マタイの福音書21章1~13節

エルサレム入場
いよいよエルサレム入場の場面と、その後半にはイエス様がエルサレムの神殿で売り買いをしている人たちを追い出された場面、この大きく二つの出来事が教えられている聖書の箇所だと思います。
21章の1節では、「さて、一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山の麓のベテパゲまで来た。その時」というところから始まっています。いよいよエルサレムに近づいてきたということですね。
ベテパゲという町(村かもしれません)は、エルサレムから東に約3kmほどの場所にあり、もうエルサレムのすぐそばまで来ていることが分かります。これからまさにエルサレムに入場されようとしているのです。いよいよイエス様の人生の旅路の最終地点に到着したということですね。
イエス様はベツレヘムでお生まれになり、その後エジプトへ逃れ、ナザレに戻って育ちました。そして、バプテスマのヨハネから洗礼を受けられた後は、ガリラヤ地方で伝道に励まれました。エルサレムにも何度か来ていますが、基本的にはガリラヤ地方での伝道が中心でした。そして、ついにエルサレムへ向かい、いよいよ入城されるという段階に来たのです。これがイエス様にとっての人生の最後の1週間の始まりとなります。
この日は日曜日でした。そして、同じ週の金曜日にイエス様は十字架にかけられ、処刑されます。厳密に言うと、1週間もない短い期間です。復活まで含めて1週間と考えればよいのかもしれませんが、いずれにせよ、イエス様の最後の1週間が始まるという段階に入られたことが分かります。
この後、いよいよエルサレム入場の場面が描かれていきます。その様子を一言で言うならば、「実に堂々とした入場」であったと言えるのではないでしょうか。
それまでのイエス様は、どちらかというと、ご自分がメシア(救い主)であることを隠していたわけではありませんが、必要以上に広まらないように配慮されていた面があったと思います。これまでの聖書の記述を読むと、例えば、ツァラアトに冒された人を癒した後、「そのことを誰にも言わないように」と口止めされた場面がありました。また、会堂管理者の娘をよみがえらせた場面でも、ごく限られた人だけを部屋の中に入れ、できるだけその奇跡が広まらないように配慮されていました。
このように、イエス様はご自分が救い主であることをあえて隠していたわけではありませんが、不必要に広がらないように意識されていたことが分かります。
でも、ここに来てもイエス様も隠す必要がないって言うんでしょうかね。もう堂々と入場されたということ。そして、入場された時に人々が大騒ぎになったというか、大歓迎したってことが続いてくるわけですけれども、実にまあ、堂々とした入場だったのではないかなというふうに思います。
それで、その入場の前にですね、準備があるわけですけれども、その準備というのは、ロバの調達の準備であったということがわかります。非常に不思議な方法でロバの調達をしたということが分かります。
2節で、「向こうの村へ行きなさい。そうすれば、すぐにロバがつながれていて、一緒に子ロバがいるのに気がつくでしょう。それを解いて、私のところに連れてきなさい」という指示を、イエス様は二人の弟子に与えました。そして、その弟子を送り出したら、本当にイエス様の言われた通りだったということで、ロバが見つかり、調達をしたのです。そのような段取りをしながら、結果的にはロバに乗ってエルサレム入場を果たされた、ということにつながっていきます。
それで、まあ、あの、大いなる入場なんですね。これはね、王様の入場なんですけれども、どうしてロバだったのかな、というふうに思うわけです。普通であれば、王様が入場する時というのは、馬に乗って入場いたします。当時の王様はみんな、戦争に行って勝利して帰ってくる凱旋の入場をするわけですけれども、その時はみんな馬に乗って来るわけですよね。
そして、当時、馬というのは武力・軍事力の象徴でした。当時の武力・軍事力を表していて、どれだけ立派な馬を持っているか、たくさん馬を持っているか、ということが、どれだけ強いかということの表れだったわけですよね。ですから、王様というのは必ず馬に乗っているというのが、まあ、普通のスタイルだったと思うんですけれども、そうではなくて、イエス様はロバに乗って来られたと。
しかも、それは転ばって出てきますね。ロバの中でも最も小さい、乗ったら倒れちゃうんじゃないかなと思うような、そういう子ロバに乗っての入場ですから、颯爽と入場したという感じではなくて、どちらかというとノロノロと入ってきたのかな、という感じがするんですね。まあ、王様っていう感じがあんまりしないかもしれませんけれども、でも、そうやってイエス様はエルサレムに入場されたという、そういう準備をして入って来られたということなんですね。
で、なぜロバだったのか、というのを考えさせられることなんですけれども、二つの理由が指摘できるかなと思います。その一つは、それが旧約聖書の預言だった、ということですね。旧約聖書で預言されていることの成就として、イエス様はロバに乗ってこられたということです。
それで、4節、5節ですね。「このことが起こったのは、預言者を通して語られたことが成就するためであった。娘シオンに言え、『あなたの王があなたのところに来る。柔和な方で、ロバに乗って。子ロバであって、子である子ロバに乗って』」ということで、これが預言者を通して語られた預言の成就だったのです。そこに引用されているのが5節の言葉ですね
ゼカリヤ書の9章9節の御言葉ですね。旧約聖書のこの予言の言葉を、ここで引用しながら伝えています。ゼカリヤという預言者は、イエス様の時代より約450年前の人物ですが、彼が予言したことが、今ここで成就した、つまり実現したということですね。そのことを伝えています。
「見よ、あなたの王があなたのところに来る。柔和な方で、ロバに乗って」という言葉の通り、まさに王の入場なのです。つまり、イエス様は王であるということです。人々が待ち望んでいた王が、ついにやってきた瞬間なのだということですね。それが旧約聖書で予言されており、今、その通りに実現したのです。そのために、イエス様はロバに乗ってこられました。このことが一つ、重要な点だと思います。
もう一つ、なぜイエス様がロバに乗られたのか。それは単に予言の成就というだけではなく、この王がどのような王であるかを示すためだったのです。ここに「その方は柔和な方で」とありますが、この言葉には「仕えられる方ではなく、仕える方である」という意味が含まれています。
通常、王とは仕えられる存在です。多くのしもべが王に仕えるのが普通です。しかし、この王はそうではなく、仕えられるのではなく仕える、柔和な方としてこの世に来られたのです。そのことが指摘されています。そして、ロバに乗ってくる姿が、その王の性質を象徴的に表しているのです。このことが、もう一つ重要な点だと思います。
さらに、ゼカリヤ書9章9節の御言葉が引用されていますが、その次の10節を読むと、この王がどのような王であるのかがさらに明確になります。旧約聖書の最後の方、マラキ書の一つ前がゼカリヤ書ですが、その9章10節にはこう書かれています。
「私は戦車をエフライムから、軍馬をエルサレムから絶たせる。戦いの弓も断たれる。彼は諸国の民に平和を告げ、その支配は海から海へ、大河から地の果てに至る。」
9節では、王がロバに乗ってやってくることが予言されていますが、その後、この王が「戦車や軍馬を絶ち、戦いの弓も断つ」とあります。そして、「諸国の民に平和を告げ、その支配は海から海へ、大河から地の果てに至る」と記されています。つまり、この王は軍事力や武力によって支配するのではなく、平和をもたらす王なのだ、ということです。
ゼカリヤ書には、そのような王が来ると預言されているのです。そして、その王がロバに乗ってやってくる。その姿が、「この王は力によって支配する方ではなく、平和をもたらす王である」ということを象徴的に表しているのですね。
王様なのですが、力で支配するために来られたのではなく、私たちに仕えるために来てくださった方であり、私たちに平和をもたらすために来てくださった王である、ということがここで教えられています。
しかし、そのためには、イエス様は十字架にかからなければなりませんでした。そして、私たちの罪の問題をすべて解決するために、十字架にかかり、私たちの罪をすべて背負って、代わりに処刑されなければならなかったのです。それを経て初めて、王として入場し、平和の王としての職務を果たされたと言えるのではないでしょうか。
なぜなら、十字架がなければ、平和は訪れないからです。では、平和はどこから始まるのでしょうか。私たちは皆、平和を求めています。ウクライナでも、ガザでも、戦争が早く終わってほしいと願っています。しかし、平和は実は私たちの心の中から始まるものなのです。
戦争はどこから始まるのでしょうか。それは遠い場所ではなく、私たちの心の中から始まるのです。私たちは平和を願いながらも、心の中では平和でないことがあります。誰かを憎んだり、恨んだりしていることがあるのではないでしょうか。そうした感情を私たちは皆、少なからず抱えています。そして、それがあるからこそ、争いが生まれるのです。
家庭の中で争いが起こることもあれば、会社の中で対立が生じることもあります。戦争とは呼ばないまでも、私たちの周りでは常に衝突や対立が起こっています。しかし、本当の平和は、そうした私たちの心の中から始まるのです。
だからこそ、本当の平和をもたらすために、イエス様は十字架にかかり、死んでくださいました。そして、それによって平和の王としての務めを果たしてくださったのです。このことを、私たちは深く理解する必要があるのではないでしょうか。
私たちが問われることの一つは、どれだけイエス様と出会っているかということです。平和の王としてのイエス様に、本当に出会っているでしょうか。そして、この方を心から受け入れ、迎え入れているでしょうか。さらに、私たちの心の中に、本当の平和がもたらされているでしょうか。
信仰を持ちながらも、クリスチャンとして歩んでいても、心の中に平和がないことがあります。恨みの思いから離れられず、憎しみや怒りに支配されてしまうこともあるでしょう。しかし、そうした私たちの心の中に、イエス様は来てくださり、住んでくださり、平和をもたらしてくださるのです。
そのイエス様に出会うことによって、私たちは本当に平和の王としてイエス様をお迎えすることができるのです。ですから、頭で理解するだけではなく、心の深いところでイエス様を受け入れ、迎え入れ、イエス様によってもたらされる平和を体験する者でありたいと思います。
この後の場面では、人々がイエス様を大歓迎し、王として迎え入れた様子が描かれています。
そして、後半に行くと、子供たちの賛美を受けたという話が出てきます。しかし、それに戸惑う人たちもいたということも記されています。このようにして、イエス様はエルサレムに入場されたということを覚えたいと思います。
では、後半に進みます。後半は、宮を清める場面ですので、そこに注目していきたいと思います。イエス様は、ロバに乗ってエルサレムに入場された後、どこへ行かれたでしょうか。イエス様は宮に行かれました。エルサレムの神殿に入られたのです。
12節には、こう書かれています。
「それから、イエスは宮に入って、その中で売り買いしている者たちを皆追い出し、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒された。」
イエス様は、神殿に到着すると、宮に入っていかれました。そして、その中で売り買いをしている人たちや、両替人たちを見て、彼らを追い出し、腰掛けを倒されました。
この場面では、イエス様が非常に激しく行動されています。今まで学んできたイエス様の姿とは違い、荒々しい印象を受ける場面かもしれません。そのため、驚きを覚える人も多いのではないでしょうか。これまでのイエス様にはあまり見られなかった行動ですが、それほどまでに激しく怒られたということなのだと思います。イエス様は憤りを覚えられたのです。
当時、エルサレムの神殿の前には、売り買いをする人たちがいました。彼らは何を売っていたのでしょうか。
人々は、神殿で礼拝をするために訪れていました。そして、礼拝には必ず生贄を捧げる必要がありました。しかし、外国から来る人や、遠方から訪れる人たちは、生贄を持参することができませんでした。そのため、宮の前で生贄用の家畜を売る人々がいたのです。これは、礼拝を行うために必要なことでした。
また、神殿税という税金を納める習慣がありました。神殿税は、当時のユダヤの通貨であるシェケルで支払わなければならない決まりがありました。そのため、外国に住むユダヤ人たちが神殿を訪れた際、彼らは外国の通貨を持っていたため、両替をしなければなりませんでした。両替人たちは、その必要に応じるために、神殿の前で通貨を交換していたのです。
こうした取引は、ある意味では礼拝のために必要なものだったと言えるでしょう。しかし、イエス様は、彼らを見て追い出されました。一体、なぜでしょうか。その理由は、13節のイエス様の言葉に示されています。
イエス様は言われました。
「そして、彼らに言われた。『私の家は祈りの家と呼ばれると書いてある。それなのに、お前たちはそれを強盗の巣にしている。』」
神様の宮、すなわち神殿は、本来「祈りの家」でなければなりません。しかし、そこが商売の場となり、利得を求める者たちの巣窟となっていたのです。イエス様は、そのことを強く戒められました。
これは、旧約聖書に書かれているイザヤ書の中に出てくる言葉です。イザヤ書の56章7節の言葉を引用し、預言者イザヤがそのように教えています。
しかし、イエス様は「あなたたちは、その神殿、本来は神の宮であり祈りの家であるはずの場所を、強盗の巣にしている」と言われました。この表現は、少し驚くような表現ではないでしょうか。
「強盗」と聞くと、最近もこの辺で強盗事件が起きているという話を耳にします。一人暮らしの高齢者を狙った強盗が入るといった事件も時々発生し、心配になりますよね。
強盗というのは、本来入ってきてはいけない存在です。彼らは、人の家に侵入し、財産やお金を盗んでいきます。普通は盗んだらすぐに逃げますよね。そこに居座ってしまえば、捕まってしまうからです。しかし、イエス様は「強盗の巣」と言われました。つまり、「強盗がそこに住み着いてしまっている」ということになります。本来あり得ないことですが、イエス様の目には、そのように映ったのでしょう。
本来、祈りの家であるはずの神の宮が、そのような場所に変わってしまったと、イエス様には見えたのです。では、なぜイエス様はそのように見られたのでしょうか。私たちの目には、両替人の存在も必要だったように思えますし、生贄を売る人々も、礼拝のために必要だったのではないかと思えるかもしれません。それでも、なぜイエス様には「強盗の巣」と映ったのでしょうか。
その理解の鍵となるのが、「強盗の巣」という言葉です。実は、この言葉は旧約聖書にも登場します。エレミヤ書の7章11節に、この表現が出てくるのです。そこでは、預言者エレミヤが「強盗の巣」という言葉を使っています。そして、イエス様がその言葉を引用されたということは、イエス様の時代の礼拝が、かつてエレミヤの時代の礼拝と同じ状態になっていることを示唆しているのではないでしょうか。
エレミヤの時代は、イエス様の時代よりもずっと前ですが、当時の礼拝の姿がどのようなものであったのかは、エレミヤ書7章を読むとよく分かります。そして、イエス様は、「今の礼拝も、あの時と同じ状態になっている」と教えられたのではないでしょうか。
そこで、実際にエレミヤ書7章を開いてみたいと思います。エレミヤ書7章は、旧約聖書の1300ページにあります。ここには、当時の礼拝の様子が記されています。そして、11節には「強盗の巣」という言葉が出てきます。では、9節から15節まで読んでみましょう。
エレミヤ書 7章9節から読んでみます。
「あなた方は盗み、人を殺し、姦淫し、偽って誓い、バアルに犠牲を捧げ、あなた方の知らなかった他の神々に従っている。そして、私の名がつけられているこの宮に、私の前にやってきて、『私は救われている』と言う。それは、これらすべての忌み嫌うべきことをするためなのか。
私の名がつけられているこの家は、あなた方の目に強盗の巣と見えたのか。この私も、そう見ていた。──主の言葉。だから、シロにあった私の住まい、かつて私が名を住まわせた場所へ行って、イスラエルの悪のゆえに、そこで私がしたことを見てみよ。
今、あなた方はこれらのことを皆行い、──主の言葉── 私があなた方に絶えず、しきりに語りかけたのに、あなた方は聞こうともせず、私が呼んだのに答えもしなかった。それゆえ、私の名がつけられているこの家、あなた方が頼みとするこの家、また、私があなた方とあなた方の先祖に与えたこの場所に対して、私はシロにしたのと同様のことを行う。私はかつて、あなた方のすべての兄弟、エフライムのすべての子孫を追い払ったように、あなた方を私の前から追い払う。」
これは、預言の言葉です。「あなた方を私の前から追い払う」という言葉が出てきますが、これはまさに何百年後の出来事につながる話です。そして、イエス様は宮から人々を追い払われました。それは、エレミヤの時代の礼拝とイエス様の時代の礼拝が重なってしまった、つまり、まったく同じような状態が再び起こっていたことを示しているのではないでしょうか。
当時の礼拝の様子をまとめると、次のようになります。
形はあるけれど、命がない。
礼拝の行為自体はありました。エレミヤの時代の人々も、10節に「私たちは救われている」とあるように、自分たちは救われていると認識し、形式的には礼拝を捧げていました。しかし、そこには「祈りの家」としての姿がありませんでした。礼拝の行為はあっても、そこで主と出会うことがなく、命がない状態でした。本来の礼拝とは、主が語られ、その言葉を聞き、それに応答して主に従うという、神との交わりが体験できる場所であるべきです。しかし、当時の礼拝にはそれが欠けていたのです。
命がないだけでなく、清さがない。
彼らは礼拝行為を行っていましたが、実際にしていたことは、9節にあるように、「盗み、人殺し、姦淫、偽って誓う、バアルに犠牲を捧げる」など、神の戒めに背くことばかりでした。それにもかかわらず、自分たちは正しく礼拝しているという意識を持っていたのです。つまり、形はあるが中身がないだけではなく、清ささえも失われ、罪を犯しながら悔い改めることもない状態でした。その結果、聖なる神の名が踏みにじられるような礼拝が行われていたのです。
イエス様が「強盗の巣」と言われたのは、まさにこのような状態を指していたのでしょう。
とても「祈りの家」とは呼べる状態ではありませんでした。そして、それと同じようなことが、当時のエルサレムの宮においても行われていたのです。そのため、イエス様は、売り買いをしている人々や両替人たちを追い出されたのですね。
この出来事を見ても、イエス様の激しい怒りがあったことがよくわかります。私たちは、そのことを心に留める必要があると思います。
今日は、この箇所から学びます。
私たちの礼拝が、本当に神に喜ばれる礼拝であるように、また、私たちの教会が、本当に「祈りの家」としての教会であるように、そのことを忘れずに歩んでいきたいと思います。そして、これからもそういう教会であり続けるために、注意が必要だということを心に留めたいと思います。
私たちの礼拝はどうでしょうか。
形はあっても命のない礼拝になっていないでしょうか。毎週日曜日に集い、礼拝を捧げていますが、そこで本当に主とお会いできているでしょうか。心から神様を賛美し、神が語られる御言葉をしっかりと聞き、それに応答しているでしょうか。神様との出会いを経験する、そういう礼拝になっているでしょうか。
もしかすると、「祈りの家」ではなく、形だけがあって命のない礼拝になってしまってはいないでしょうか。私たちは、それに気をつける必要があります。
また、清さは保たれているでしょうか。
私たちは、聖なる神の前に、本当に恐れをもってひれ伏しているでしょうか。私たちの礼拝を通して、神の御名は崇められているでしょうか。このことは、礼拝を考えるうえでとても大切なことです。
礼拝のプログラムや内容を考えるとき、私たちが最も注意すべきことは、神様が喜んでくださる礼拝になっているかどうかです。気をつけなければならないのは、私たちが快適に過ごせるか、礼拝に来て楽しいかどうかが中心になってしまうことです。そうなると、次第に人間中心の礼拝になってしまい、神様の清さが失われてしまいます。
私たちは、ちゃんと礼拝しているつもりでいても、神の御名が崇められていない、神様が喜んでくださらない礼拝になってしまう危険があるのです。これは、とても大事なことです。しかし、礼拝の中心が「自分たちの快適さ」や「満足」になり、それで満たされることが優先されると、次第に神様が見えなくなってしまいます。
礼拝がだんだんエンターテインメント化し、劇場のようになってしまうこともあります。楽しい要素を取り入れることで人を集める「伝道のための礼拝」という考え方もありますが、最も大切なことを忘れてはいけません。
ローマ12章1節には、こう書かれています。
「あなたがたの体を、神に喜ばれる、聖なる、生きた捧げものとして捧げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。」
ふさわしい礼拝とは何でしょうか。
それは、私たちが本当に神に喜ばれる礼拝を捧げているかどうかです。神が喜んでくださり、その礼拝を受け入れてくださっているかどうかが、何よりも重要なのです。
私たちは、このことを決して忘れてはなりません。
そして、私たちの教会が、これからもずっと「祈りの家」としての教会として成長できるように、気をつけて歩んでいきたいと思います。
礼拝が本当に守られ、毎回の礼拝を心から捧げる者でありたいと願います。
私たちの教会が、これからもずっと「祈りの家」として成長できるように、ぜひ気をつけて歩んでいきたいと思います。そして、礼拝が本当に守られていくように、毎回の礼拝を心から捧げていく者でありたいと願います。
賛美歌を歌うことと、賛美することの違い
賛美歌を歌うことと、賛美することは少し違います。賛美歌を歌うことは、誰にでもできることです。賛美歌を歌いながら、だんだん楽しくなってくる経験をしたことがある方も多いでしょう。しかし、礼拝において本当に大切なのは、「賛美する」ことです。
それは、神様を崇めることであり、神様が賛美を通して本当に称えられることです。礼拝が、ただ賛美歌を歌うだけで終わるのではなく、心から神様を賛美し、礼拝の中で神をあがめることができているかどうかが重要なのです。
私たちが本当に賛美しているかどうか、神様が私たちの賛美を喜んでくださっているかどうかを大切にしながら、毎回の礼拝を捧げていきたいと思います。一瞬一瞬を大切にし、心から神様を崇める礼拝を守っていきましょう。
「祈りの家」としての教会の成長
小林京子先生は、教会の名前に「千円教会」と名付けられました。これは、単なる名前ではなく、「この教会が本当に祈りの家であってほしい」という願いが込められているのだと思います。
郡司先生もまた、ここが常に「祈りの家」であるようにと願いながら、この教会を祈りの中で守ってこられました。私たちは、その思いを受け継ぎ、これからもこの教会が祈りの家として成長していくように努めなければなりません。
もし、牧師が変わった途端に、祈りの家であった教会が「強盗の巣」となってしまうようなことがあってはなりません。私たちはそのことに気をつけ、どんな時代にあっても、この教会が「祈りの家」であり続けるように祈り求めていく必要があります。
ここで人々が主と出会い、神様の声を聞き、祈りをささげることができるように、教会を大切に守っていきたいと思います。そして、この教会を、その方向へと成長させていきたいと願います。
私たちは、「祈りの家」としての成長を祈り求めながら歩んでいきましょう。
祈り
それでは、お祈りをもって終わりたいと思います。
主イエス様がエルサレムに入場され、平和の王として、柔和な君として私たちのもとに来てくださったことを覚え、心から感謝いたします。どうか、私たちがこのイエス様を心にしっかりと受け入れ、信じ、主に繋がって生きることができますように。私たちの心を清め、喜びをもって歩むことができるように導いてください。
また、この教会が、これからも「祈りの家」として成長していくことができるようにお守りください。ここで、私たちがあなたと出会い、あなたを礼拝し、人々が神様と出会う場所となりますように。この教会が、豊かに祝福され、主に用いられる教会であり続けるように導いてください。
この後も、私たちの祈りを受け取り、祝福し、導いてくださいますようにお願いいたします。
この時を感謝し、イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。
アーメン。