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神が沈黙される時に考えるべきこと。第一サムエル28章3〜25節

 
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若井 和生師
若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。

Ⅰサムエル記28章3~25節

1.連戦連勝だったサウルが、ペリシテ人を恐れるようになった理由。

月に1回、サムエル記、旧約聖書のサムエル記から御言葉を聞いておりますが、サムエル記を学ぶときはだいたいダビデの信仰者としての姿から学んだり、またサウロの姿から学んだりすることもありますけれども、今日はダビデではなくてサウル王の姿に注目をしていきたいと思います。今日の箇所に出てくるサウルの姿は、神様にではなく霊媒師に頼ってしまうと言う、信仰者のあり方としては非常に残念な、そして深刻な問題を抱えていたということが感じられますけども、その姿はもうすでに末期的症状を呈していたと言っていいんではないかと思います。その霊媒の女によって呼び出されたサムエルを通して、死の宣告を受けて、そしてその翌日には、死を迎えるというそういう展開になっていきますけれども、そのことを思う時に本当に残念な、そして惨めなサウルの姿がここにあるという風に言えると思います。なぜサウルはこうなってしまったんだろうかと私たちは考えさせられるわけですけれども、今日はこのサウルの姿に注目しながら、私たちに対する戒めと教訓としていきたいと思います。

28章4節5節にこういう風に書いてあります。
「ペリシテ人は集まってシュネムに来て陣を敷いた。サウルは全イスラエルを招集して、ギルボアに陣を敷いた。サウルはペリシテ人の陣営を見て恐れ、その心は激しく震えた。」
この箇所を通してペリシテ人たちが集まってシュネムというところに来て陣を敷いたということ、それに対してサウルも全イスラエルを招集して、ギルボアに陣を敷いた。つまり戦闘の体制を整えたということがわかります。ところがその時サウルは、ペリシテ人の陣営を見て恐れたということ、しかもその心は激しく震えたと5節に書いてあります。サウロの心が本当に大きな恐怖に囚われてしまったということが感じられる言葉であります。サウルはイスラエル王国の王ですけれども、今までペリシテ人と何度も戦ってきました。これが初めてではないですね。そしてほとんどの時に、サウナは勝利してきました。第一サムエルの14章にはペリシテ人だけではなくて、様々な民族とサウルが戦うその姿が描かれているところがありますけれども、14章の47節48節を見るとこんな風に書いてあります。
「さてサウルはイスラエルの王権を握ってから、周囲の全ての敵と戦った。モアブ人、アンモン人、エドム、ツォバの王たち、ペリシテ人と戦い、どこに行っても彼等を敗走させた。彼は勇気を奮って、アマレク人を打ち、イスラエル人を略奪者の手から救い出した。」このようにサウルが王になった後、敵を次々と敗走させ、勇気を奮って戦う非常に勇ましいサウルの姿ここに書かれてあります。そのようにしてイスラエルに勝利をもたらしてくれる、本当に頼もしい王の姿が、勇ましいその姿がここに書いてあります。
ところが今日の聖書の箇所を見ると、サウルはまるで別人のようです。全く違います。気弱で敵の前で恐れおののいている、心が震えていた。
いったい何があったんでしょう。今まで彼が戦ってきて、そこで培ってきた経験は、全然役に立っていないということがわかります。今まで身につけたところの様々な自信というものも、この時はどっか行ってしまった。一体何があったんでしょうか。勇敢だったサウルがなぜこうなってしまったんだろうかと、私たちは皆考えるところだと思います。

a.サムエルの死

一つ考えられるのは、サムエルが死んだということであります。4節の前の3節で、サムエルが亡くなったということが、ここで紹介されています。そのために全イスラエルが悼み悲しんだこと、そしてサムエルをラマに葬ったということが記されてあって、その後の話になっております。サウルと預言者サムエルの間には、今までいろんなことがありましたけれども、でもやっぱりサウルはサムエルのことを頼りにしていたということが言えると思います。サムエルはイスラエルの預言者でしたから、神の言葉をちゃんとサウルに対しても伝えてくれるし、イスラエル全体に対しても伝えてくれる。やっぱり何かあった時に、頼りになるそういう存在だったわけです。この後サウルは霊媒の女のところに行って死んだはずのサムエルを呼び出したりいしていますけれども、そういう場面を見ても、やっぱりサウルはサムエルのことを頼りにしていたんだなということを感じます。

b.神との関係が希薄だった=神様より、目に見えるサムエルを頼る。

でもより根本的な問題が彼にはありました。もっと大事な原因がありました。それはサウルと神様との関係が希薄だったということであります。
サウルと神様の関係は、この時どんな関係だったんでしょうか。このあと少しずつ明らかになっていくんですけども、サウルの心の深いところでは、神様に対する信頼関係がないですね。神様との信頼関係がなかなかうまく築けない状態でした。神様の事をいつも意識しています。表面的にいつも神様のことを覚えていますけれども、でも深いところでは神様との関係が希薄なんです。よって、目に見えない神よりも、目に見えるサムエルのほうが大事になってしまいますね。それ故に、このサムエルがいなくなってしまった時に、急に不安になってしまう。そんなサウルの姿を私たちはここに見ることができる。
そんな傾向が私たちにもあるんではないだろうかと思うんですよね。
目に見えない神様よりも、目に見える人間のほうがよっぽど安心が出来ると、そんな気持ちがして、つい人に頼ってしまう。神様ではなくて人に頼ってしまう。そういう傾向が私たちの内にもあるんではないでしょうか。それゆえに、その人がいなくなってしまうと急に不安になってしまう。それまで意識したこともないような大きな恐れを感じてしまう。そしてサウルのように、心が激しく震えてしまうというような、そんなことも経験するんではないかと思いますね。
何が原因なんでしょうか。その人がいなくなったことが原因でしょうか。そうではないですよね。もっと深いところに原因があるんです。神様との関係が希薄なんです。そして神様ではなくて、目に見えるものに頼っているんです。イスラエルの民もかつてそうでした。モーセが山に登ってなかなか帰ってこない。いつまでたっても帰ってこない。それで不安になってしまって、彼らは偶像を作ってしまいました。金の子牛を作ってしまいました。その金の子牛に頼りたくなってしまった。目に見えない神様じゃなくて、目に見える何かに頼りたい。その話が出エジプト記の中に出てきますけれども、私たちが、みんな持ってる傾向と弱さじゃないでしょうか。やっぱり目に見えない神よりも、目に見えるものに信頼したくなってしまう。そういう傾向を持っていると思います。
でも私たちは、そんな中にあって、真の神様を仰ぎたいと思います。聖書を通して真の神様はどんな方であるかということを絶えず覚えたいと思います。あなたは、何に信頼してるでしょうか。何を心の支えとして生きているでしょうか。ぜひ私たちは聖書に示されているところの、天地万物の創造主なる神様、偉大な神様、そしてとこしえに変わらない神様、万軍の主、全能の神様、この神様を信頼していこうではありませんか。この方に私たちの信頼を寄せていこうではありませんか。この方を仰いでいこうではありませんか。そのことをまず共に覚えたいと思います。

2.サウルは祈ったが、神様は沈黙された。それはなぜ?

このように5節において、ペリシテ人の陣営を見て、心が激しく震えているサウルを見ましたけども、今日のその後の展開を見る時に、サウルは、すぐその後、霊媒の女のとこに行ったわけではなくて、その前に祈っているということがわかります。神に向かって祈ってるんです。ところが神からの答えはなかった。そのために霊媒の女にところに行かざるを得なくなったように見える展開じゃないかなと思うんですね。
そのことが6節に書いてあります。「サウロは主に伺ったが、主は、夢によっても、ウリムによっても、預言者によってもお答えにならなかった。」
サウルは心が激しく震えてますから、やっぱり神様に頼りたくなったんだと思いますね。ですから主なる神に祈りました。 ところが主は夢によっても、ウリムによっても預言者によっても、お答えにならなかった。つまり神様は沈黙されたっていうことです。
旧約聖書の時代に、神の御心を求める方法として、ウリムというものがありました。ウリムとトンミムという言葉で、聖書の中に時々出てきますけれども、大祭司が身につけていたエポデという装束に取り付けられていた物体で、イスラエルはこのウリムとトンミムによって神の御心を求めることが多かったということが聖書の中に出てきます。しかし今回神様は、そのウリムによっても御心を示してくださらなかった。それだけではない、夢や預言者を通しても何も語ってくださらない。つまり沈黙を保たれた。どうしてなんでしょうか。
ダビデが祈るとすぐ答えてくださる神様が、サウルが祈っても全然答えてくださらないというのは、これは不公平なんじゃないでしょうか。不平等なんじゃないでしょうかと、普通私たちは思ってしまいたくなるようなところだと思います。その結果を受けて彼が、霊媒の女のところに行ってしまったという展開を考える時に、なぜ答えなかったんだろうかと、もしここで神様が何かの答えを与えてくださったら、もしかしたらサウルは、霊媒の女のところに行かなくても済んだんじゃないか。そんなことを考えると、どうしてこの時答えがなかったのかという気がしてきます。そんな場面ではないでしょうか。

a.神様を責めるサウルの心情

でも思うんですね。この時のサウルと神様との関係は、一体どんな感じだったんでしょうか。このあと分かってきますけれども、サウルは、最初から神様に対してほとんど信頼していないということが言えると思います。この後、霊媒の女のところに行って、その女からサムエルを呼び出してもらって、そのサムエルと話をしますけれども、その話の中で、15節でサウルはサムエルにこんなことを言っています。
15節「サムエルはサウルに言った。『なぜ私を呼び出して私を煩わすのか。』サウルは言った。「私は困り切っています。ペリシテ人が私を攻めてくるのに、神は私から去っておられます。預言者によっても、夢によっても、もう私に答えてくださらないのです。それで私がどうすれば良いか、教えていただくために、あなたをお呼びしました。』」
相当に困り切っているサウルの気持ちがここに出ておりますけれども、ここでサウルはサムエルに訴えているんですね。神は私から去っておられる、もう神は私に答えてくださらない。何か恋人に捨てられたような、そんな感じに見えますけれども、ここでサウルは自らの現状を訴えているようでありながら、でも半分では神様のことを責めている。こんなにお願いして、こんなに困っているのに、神様は何もしてくれない。こんなに祈っているのに何も答えてくださらないのですと、正直な気持ちだと思いますけれども、でもその心の中には、神様を責める気持ちがありますね。そんなサウルに対しては16節でこのように答えました。
「サムエルは言った。『なぜ私に尋ねるのか。主はあなたから去り、あなたの敵になられたのに』」。
神様から返事がないのは当然です。それは神様がもうサウルから去ってしまった。そしてサウルの敵となられた。その事実をサムエルはサウルに伝えました。そしてその後、サウルのもとを神様が去っていった。その経緯、その理由、サウルの敵となられた理由について指摘しました。

b.サウルの不従順

それはサウルの不従順の故であったということ、特にアマレク人を罰しなかった罪が、ここで問題にされているということが、18節を見ると分かります。
18節でサムエルは言いました。「あなたが主のみ声に聞き従わず、主の燃えるみ怒りをもってアマレク人を罰しなかったからだ。それゆえ主は、今日このことをあなたにされたのだ。」と。アマレク人とのやり取りについては、15章に詳しく出てきます。 そこでかつてアマレク人との戦いに勝利をしたサウルでしたけれども、そのサウルに対して神様はこういう命令を下しました。「全てのものを聖絶しなさい。」それが主の命令であり、み心だったんですけれども、ところがサウロは勝利したんですけれども、その時に肥えた羊や牛の最も良いものを、聖絶するのを拒んで、つまらない、値打ちのないものだけを聖絶した。そのようにして神の御言葉に聞き従わなかったということがありました。そしてその点を指摘された時に、「いやこれは神様の礼拝のためにとっておいたんです」と、もっともらしい嘘をついた。こうして著しく神の御心を損ねたということが、かつてあったわけです。その時のことが、ここで指摘されているということがわかります。そしてその時に、サウルは指摘されたけれど、十分に悔い改めることがなかった。そしてあの時から振り返ると、サウルの信仰は、少しずつおかしくなっていったんじゃないだろうかと思います。
サウルは神様のことは意識しているけれども、でも基本的に神に従う姿勢がなくなってきました。そしてすぐに自分の気持ちにとらわれるようになっていきます。そしてどこかで神を利用するような、そんな信仰になっていったんじゃないでしょうか。失敗しても十分に反省することがなく、罪を犯しても心から悔い改めることもなく、その時その時の気持ちのままに振る舞うような、そんな信仰者になっていたんじゃないでしょうか。ですから祈っても答えがなければ、全部神様のせいです。自分の罪と不従順が、神様を遠ざけているという自覚がないです。自分の姿が全く見えていないです。

c.神様の沈黙ー祈っても答えられない時こそ、悔い改めの時。

改めて考えたいと思いますけれども、神様はどうして何もサウルに、語ってくれなかったんでしょうか。第一の理由は、言うべき事はみんな言ったから、そして第2の理由は、どんなに御言葉を語っても、サウルに聞く姿勢がないから、だから語っても無駄なんです。基本的にサウルに御言葉に聞き従う姿勢がないんです。だから神は沈黙されたんではないでしょうか。その責任は、神にではなくて全部サウルにあった。そのことにサウルは気づくべきだったですよね。
私たちと神様の関係は今どうなっているでしょうか。私たちも祈っても、祈っても答えがない。そう感じられる時があるかもしれません。そしてなんとなく沈黙を保っておられる神様を、責めたいような、不平不満がだんだん出てくるような、こんなにお話をしているのに、なぜあなたは答えてくださらないのですかと、そういう祈りになる時もありますね。
でも祈ってるうちに、だんだん自分のことが見えてきて、自分のことを示されるということもあるんじゃないかなと思うんです。祈っても何も答えがない時は、自らを吟味する時ではないだろうかと思いますね。自分の胸に手を置いて、この祈っている自分の姿は、本当にそれでふさわしいのかどうかを考えて見る時じゃないかと思います。イザヤ書59章1節、2節に、こんな言葉が出てまいります。
「見よ。主の手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて聞こえないのではない。むしろあなたがたの咎が、あなた方と、あなた方の神との仕切りとなり、あなた方の罪が、御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。」イザヤ書59章2節ですけども、神が遠くにおられるように感じるのは、それは神様のせいではないんだ。私たち人間の罪と咎が、神と私たちの間の仕切りとなって、神を遠ざけているという事実が、ここに紹介されています。私たちもそうなっていないでしょうか。私たちは、自分のことは一番よく見えていないですね。自分の事は棚に上げて、人のせいにしたり、環境のせいにしたり、神様のせいにしてしまう、そういう傾向があると思います。でもまず私たちは、自分の胸に手を置いて、自ら吟味するところから始めようではありませんか。悔い改めるところから始めようでありませんか。そのようにして神様との環境を、整え始めようではありませんか。そこから神様の祝福が始まっていくということを覚える者でありたいと思います。

3.その後の展開=霊媒師の女と、サムエルの死刑宣告。

最後にその後の展開と、その結末を見て終わりたいと思います。
結局サウルは神様からの答えをいただくことができずに、霊媒をする女の元に駆けつけて行きました。エンドルという所に、一人の霊媒をする女がいるという情報を聞いて、サウルはふたりの部下と一緒に出ていくわけですけれど、この時彼は、変装して、身なりを変えて出て行ったと書いてあります。つまり自分がサウロであるということが、バレないようにして出て行ったということですね。
イスラエルにおいて、霊媒に頼る行為は、律法で禁じられる大変重い罪でした。それは第一に偶像礼拝であり、第2にそれは神の領域に人が入るという、あってはならない行為でした。そういう意味で、二重の意味で、大変重い罪だったわけですけれども、それはサウルも分かっていたんです。わかっていたからこそ、サウルは一度は国内から霊媒を追い出していたということが3節に出ていますね。ですから彼は王としての政策として、そういった霊媒の女、霊媒師達を追い出していて、一度はそのことを守っていたようでしたけれども、その自分で追い出していたところの霊媒に頼らざるを得ないというところに、サウルの矛盾があるし、彼がいかに追い詰められていたかということが伝わってくるわけであります。
このあとサウルは、その女にお願いして、サムエルを呼び出してもらいますけれども、結局その時、自分がサウルであることが、バレてしまいます。そして先ほど見たように、サムエルと会話を交わして、色々と訴えていますけれども、最後にははっきりと宣告をされ、最後に19節の言葉をもって宣告を受けました。
「主は、あなたと一緒にイスラエルをペリシテ人の手に渡される。明日、あなたもあなたの息子たちも、私と一緒になるだろう。主は、イスラエルの陣営をペリシテ人の手に渡されるのだ。」
ここで言われていることは死刑の宣告であります。
あなたもあなたの息子たちも、私と一緒になるだろうというのは、あなたは死ぬという意味の言葉です。しかもサウロだけではない。サウルの息子たち、この中にはヨナタンも含まれるわけですけれども、彼らも一緒であるということが伝えられる。しかもイスラエルはペリシテ人に敗北する。主がイスラエルをペリシテ人の手に渡されたということが、2回もここで繰り返されています。一番聞きたくないこと、あるいはもう予想をはるかに上回るような悲劇的結末が、ここで突きつけられたということではないでしょうか。サウルは敵を目の前にして、本当に心が震えて恐くなって、なんとか助けてほしいと思って、サムエルを呼び出したにもかかわらず、そのサムエルからこんなに厳しいことを言われた。
そして結果的に彼はどうなったかと言うと、20節を見ると、「サウルは直ちに地面に倒れて棒のようになった」と記されてあります。そしてサムエルの言葉に怯え、神様の祝福から完全に退けられた、サウルの姿がここに記されてあります。この地面に倒れて棒のようになってしまっているサウルの姿を私たちは、よく目に焼き付けておきたいと思います。こういう記事が聖書の中にちゃんと書き留められていることの意味も、ちゃんと覚えておきたいと思います。

4.まとめ

なぜこんな風になってしまったんでしょうか。信仰者のサウルがなぜこんな風になってしまったんでしょうか。かつてのサウルを思い出す時に本当に残念です。かつてのサウルは神の選びの器でした。神に選ばれたからこそ、イスラエルの王になった本当の勇者でした。素晴らしい信仰者だったのに、そのことを思えば思うほど、これが最後の結末かと思うと本当に残念ですね。本当に悲しいです。でもそのサウルの姿から、私たちは学ばなければいけないんではないんでしょうか。
私達は、他人事のようにではなく、自分のこととして、このことを考えなければいけないと思います。なぜこうなってしまったのか、全ての始まり、18節で指摘されているように、サウルが主のみ声に聞き従わなかったことから始まっているということではないでしょうか。つまりサウルの主に対する不従順、 その結果、彼は失敗し、挫折をし、その時にいろんな複雑な思いになって、その時に悔い改めることをしないために、自分の気持ちにどんどんどんどん囚われるようになってしまい、ますます神を信頼できなくなり、人との関係もうまく構築することができなくなり、どんどんどんどん悪いほうに落ちてしまうという、そういう悪循環がサウルの人生に見られるのではないでしょうか。そしてその行き着いた先が、今日のこの聖書の箇所である時に、主に聞き従うということが、どんなに大事なことかということを今日の聖書の箇所から私たちは覚えるものでありたいと思います。
最初のボタンのかけ違いが、その後全部間違ってきますね。最初のボタンがピチッと合わない限り、全部あいません。途中直してもただ混乱するだけですね。最初のボタンがあっているかどうかが大事です。あなたの最初のボタンはきっちり合ってるでしょうか。神様の御言葉に聞き従うというその姿勢が、しっかりと神様の前に整えられているでしょうか。
このボタンがずれると、もういろんな問題が起こってくる。だんだん自分の気持ちに囚われていくようになる。途中で直そうと思っても駄目ですね。最初のボタンが大事です。神の、み言葉に聞き従うということがいかに大事であるかということを、今日のサウルの姿から私たちは学びたいと思います。主は、御心とひとつになって歩む人を求めています。その人を通して、みわざをなしたいと願っております。その人を用いたいと願っています。私たちはぜひ、みこころとひとつになろうではありませんか。み言葉に耳を傾けて、主の御心が何であるかをよく悟り、その御心に従うものとなろうではありませんか。そこに祝福の道があることを信じて、是非そのようなものにしていただきたいと思います。

お祈りをしましょう。恵み深き私たちの父なる神様、今日はサウルの姿を通して本当に大切なことを教えてくださいました。このような記事が聖書に記されていることの意味も教えてくださって感謝します。
どうぞ、せっかく与えられたこの恵みを、無駄にしてしまうことのないように、絶えず主が語ってくださる声に耳を傾け、御言葉を聞き、そのみ心に従っていくことができるように、私たちを御言葉によって導いて下さいますようにお願いいたします。心から感謝しイエス様のみ名によってお祈りをいたします。アーメン。

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