イエス・キリストをより良く知るために

神様に愛されるために、まず努力するのは順序が逆。・・・エペソ章5章1~2節

 
この記事を書いている人 - WRITER -
若井 和生師
若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。
エペソ人への手紙 5章1~2節

ですから、愛されている子どもらしく、神に倣う者となりなさい。

また、愛のうちに歩みなさい。キリストも私たちを愛して、私たちのために、ご自分を神へのささげ物、またいけにえとし、芳ばしい香りを献げてくださいました。

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

エペソ書5章1節2節の二つの言葉から、「愛の内に歩みなさい」という題でお話をしたいと思います。この一節、二節の言葉二つの言葉の中に「愛」という言葉が3回出てまいります。ですから今日の説教のテーマは愛ということになります。そしてこの箇所は、私たちが今まで順番に学んできた、4章25節から32節の内容のまとめとなっているそういう箇所でもあります。
ずっと順番に学んできましたけれども、そこでパウロが繰り返し教えてきたことは「古い人を脱ぎ捨てるべきこと」、「新しい人を身につけるべきこと」、そして私たちの体と心において「新しくされ続けることの大切さ」ということを、いろんな言葉を用いて、いろんな例を通して、語ってくださっていました。
そのまとめが今日の箇所ということなんですけれども、新しくされ続けていくことによって私たちはどうなっていくんでしょうか?私たちは、実は、愛の人に変えられていきます。愛の人になっていきます。
どのようにして、そのような人にされていくんでしょうか?

1.愛である神に倣う人になりなさい

今日の聖書の箇所に私たちは早速注目をしていきたいと思います。5章の1節の言葉にご注目ください。
ですから愛されている子供らしく神に倣う者となりなさい。
ここでパウロは、神に倣う者となりなさいと命じております。「倣う」っていうのはどういうことでしょうか。それはその真似をして、そしてその通りにするということだと思いますね。

a.互いに赦し合いなさい

神に、倣う者となるというのは、神様の真似をしてその通りにすること、ここで意識されているのは、わたしたちの罪を赦してくださった神様の姿ということになると思います。
その直前の4章の最後の言葉、前回学んだ言葉でしたけども、4章32節でパウロは、
神もキリストにおいてあなたがたを赦してくださったのです。ですから・・・」と続いていきますね。「ですから、愛されている子供らしく神に倣う者となりなさい。」つまりここでパウロが意識している神様の姿、そして私たちの習うべき神様の姿というのは、わたしたちの罪を赦してくださった神様の姿であるということがわかります。ですからそのような神様のことよく覚えながら、私たちも倣いなさい、つまり、互いに赦し合いなさい、そういうことがここで教えられているということが分かると思います。

b.「神に愛されているという実感」を土台に、神様に倣う者となる。

でもこの聖書の箇所の中でとっても大事だなと思う部分は、「愛されている子供らしく」という部分であると思います。ここで「愛されている子供らしく、神に倣う者となりなさい」と命じております。神に倣う者となる前に、愛されている子供らしくなる必要があるそういうことがわかると思います。
むしろ「愛されている子供らしくなければ、あなたが神に倣うことができない」ということが言えるんではないでしょうか。つまり愛されているという事実がなければ、あるいは愛されているという経験もなければ、愛されているという実感もなければ、私達はとてもとても神に倣うことができない。この順番をわきまえているということが、とても大事であるということを、ここから教えられます。
と言いますのは、私たちは時々この順番を間違えてしまうことがあるんじゃないかなと思うからであります。
愛される子供となるために、一生懸命私たちは神様に倣うものになろうと努力しているようなことが結構多いんじゃないだろうかと思われます。神に愛されるために 、子供となるために、神様に愛される子供として認めてもらえるために、一生懸命、神に倣う者になろうと努力をしているということが結構あるんじゃないでしょうか?
そして「まだまだ神の子供になれていない」「まだまだ神の子どもらしくなれていない」と、いつまでたっても神の子供になれない自分に気づかされて、色々自分を責めたり、落ち込んだり、そんな心境になってしまうことがあるのかなと思いますね。だんだん疲れてきますね。そしてだんだん自分に否定的になってしまう。信仰者としていつまで経っても成長できないと、非常に否定的になってしまうということが起こり得ることかなと思います。
順番が逆です私たちは愛されている子供らしくなるために神に倣うのではないですね。愛されている子供らしいから、愛されているという事実がまず先にあるからこそ、私たちは、倣う者になるわけです。この順番を、私達は間違わないように、間違えないようにしたいものだなと思います。
親に愛されて育った子供というのは、やがて自分が親になった時、子供を愛する親になると思います。十分愛されて育っていますので、成長の過程でたくさん愛をいただいておりますので、愛されている子供としての、子どもらしさというものを、その子供は身につけて行くんじゃないでしょうか。そのような子供が、やがて大人になった時に、子供を愛せる大人になっていくんだというふうに思います。ですから子供達は、本当に愛されて育てられる必要があると思います。その子がやがて、愛において本当に成長して、神に倣う者となるために、まずは十分に愛されるということが非常に大事なことではないかと思います。
先週、非常に悲しい事件が川崎で起こりましたけれども、スクールバスを待っている子供たちが、次々と包丁で切りつけられるという非常に痛ましい事件が起こりました。そしてその後、容疑者の方も自殺をされたということで、その動機の解明はちょっとなかなか難しいのかもしれませんけれども、今、振り返って、いろんなことが言われているようですね。いろんな分析がなされているようです。色んな事を見聞きする中で、でも私は思いましたね。もしあの容疑者の方が、自分は愛されているという、そういう実感を持つことができたならば、もしかしたらこんな事件は起きなかったんじゃないかなあと思ったわけですね。
そしておそらくこの国には、自分は全く愛されていない、自分は全く必要とされていないということに、苦しんで、悩んでいる方が、沢山いらっしゃるのかなということも考えさせられたことでありました。
どうすればそのような人々に、愛を届けることができるでしょうか。どうしたらそういう人たちが、自分は愛されているんだという実感を持つことができるでしょうか。
でも人は間違いなく、愛されております。聖書にそう書いてあります。「神はご自分のひとり子をお与えになったほどに世を愛された」(ヨハネ3章16節)と、聖書に書いていますね。全ての人が、この愛の対象です。ですから全ての人が間違いなく神様に愛されています。でもその愛に気づいてない人がたくさんいますね。どうすればこの愛を、その人たちに届けることができるんでしょうか。考えさせられることだなと思います。まずは、やはり聖書をちゃんと伝えなければいけないですよね。聖書にそう書いてますね。聖書に、「神は愛である」(第一ヨハネ4章16節)と、書いています。「神はこの世を愛してくださった」(ヨハネ3章16節)と、書いてあります。神様は間違いなくこの世を愛している、私たちを愛している、その事実をちゃんと伝えなければいけない。ですから本当に多くの人たちが、聖書の言葉と出会えるように、私達は祈っていかなければならないと思います。
でも同時に、もう一歩先に、愛されている私たちが、しっかりと愛されて、その愛をしっかりと経験して、そして神に倣う者になっていかなければいけない。その時に、神の愛が、わたしたちのそのような姿を通して、言葉や振る舞いを通して、人々に伝えられていくんではないでしょうか。
ですから、まず私たちが、神に選ばれている、 神に愛されている、そんなことに気づいている私たちが、本当によく愛されて、愛されている子供らしくなる必要があるんじゃないでしょうか。その愛をたくさん経験して、味わって、その愛に立って歩むということが、私たちに求められていることじゃないだろうかと思います。
愛は人を育てます。本当の愛というのは人を作り変えていくものだと思います。 あなたも愛されております。神様に愛されています。愛されていない人は一人もいません。でもあなたは、どれだけそのことに気付いているでしょうか。一週間の歩みを振り返りながら、一か月の歩みを振り返りながら、本当に私は神様に愛されているということを、どれだけ味わったでしょうか?どれだけ感謝したでしょうか?そしてこんな自分も赦されている、ちゃんと神様はゆるしてくださってる、愛してくださっているというその恵を、どれだけ私たちは味わったり、経験しているでしょうか。ぜひ私たちは、その神の愛に包まれながら、その愛をしっかりと味わいながら、愛されている子供らしく成長していきたいと思います。
その時に私たちは神に倣う者にされてゆきます。是非私たちを通して、本当に神の愛が表されていくように、お祈りをしていきたいというふうに思います。

2.たゆまず歩み続けなさい

さて一節を通して私たちは、愛されている子供らしく神に倣う者となる必要があるということを教えられました。でもあなたの心の中にはこんな思いがあるかもしれません。
「それはとても難しいことだ。」と。
赦されたことは感謝ですね。本当に赦していただいたことは感謝です。でもとても人の罪を赦すことができませんという方もいらっしゃるかなと思います。
神ご自身の愛の姿を知った上で、本当に素晴らしいなと思いながら、とてもとても神に倣うことができない、そのような生き方はできないという、そういう思いになる時もあるじゃないかなと思います。
確かに頭で理解していることと、実際にその通りに生きるって言うことは、大変な違いだと思います。

a.諦めるな

そこでパウロはここで終わりません。更なる教えと、続いていきます。
今度は5章の2節の言葉に注目していきたいと思います。2節の冒頭の言葉は、こういう風に語っております。
また愛のうちに歩みなさい。
「また、」と、言っていますね。その前の命令を、教えを、さらに具体的に違う言葉で言い換えているということが分かります。そしてここで愛のうちに「歩みなさい」という、この動詞を使っているということに、私たちは注目をしたいと思います。
「歩みなさい」というのは、どういうことでしょうか。それは足を止めるなということです。諦めるなということです。ストップさせないでくださいということです。継続は力なりと言いますけれども、継続しなさいということです。そして実はパウロはこの「歩む」ということをエペソ書の中で、もうすでに使ってきておりました。
既に学んだところですけども、4章の一節でこんなことを命じておりました。
さて主にある囚人のわたしは、あなたがたに勧めます。あなたがたは召されたその道にふさわしく歩みなさい」と、ここですでに「歩みなさい」と命じております。
また4章の17節ではこんな風に言っていますね。
ですから私は言います。主にあって厳かに勧めます。あなたがたはもはや異邦人が虚しい心で歩んでいるように、歩んではなりません。
こちらは、「歩んではなりません」、という言い方ですけれども、要するにパウロはもうすでにエペソ書の4章の中で、私たちの歩み方について教えてくれていたということに気づかされます。私たちは召されました。神様によって召されましたね。召された私たちは、その召しにふさわしい歩み方をしなさい、そして異邦人のような歩みをしてはいけませんよと、そういうふうに私たちの歩み方について、もう既に教えてくれていた。そしてそのメッセージが、実は5章にも続いていきます。
5章の8節「あなた方は以前は闇でしたが、今は主にあって光となりました。光の子供として歩みなさい。」
ここでも、「歩みなさい」と、出てきますし、
さらに15節「ですから自分がどのように歩んでいるか、あなた方は細かく注意を払いなさい。」どのように歩んでいますか、あなたがたは注意をしなさい 、と命じている。つまり4章5章と、パウロがずっと、この同じ命令を続けて言っている。私たちがどう歩んだらいいか、その歩み方について、教えてくださっていたということに気づかされると思います。

b.神様の恵みをいただいた上で、歩みつづける。

パウロはエペソ書の前半の1、2、3章では、この、「歩む」という動詞は一度も使っていません。むしろそこで教えられていることは、歩むことではなくて、立ち止まること、しっかりと味わうこと、しっかりと経験すること、神様がどんなに素晴らしい方であるか、どんなに、恵み深い方であるか、その事をよく味わいなさい、よく経験しなさいということが、エペソ書の前半のメッセージでした。「この恵みの故に、あなた方は信仰にいよって救われました。それはあなた方から出たことではなく、神の賜物です。」エペソ書2章8節ですけれども、それはあなた方自身から出たことではなくて、神様からの賜物なんだよ、この賜物をちゃんと味わうように、経験するように、それがエペソ書の前半のメッセージでした。
ところがそのメッセージをいただいて、4章、5章、6章では、どんなメッセージに変わっていくでしょうか。「歩みなさい」というメッセージに変わっていきます。
前半のメッセージをいただいた上で、後半の歩みが始まっていく、そして神様の恵みをいただいた上で、私たちの足が動き始める、歩み始める、そういう展開になっていくということはぜひ覚えていただきたいと思います。信仰者である私たちは、「歩き方」のエキスパートにならなければ、いけないんじゃないかなと思っております。
パウロはここで「愛のうちに歩みなさい」と命じております。「愛のうちに歩む」ということはどういうことでしょうか?それは歩き続けるということ、途中で諦めないということです。あまりうまくできなかったとしても諦めないということです。愛において私たちは最初、もしかしたら失敗することの方が多いかもしれないですね。最初から立派に愛せる人はいないと思います。最初はむしろ愛したいと思っていても、なかなか愛せない。愛ではなくて、それとは全く逆のものが自分から出てきてしまう、そんな自分に気づかされて、なんとなく落ち込んでしまってですね、そしてもうそこで歩みを止めてしまうということがあるかもしれません。でもそこで止まってしまったら何も起こりません。そこで諦めずに歩き続けていったら何が起こるでしょうか。みことばによって、神に愛されていることを私たちが教えられ、確認し、味わい、そして一歩一歩と歩みを続けていったらどうなるでしょう。
少しずつですけれども、私たちは愛の人に変えられてゆくんではないでしょうか。
よく、長距離をみんなで歩くイベントが、各自治体で企画されることがあります。参加者の皆さんとおしゃべりを楽しみながら、あきらめないで、一歩一歩前に歩き続けたらどうなるでしょうか。なかなかゴールにはたどり着けませんね。半日、一日かかるかもしれません。でも、周りの風景を楽しみながら、一歩一歩、歩き続けたら、いつかはゴールにたどり着きます。そしてゴールにたどり着いた時に、自分が歩んできた歩みを振り返ってみたときに、よくこんなに歩いてきたなーと、なんとなく自分が誇らしく感じられたり、ちょっと自分に自信がついたりということがあるんじゃないかなという風に思います。
「愛のうちに歩む」というのもそれと同じです。私たちは最初から上手に人を愛せるわけではない 。むしろ最初は愛において失敗することが多い私たちだと思います。でもそこであきらめないで、神の愛を覚えながら、愛されていることを味わいながら、一歩一歩進んでいったらどうなるでしょうか。だんだんゴールが近づいてきます。そしていつかはゴールにたどり着きます。私たちは本当に愛の人に変えられていきます。
皆さんは今スタートして、だいたい何キロ目ぐらいを歩いているでしょうか。まだ歩き始めたばっかりですという方もおられるかもしれない。結構歩いてきましたという方もいるかもしれない。今ちょっとお休みしてるところですって、休憩中の方もいるかもしれません。でももう疲れたからやめましたっていう方はいないでしょうか。
大切なことは、「あゆむ」ということ、愛のうちに歩むということ、その時私たちは少しずつ愛の人に変えられているということを、信仰をもって信じたいと思います。そのようにして一歩一歩と前に歩みを進めていく者でありたいというふうに思います。

3.私たちが上手に歩むためのモデル

そして最後に、やっぱり私たちが上手に歩むためには、モデルが必要だと思います。歩き方のモデルを示してくれる人もいると思いますけれども、ちゃんと疲れないで歩けるように、長く歩けるようにちゃんとモデルを示してくれるかたの存在はありがたいと思います。
私たちもやっぱりモデルが必要ですね。どのように歩めばよいのか、どのように愛のうちを歩んでいったらいいのか、モデルはどんなモデルでしょうか?そのことをパウロは今日の最後のところに示してくれております。そこを注目して今日は終わりたいと思います。5章2節、
「キリストも私たちを愛して、私たちのためにご自分を神への捧げ物、また生贄とし、香ばしい香りを捧げて下さいました。」
私たちが模範とすべきモデルはどなたでしょうか。それはもちろんキリストであることが分かります。そしてこのキリストの姿を、パウロはここで私たちのモデルとして、模範として示してくれていますけれども、その姿について、こう語っています。
キリストも私たちを愛して、私たちのためにご自分を神への捧げ物、またいけにえとし、香ばしい香りをさ下げてくださいました。
ここに模範とすべき、私たちが模範とすべき、キリストの姿が表されています。
ちょっと読んで、ピンとこない人もいたんじゃないかなと思います。
ここでパウロがこの言葉を書いている時に、パウロがイメージしているイメージは、ユダヤ人が、礼拝をするその場面をここで思い描いているということがわかります。パウロはユダヤ人ですので、ユダヤ人が礼拝をするときに、どういう礼拝をするか知り尽くしておりますね。ですからここに書いてあることはパウロには、よくイメージされて分かってるわけですけれども、私たち日本人はそのことがあんまり分かりませんので、読んでもピンと来ないようなところがあると思います。
でもそんな私達でも、旧約聖書のレビ記を読むとだんだん解ってきます。レビ記という書物は、イスラエルの民が旧約時代にどのような礼拝を捧げていたかが教えられています。
そこに人びとが礼拝するときにどういう風に礼拝するべきかが書いています。人々は神様に対して礼拝を捧げる時は、牛や羊を持ってきました。またある時は、穀物の捧げものを持って参りました。彼らはどうでもいいものを持ってきたわけではないんですよね。最上のもの、最高の物、キズの無いもの、ケガレのないものを用意して持ってきました。そこに犠牲が払われているということが分ります。その捧げ物を祭司が聖別をして、屠るんですね。家畜の場合は屠るんです。血だらけになります。血だらけになった動物を、祭壇の上に乗せて、そして礼拝をする。そういうスタイルが出てまいります。 祭壇の上で火を燃やしてその生贄を捧げると、その火が燃えるんですけれども、そうすると白い煙が立って、天に昇っていくんですね。そのイメージがずっとパウロの中にあることが分かるのですけれど、そのささげ物が レビ記の記述を読んでいると、「香ばしい香り」であるという風に教えられております。例えばレビ記の1章の9節にはこういうことを書いてます。
祭司はこれらすべてを祭壇の上で焼いて煙にする。これは全焼の捧げもの、主への食物の捧げもの、香ばしい香りである」と、そこに書いてあります。そのような同じような記述が2章にも、3章にも、4章にも、繰り返し出てまいります。イスラエルの人たちが捧げる捧げものは、全焼の生贄とか、和解の生贄とか、罪のための生贄とか、穀物の捧げものと、いろんな種類の生贄、捧げモノがあったんですけれども、それらはみんな、「香ばしい香り」として、主に捧げられたと教えられております。天に立ち上っていく煙が、香ばしい香りとなって、神様に届けられたというのは、それはつまり神様がそれを喜んでくださったということ、神に受け入れられる生贄だった、礼拝だったということが、そこで表されている。その言葉を、エペソ書5章2節でパウロは使っているということが分かるんですね。
キリストも私たちを愛して、私たちのためにご自分を神への捧げ物、またいけにえとし、香ばしい香りを捧げてくださったと教えている。そしてこれは実は、イエス様の十字架のことを意味しております。
イエス様の十字架って、何を表しているんでしょうか。それはイエス様が私たちの罪の全てをその身に背負って、身代わりの死を遂げられたということを意味しております。そのようにして、神にささげられる生贄になってくださった。何故そんなことをしたんでしょうか。なぜキリストがそんな事をする必要があったのか?ここに書いてあります。
キリストも私たちを愛して、私たちのために自らを捧げてくださった。
私たちを愛してくださったことの故です。私たちのために、自らを捧げて、本来私たちが受けなければならない神の裁きを、身代わりになって受けてくださった。その事を私たちは、いつでも忘れてはいけない。私たちの身代わりとなって捧げられたキリストを、私たちは忘れてはいけない。でもそのイエス様が、香ばしい香りとなって神に捧げられた。神様がその事を 喜んでくださった。神様が受け入れてくださった。これがモデルなんです。これが私たちが、愛のうちに歩むためのモデルです。目標としなければならないモデルです。神に愛されキリストにおいて罪を許された私たちは、今度は、このキリストを目標として、このキリストをモデルとして、互いに赦し合うこと、愛しあうことが求められている。そのことを私達はここで覚えるものでありたいと思います。そこで求められているのは、イエス様のような愛です。イエス様が私たちのために、自らを捧げてくださって、一番大切なものを私たちのために捧げてくださった、これが目標。その愛を私たちの目標にして、愛のうちに歩んでいくということが、ここで教えられているということを心に留めるものでありたいと思います。そしてその時に、それは香ばしい香りとなって神様が喜んで下さる、神様がその事を本当に喜んで下さる、そういう香りになるということを是非覚えるものでありたいと思います。

4.まとめ

あなたの日々の歩みの中から、どれだけこの香ばしい香りが放たれているでしょうか。あなたが人と接するとき、人と交わるとき、兄妹姉妹と語り合う時、その言葉を通して、その振る舞いを通して、その行いを通して、どれだけ香ばしい香りが放たれているでしょうか。それはどれだけ神様に喜ばれる、そういう愛の姿になっているでしょうか。是非神様が喜んで下さるそういう香りでありたいなと思います。パウロはコリントの手紙の第2の2章15節ではこんなことも言っています
私たちは、救われる人々の中でも、滅びの人々の中でも、神に捧げられた芳しいキリストの香りなのです。
ここでも香りということ教えていますけれども、私たちの歩み、振る舞い、行い、言葉を通して、本当に芳しい香りが放たれていくように、私たちはぜひこのイエスキリストの姿を目標として、祈り励んでいくものでありたいと思います。
そのために私たちが、愛のうちを歩むということです。神に愛されているということを覚え、人を愛す、兄妹姉妹に愛され、兄妹姉妹を愛す。そういう、愛のうちにある歩みを通して、私たちは少しずつ変えられていく、成長に導かれていくということは、ぜひ覚えたい。そして目標であるイエス様を目指して歩いていきたいと思います。決してその歩みを止めることがないように、目標はしっかりと示されております。なかなか到達するのは難しいかもしれません。でも一歩、にほ、さんぽ、よんほ、あきらめないで歩んで行く時に、必ず私たちはゴールに到着出来るんですね。そのようにして神様は導いてくださっている、その様にして私達は、愛において成長していくものでありたいと思います。

お祈りをしたいと思います。愛する神様、まずあなたが私たちを愛してくださいました。あなたが私たちに、一番大切な独り子、イエス・キリストをお与えくださいました。私たちの罪の身代わりとなって、イエス様が死んでくださったことにより、私たちは今、神の子供です。神の子供とされました。そのような愛を受けている私たちが、お互いに愛し合うことができるように、愛のうちに歩み続けることができるように、今週も今月も守り導いてくださるようにお願い致します。み言葉を感謝しイエス様のみ名によってお祈りをいたします。

この記事を書いている人 - WRITER -
若井 和生師
若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。

- Comments -

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください

Copyright© 聖書の言葉の余韻に浸る , 2019 All Rights Reserved.

You cannot copy content of this page