されてしまうことがあると思います。それまでは本当に柔らかなスポンジのような心であったはずの心が、本当に神様の恵みをいただいて聖霊の満たしを頂いて、本当にやわらかい心だった私たちの心が、ある日突然、鋼のように硬くなってしまうこともあると思います 。私の頑なな心というものが神の御心を拒否してしまうということがあると思います。そうなるとその結果どうなるんでしょうか?
パウロはここで語っております。神さまとの生きた交わりが断たれ、神様の命から引き離されていきます。それはちょうどぶどうの木の枝が、ぶどうの木の幹から切り離されたような状態です。
ぶどうの樹にしっかり繋がっていれば、そこには命が流れていますね。そしてその先には必ず、ブドウの実がなります。結実します。
でもぶどうの木から引き離されてしまったら、もうそこには何も起こらない、命が流れてこない、その結果私たちは虚しくなるんです。神の命から離れると、私たちは虚しくなる。
アウグスティヌスの有名な言葉があります。「あなたは、我々を、あなたご自身のために造りたまいました。そして我々の心はあなたの中で憩うまでは、安んずることがないのであります。」そういう言葉をアウグスチヌスという人は語っていますけれども、私たちは創造主なる神様によって、神のために作られました。私たちは自分のためにつくられたのではなく、神様のために作られた。それが私たちがつくられた本来の目的です。私たちが生かされているのは、神様のために生かされている。それなのに、もし私たちが、神様から離れてしまったらば、私たちは本来の生き方を見失うのは当然ではないかと思いますね。何のために自分が存在しているのか、何のために自分が生かされているのか、見えなくなってしまう。
そうなるとどうなるでしょうか。虚しくなりますね。本当に虚しい。心が空っぽになってしまう。あなたが救われる前の状態というのは、まさにそういう状態だったんじゃないかというふうに思います。でも救われた後も、救われているにも関わらず、まだそんな状態に戻ってしまうことがあるとすれば、それは本当に残念なことではないだろうかというふうに思います。救われて、神様の命に生かされている私たちが、よく考えてみると心の深いところで満たされていない、乾いている、心が何か虚しい、そういう問題を抱えることが時々あるんじゃないかと思います。皆さんの中に、このような状態になってしまっているという方がおられるでしょうか?表面の信仰生活の裏側に、誰にも言えないような魂の渇きを覚えていますと言うようなことがあるでしょうか ?あなたは今、本当に神の命に生かされているでしょうか ? 神の命から遠く離れた状態になっていないでしょうか ?
もしそうなっているとするならば、その原因は私達自身の中にあるということを覚えたいと思います。私たちの内側にある無知と、心のかたくなさのゆえに、神の命から遠く離れてしまうことがないように、しっかりと私たちの内側を、主の前に差し出して、心を注ぎ出して、そして主の恵みの中に憩うものでありたいと思います。本当に神様の命に生かされるものになりたいと思います。
(3)堕落への道
以上が、私たちの頭と心の中で起こっていることです。ですから誰にも見えないんです。18節に書いてあることは、誰も気づきませんね。もしかしたら本人も気づいていないかもしれません。でも、もう堕落の道が確実に始まっているということが分かります。そしてこの悪の根は もう小さいうちに早く断ってしまうのがいいですね。それをそのまま放っておくと大変なことになるということが、今度は 4章19節に教えられていることであります。
私たちの頭アタマや心の中で起こっていることは、必ず私たちの生き方やあゆみの中に現れてきます。内側に隠されていることは、必ず外側に表出されてきます。それが19節の言葉です。19節を読んでみたいと思います。
「無感覚になった彼らは、好色に身を任せて、あらゆる不潔な行いを貪るようになっています。」
パウロはここで三つのことを語っていますけれども、それは彼らが①無感覚になるということ、次に②好色に身を任せてしまう事、最後に③あらゆる不潔な行いを貪るようになるということ、以上の三つの事がここに指摘されていますけれども、この三つを順番に見ていくと分かると思いますが、だんだん悪くなっていくんですね。負の連鎖っていう言葉がありますね。あるいは負のスパイラルというような言い方もしますけれども、どんどんどんどん悪くなっていくんですね。それにハマると、そこから抜け出せなくなる。そういう状態が、この19節に書いてあることであります。神の命から遠く離された結果、私たちはどうなってしまうんでしょうか。
1番目に無感覚になるということを教えられております。感覚を失うっていうことで、ここで使われている言葉は、痛みが感じられなくなるというそういう言葉ですね。もう痛みを感じなくなる。つまり良心が麻痺してしまうという、そういう意味の言葉であります。
痛みは、私たちはあんまり好きじゃないかもしれません。痛むのはとても嫌かもしれませんけれども、でも痛みを失ってしまったら、それはもっと危険ですね。もっと恐ろしいことだと思います。痛いのは嫌だけれども、でも痛みがあるというのは感謝なことですね。それがなくなってしまったらもう本当に危険ですね。症状が進んでいるのに何も感じなくなってしまったら、それは気付いた時には、もう手のつけられないということになるんだと思います。同じように罪を犯しても心が痛まないとするならば、それは大変危険な状態であるということが言えると思います。そして私たちは、そうなってしまうと、どんどん厚かましくなるんじゃないでしょうか。どんどん開き直って行くんではないでしょうか。そして神に対しても人に対しても不遜な態度をとるようになってしまうんじゃないでしょうか。そんな無感覚になってしまうということを私たちは覚えたいと思います。
そして次にパウロは「好色に身を任せて」と語っております。好色ということが出てまいります。これは性的に乱れた行為を表している言葉であります。そしてそれは人間の欲望を掻き立てるもの、そして人間の欲望を喜ばせてくれるものですよね。それに身を委ねてはいけないんです。そんなものに身を任せてはいけない。でもパウロはここで「好色に身を任せて」と書いています。つまり、コントロールが効かなくなっているということがわかります。欲望の虜です。そうして自分自身を制することができなくなってしまっている。そういう状態になっているということが分かるんです。
そして最後にはあらゆる不潔な行いを貪るようになると語っています。コントロールが効かなくなった結果、あらゆる不潔な行いを貪るようになっている。もう歯止めがきかないですね。もうその人は何を求めても満足することがないんでしょう。ですからどんどんどんどん堕落の道を突き進んで落ちて行ってしまって、自分でもどうすることもできない、そういう状態になっていくんだよということがここで教えられていることです。これが虚しさの果てに、私たち人間がたどりつく姿であります。これが聖書が私たちに提示している、人間の姿であるということですね。
3.まとめ
この危険にエペソの信徒たちも晒されているということです。
パウロはエペソの1章・2章・3章を通して、いかに素晴らしい恵みがあなた達に与えられてきたかということを、ずっと語ってきました。あなた方は神によって選ばれた一人一人ですよ。神の子供とされ、キリストの恵みをいただきましたね。でもそれは、自分自身の行いからではなく、神様から与えられためぐみですよ。良いことをするための作品として作られたんですよ、新しく生まれ変わったんですよ、そういう恵みがどれほど与えられているのかということを、くり返し語ってきんです。
しかしその恵みが全部見失われて、かつてのあの虚しいあゆみに逆戻りするようなことがあったらどうでしょうか。まさにそういう危機感をもって、ここを語ってるわけですよね。そしてその結果、教会の一致も壊されていくとしたら、それはとても残念なことですね。それがパウロには分かっていた。その危険に彼らが取り囲まれて、いつでもそうなる可能性があった。
だからここで、「主にあって厳かに語る」、というメッセージになるわけであります。それがパウロに託された神からのメッセージであったということを、私たちは覚えたいと思います。
そしてそのメッセージが、こんにちの私たちにも同様に、主から語られているということを今日は覚えたいと思います。もちろんエペソの時代とは状況も時代も全く違うかもしれません。でも私たちもそのようになる可能性、危険性がいつでもあります。私たちもそういう、異教の人々の中に取り囲まれながら生きていると思いますね。そしてかつての、私たちの生き方に、何か懐かしさを覚えてしまうということもあるかもしれませんね。
そして私たちの心の中の深いところを探ると、なにかそういうことを求めているような、あるいは神の御心に背きたくなるような、そういう頑なな部分が残されているんではないかと思います。そのところから、私たちはしっかりと神様に委ねて、聖められていく必要があるということを、今日この御言葉を通して覚えるものでありたいと思います。
私たちの堕落の道は、見えないところ、私たちの内側、私たちでも気づかないようなところから、いつでも始まりうるんだということ、そしてそれをちゃんと処理しないと、大変なことになってしまうということを覚えたいと思います。願わくは、私たちがしっかりと主の前に整えられて、本当に聖められて、神の栄光を表すものとして歩んでいくことができますように。与えられた恵みを決して無駄にすることがありませんように。そしてこのキリストの愛によって生かされて、教会がいつもキリストの命に満たされたところとなるように、私たちは、そのような主にある交わりを大事にしていきたいと思います。
お祈りをいたします。恵み深き私たちの父なる神様。せっかく与えられた神様の素晴らしい恵を、わたしたちが見失ってしまうことがないように、どうぞ守っていてください。そしてどうぞ私たちの心の中を支配してください。あなたが与えてくださった御霊によって、私たちを満たしてください。それ以外のもので、私たちが自分自身を満たそうとする、そのような愚かな誘惑から守ってくださいますように。そしてどうか、深いところから自分を明け渡して、主がそこを聖めて、私たちを自由にしてくださいますようにお願い致します。み言葉を心から感謝して主イエス・キリストの御名によってお祈りをいたします