主に召された私達ー・・・エペソ書手紙4章1~3節
昨年2018年は新約聖書からはエペソ書の御言葉を順番に注目をしてまいりましたけれども、今日から4章に入ります。そして4章に入るということはいよいよエペソ書の後半に入るということになります。エペソ書は全部で6章あります。1、2、3章が前半部分です。4、5、6章が後半部分になります。そして今日与えられている4章1、2、3節の御言葉はこの前半部分と後半部分をつなぐ橋渡しをしているという意味で、大事な部分ということになります。パウロは、1章、2章、3章で、神様が歴史の中で展開しておられるみわざについて語ってきました。神様のご計画、その素晴らしさ、その展開について、ちょっと語ってきたわけです。そしてその内容を受けて、今日から始まる後半部分におきましては、私たちキリスト者としての歩みの「実践」について教えております。つまり前半は、神学的なことが中心であり、後半は、私たちの実践的なことが中心であるということであります。あるいは前半部分は神様の御業というものが中心でしたけれども、後半は私たちの歩み、キリスト者としての生き方、生活というものが中心になってまいります。
ですから神様から、私たち、という風に大きくテーマが旋回しているということが分かるかと思います。
だいたいパウロの手紙は、そういう構造をとっていることが多いんですけれども、エペソ書も同様であるということに気づかされます。今日から始まる後半部分ですが、私たちは引き続き期待して注目していきたいと思います。
1.聖書の理解と実践を結びつけるもの…「召し」について
さてそんなつなぎの場面ですね。今日は前半と後半をつないでいるのつなぎの場面に際しまして、私たちは自分たちの事に関して、一つ考えさせられることがあるんではないかなと思います。
それは私たちが聖書を通して学んだ聖書の理解と、私たちのキリスト者としての実践が、必ずしも結びついていかないというそういう課題を私たちは意識することがあるんではないかなと思います。
ある方は聖書の学びに熱心ですね。聖書が大好きです。ところが学んだことが、必ずしも自分の生活の中に、実践されていかないという、そういう課題を抱えることがあると思います。
またある方は、行いにはとても熱心ですね。実際に常に積極的です。クリスチャンとしての奉仕や、証に熱心に取り組みますけれども、しかし、その実践が、必ずしも聖書に結びついていないということもあります。なかなか聖書的な実践になっていかないという場合もあるかと思います。
そんな二つの両極端があるように思いますが、聖書の理解と、私たちのキリスト者としての生き方が、ひとつにつながっていかない、バラバラになってしまうという、そういう課題を、私たちは抱えやすいのではないかなと思います。何かが欠けています。何かが足りないです。
その何かとは何か、ということですけれども、それは、「私たちが、主に召されている」という、その「召し」の意識が十分ではないということがあるんではないだろうかと思います。
1節を、お読みします。
「さて主にある囚人の私は、あなた方に勧めます。あなたがたは召されたその召しにふさわしく歩みなさい。」
この4章1節の言葉は、前半と後半の橋渡しをしている非常に大事な御言葉ですね。そしてその御言葉の中で、パウロは、「召し」について教えております。エペソの教会の信徒たちに、「あなたがたは主に召された一人一人である」ということを、ここで教えています。
この理解が、神のご計画と、私たちの実践を結びつける、とても大切な理解であるということを、私たちは、心に留めるものでありたいと思います。
パウロは、1章、2章、3章で、実はそのことを、ずっと、語ってきたんですね。1章、2章、3章を、私達は順番に学んできましたけれども、一言でその内容を要約するならば、それは私たちが、「神様によって召された一人一人である」ということです。そのことを、パウロはずっと教えてきました。
神様は、歴史の中で、計画を持っておられます。それは救いの計画ですけれども、天にあるものも、地にあるものも、キリストにあって、一つに集められるという、神様の壮大なご計画がそこで提示されておりました。そしてどうしてか解かりませんけれども、私たちが「選ばれた」とそういう風に書いてありましたね。なぜか解かりませんけれども、私たちが、もう世界の基の据えられる前から、「選ばれていた」ということが、1章に記されてありました。そして私たちは、キリストの血による贖いを頂いて、罪許されて、み国を受け継ぐ者になった。そして私たちは集められました。異邦人も、ユダヤ人も、その違いをこえて、一つの体になった。その私たちは、神の国の民であり、神の家族であり、神のみ住まいであり、つまり教会が、そこにできたということをズーッと語ってきたんですよね。そしてその教会を通して、神の栄光が現されますようにと、パウロは祈りました。これが1章、2章、3章の大体の大まかな要約ということになります。つまり、私たちが、神様の計画の中で、召された一人一人だということを、ずっと教えてきたわけであります。
この理解がなければ4章に入ることができないんですね。この理解がなければ、4章以降でパウロが教えていることを、私達は十分に生かすことができないんです。キリスト者として相応しく、私たちが歩んでいくために、私たちに大切な理解は、この「召しをいただいている。」という、そういう理解、私たち一人ひとりが神様によって召されたという、その理解。それが私たちに求められているということを、是非、ここから、覚えるものでありたいと思います。あなたはいかがでしょうか。神様から召されたという、そういう理解を、どれほど強くお持ちでしょうか。是非このことを自覚しながら、2019年の歩みを歩み始めていきたいものだと思います。
教会というのは、先ほども申しましたけれども、主によって召された人たちの集まりですね。集まってるというよりは、集められているわけですね。
神様の召しによって、私たちは集められて、ここで一つになった。これが教会であります。そして礼拝もそうですね。礼拝も主の招きによって集められています。なんとなく来たかもしれませんけど、実は神様の招きの言葉があって、招かれて、ここに来ていますね。そして礼拝が終わると、派遣されていきますね。ここから遣わされていきます。全部それは、神様のなさっていることであります。
そして神様が召し出してくださったということは、それはそこに、何らかの神様の期待があるからであります。主は何の目的もなく、ただ私たちを集めてるわけではないですね。なんらかの期待があり、そして私たちに、委ねたいと願っている務めがあるからこそ、私たちをここに集めているのではないでしょうか。つまり私たちが、召されたということは、そういうことなんです。そこに何か、神様の期待があるということなんです。
あなたに委ねられている、何か神様の尊い働きがある、ということなんです。それを自覚しているかどうかというのは、私たちクリスチャンの生き方にとって、大事な部分ではないでしょうか。そういう自覚を、私達ははっきりともって、今年一年の歩みを始めていくものでありたいと思います。
2.「召し」にふさわしく歩みなさい
パウロは、その自覚を、非常にはっきりと持っていた人であったということが言えると思います。1節で「主にある囚人の私」と、自己紹介しておりますね。そしてこれは3章の1節でも、「私、パウロは、キリスト・イエスの囚人となっています」と、同じ言葉を2回繰り返してるわけです。よほど、この意識をパウロは、強く持っていたということが分かるんですが、これはもう、「イエス様が、私の全てです」という意味の告白ですね。私はイエス様のために生きてますという、そういう意味です。つまりパウロはイエス様と出会って、この意識をはっきり持っていたということなんです。
私は、イエス様と出会って、特別な召しを頂いた。神様からの特別な召しを頂いている。この自覚をはっきり持っていたからこそ、このように、エペソの信徒たちにも勧めることができたわけであります。ですから、是非この自覚を持って、2019年、主の期待に、少しでも答える歩みとしていきたいと思います。
例えば、パウロは、エペソ教会の信徒たちに、主の召しについて教えた上で、続けてこのように語っております。4章1節の後半部分ですが、「あなた方は、召されたその召しにふさわしく、歩みなさい」と教えております。召されたその召しにふさわしく歩みなさい。召された者たちには、召されたものとしての、ふさわしさが求められているということがわかります。
3.召された者たちに求められる、ふさわしい性質とは
そしてそれは、どのようなふさわしさでしょうか。その内容が2節と3節ということになります。2節と3節をお読みいたします。
「謙虚と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって、互いに耐え忍び、平和の絆で結ばれて、御霊による一致を熱心に保ちなさい」と、教えられております。
ここにいくつかの言葉が出てきます。これは皆、主に召された者たちに求められる、ふさわしさ、性質ということが言えますけれども、これらの言葉を見るときに、一つ気付かされることがあります。それは、これらの言葉は皆、私たちの人間関係を、円滑にするために、必要なものであるということです。そしてさらに気付かされることは、これらが、教会の一致を保つために、必要な性質であるということであります。
3節の最後に、「御霊による一致を熱心に保ちなさい」と、この言葉に全部繋がっていくんですね。ですから、最終的には、御霊の一致を熱心に保つということが教えられているわけですけれども、ここから、「召しにふさわしいふさわしさ」というのは、「教会の一致を保つためのふさわしさ」であるということがわかります。つまりそれは「教会の一致を保つ」という目的を達するための「性質」でもあるということが分かるわけであります。
神様にとって、教会が一致しているということが、いかに大事なことであるかということを、私たちは、ここから教えられますね。その事を神様が望んでおられる。そして、そのために必要な性質を、私達が身につけるようにということが、ここで教えられているわけであります。
①謙遜と柔和
どのような性質が、まず求められているんでしょうか。最初に出てくるのは、「謙遜」と「柔和」であるということであります。
謙遜と柔和の限りを尽くしなさい。まず初めに求められてくる性質は、謙遜と柔和です。あなたはどうでしょうか。どれくらいあなたは謙遜でしょうか。どれくらい柔和でしょうか。
この言葉を聞いて、ちょっと私達、驚くのではないかなと思います。普通、私たちが、神様に召されたものとして、求められる性質として考えやすいのは、「誠実」さとか、「忠実さ」とか「従順」とか、何かそういうことを思い描くことが多いんじゃないかなと思うんですね。主に、まっすぐ従っていく、その真面目さとかを、考え易いんじゃないかと思いますが、そういうことではないですね。パウロが最初に、私たちに求められる性質として教えているのは、謙虚さ、柔和さ、ということであります。
どうしてでしょうか。それはこの謙虚さ、柔和さが、教会の一致を保つために、まず求められている性質であるからであります。
「謙遜」とはどういうものでしょうか。謙遜とは、いろんな説明が可能かなと思いますけれども、ある人は、こう説明しています。謙遜とは、私たちが自分のことをよく知っていて、自分自身をそのまま受け入れている心の状態である、と教えております。自分のことをよく知っている、そしてそのことをよく受け入れている。その自分に満足している心の状態が、謙遜であるという風に教えていて、なるほどな、と思いますね。
私たちは、何か、自分にはないものを、あたかも自分にはあるかのように、振る舞うことがありますけれども、それは謙遜ではないですね 。高慢ということになるかと思います。またその逆も考えられると思います。自分には良いものが、実は与えられているのに、そのことを認めようとしなかったり、隠したり、出し惜しみしたりすることも、それは一見、謙虚そうに見えるわけですけれども、でもそれも、自分自身にこだわっているという意味では、高慢の裏返しということになるんではないかと思います。
モーセという人が、出エジプト記に、出てきますけれども、最初はあまり謙遜な人ではなかったようです。ある時、神様はモーセに語りかけたんですね。
「あなたはエジプトに行って、私の民をエジプトの手から救い出し、約束の地まで導きなさい。」イスラエルの民が、エジプトで本当に苦しんでいました。そのイスラエルの民を、エジプトから救い出すという、非常に特別なお働きのために、モーセは召されてしまった。召されたんですね 。
モーセは、私に行かせてくださいと応えたでしょうか。そうではなかった。
「私は言葉の人ではありません。私は口が重いのです。どうか他の人を遣わしてください。」これが、あのモーセの最初の反応だったということです。
おそらく、モーセの中には劣等感があったのかなという気がいたします。
そうしたら神様は、どう反応されたでしょうか。神様は怒りましたね。
そしてこのように言ったそうです。
「誰があなたに口をつけたのか。わたし、主ではないか」と、そういうふうに言ったと聖書に書いてあります。せっかく神様から、良いもの与えられているわけですよね。でも、その与えられている良いものを、認めなかったり、それを拒んだりしたらどうでしょうか。それは私たち人間の目から見ると、すごく謙虚そうに見えるかもしれませんね。遠慮深い、そう見えるかもしれません。でも神様の目から見るならば、それは自分にしがみついている姿ですね。そういう意味で非常に高慢な姿ということが言えるんではないでしょうか。そんなところを、モーセは神様との関係の中で厳しく問われたということが言えるわけであります。でもその後、色々ありましたけれどもモーセは、最終的には神様の言葉に従ってゆきました。そしてその後の展開を皆さんよくご存知ですけれども、立派にその役割を果たして、エジプトの王のパロと対決をしまして、そしてイスラエルの民をエジプトから救い出すという、大変大きな役割を果たすことができました。さらにその後40年間、荒野の旅をモーセが導いていったということで、非常に、主から用いられた器であったということであります。そんなモーセに関して、民数記12章3節にこういう言葉が記されております。
「モーセという人は、地上の誰にもまさって、非常に謙遜な人であった。」
新しい聖書では、この「謙遜」という言葉が、「柔和」と、訳し変えられておりますけれども、モーセくらい、この地上で謙遜な人はいなかったと言えるくらいの謙虚さを、謙遜さを、柔和さを、モーセは与えられたということが分かるわけであります。
このような聖書の話の展開を見る時に、謙遜や柔和という性質は、実は神様から与えられる性質であるということが分かるわけであります。神様との関係の中で少しずつ与えられていく、養われていく、それが謙遜さであり、柔和さであるということであります。
ですから私たちは、初めから謙遜さがなくてもいい、最初は柔和でないかもしれません。謙遜でないかもしれません。でもそれは神様に従って行く時に、必ず与えられていくものですね。神様との関係の中で、時には鍛えられて、砕かれて、養われて、そのようにして私たちの中に、少しずつ、少しずつ、この性質が養われていくんではないでしょうか。だから私たちは希望を持ちたいと思いますね。今はあんまり謙虚じゃないかもしれません。今はあんまり柔和じゃないかもしれません。でも、主に従って行く時に、必ずそういう性質を神様は与えてくださるんですね。そんなことを希望を持って、是非この謙遜さが、私たちの中に豊かに成長していくように、祈り続けていくものでありたいと思います。
②寛容、愛、忍耐。
主の召しに応えるため、次に求められてくる性質は何でしょうか。それは寛容、愛、忍耐、そういうものであるということが、分かると思います。その続きの所に、「寛容を示し、愛をもって、互いに耐え忍びなさい」と、そのように教えられております。ここを読んで気付かされること、それは教会の一致というのは非常に壊れやすいということであります。教会は、父なる神様を中心とした、神の家族としての交わりです。それは本当に素晴らしい、この世では決して経験することのできない祝福というものを、私たちは教会で経験することができます。ですからそれは、本当に素晴らしい恵みであり、交わりなんですけれども、その一方で、それは非常に壊れやすい面をもっているということも、 私達は意識するべきかなと思います。
どうしてかと言うと、私たちは皆、罪人だからであります。私たちはイエス様と出会って、イエス様によって集められて、ここに集められました。
そしてイエス様によって罪許されたんですね。罪を許されたけれども、罪人であること自体は変わってないんですね。許された罪人なんです。ですから時々、私たちの振る舞いとか行動に、その罪が出てきてしまうことがあるんです。そうなると時々、教会の中でもつまずく人が出てきたり、互いにさばきあってしまったり、不平不満に心が満たされてしまうということが起こり得ることじゃないかなと思うんですね。許されてはいるけれども、罪人である私達ですから、時にはそういうことが起こりうるわけであります。そんな時に必要になってくるのは何でしょうか。それがここに書いてあることですね。ここに書いてある寛容、愛、忍耐というものが私たちに本当に必要ではないかと思いますね。教会の一致を保つ為に、本当に大事な性質ということが言えると思います。
③愛
そしてここに三つの言葉が出てきますけれども、これは全部、「愛」であると言っていいと思います。皆さんは第1コリント13章の言葉を読んだことあると思いますけれども、愛について教えている箇所ですが、そこにこう書いてあります。
「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、いらだたず、人がした悪を心に留めず、不正を喜ばずに真理を喜びます。全てを耐え、全てを信じ、すべてを望み、すべてを忍びます。愛はけっして絶えることがありません。」と書いてあります。
つまり、寛容も愛だし、忍耐も愛であるということが分かると思います。
私たちは、主に召されたものとして、この愛を、私たちの内に家養っていくことが、私たちに求められているということを、ここから覚えたいとい思います。
教会は、愛の学校であるということが言えると思います。私たちは教会に来て、愛とは何かについて学びます。基本的に、自分の事ばかり考える傾向の強い私たちだと思うんですけれども、ここに来て私たちはイエス様の愛を学びますね。そして人のために祈ったり、人に仕えたり、人を愛したりすることを学びます。ここで私たちは、人に祈られたり、祈ったり、人に仕えたり、仕えられたり、そして人に愛されたり、愛したりしながら、愛について学んでいきます。まさに教会は、愛の学校であるという言い方が可能だとい思います。
そんな私たちが大切にしなければならないのが、寛容であり、愛であり、忍耐であるということを覚えたいと思います。そしてこれらの性質はみんな、イエス様に見られる性質ですね。イエス様は、弟子たちに対して、どれだけ忍耐ぶかくあられたことでしょうか。
弟子達は基本的に自己中心ですよね。自分勝手ですよね。自分のことしか考えていないような弟子たちに対して、イエス様はどれだけ忍耐されたでしょうか。相当忍耐されたんじゃないかなと思いますけれども、それでもイエス様は弟子たちをあきらめたりしないですよね。弟子達を信じ続けるんですね。こんな奴はもう駄目だなんて、一言も言わないですね。弟子たちのことを信じるんです。そして愛を注ぎ続けるんです。何という寛容、何という忍耐がそこにあったでしょうか。まさにそれは、イエス様の姿なんです。
4.イエス様は平和の絆
その寛容と愛と忍耐が、私たちにも求められている。そして教会で学んでいくんですね。養われていくんです。覚えながら成長していくように祈り続けていきたいと思います。そして今日の箇所を次のような言葉で結んでおります。3節の言葉に行きたいと思います 。
「平和の絆で結ばれて、御霊による一致を熱心に保ちなさい。」
このように結んでおりますけれども、ここにきて気付かされることは、やっぱり私たちが一致して歩むためには、イエス様が必要だし、御霊が必要であるということであります。3節の冒頭でパウロは、平和の絆で結ばれなさいという風に教えていますけれども、これを言い換える、とキリストによって結ばれなさいということです。平和の絆というのはイエス様のことを表しています。パウロは、2章14節の中で「キリストこそ私たちの平和です」という風に教えておりました。 「キリストこそ両者の隔ての壁を打ち壊し、敵意を廃棄し、二つのものを一つにする」そういう方です。まさにキリストは平和ですということを、2章で教えていたんですね。ですから平和の絆で結ばれなさいというのは、「イエス様によって結ばれなさい」とそういう意味の言葉です。
先日、一郎兄と花子姉が結婚されましたけれども、結婚される前に何度か、二人で教会に来て頂いて、結婚の学びをしたことがありました。その中で一度話をさせて頂いたことでしたけれども、「二人の間にちゃんとイエス様に入ってもらいなさい」とそういうこと話ししました。結婚されたばかりの今は、幸せいっぱいかもしれませんけれども、でもだんだん性格の違いとかですね、考え方の違いとかが、いっぱい見えてきて、そしてなかなか越えられない壁、あるいは、なかなか埋められない溝、そういうものを、二人の間に意識されることがあるかもしれない。非常に悩むということがあるかもしれない。でも仮にそんな時が来たとしても、そんなことがあったとしても、二人の間にイエス様に、入ってもらってください。イエス様は平和の絆です。そうすれば必ず、二人は結ばれていくからという話を、一度したことがあるんですけれどもとても大事なことだと思いますね。
そして、結婚はもちろんそうなんですけれども、教会も同じです。教会も与えられた一致を保つために必要なことは、私たちの間に、キリストに入ってもらうということですね。キリストが私たちの間に入るかどうかということですね。これが非常に大事です。教会は神のみ住まいであるという風に教えられておりましたが、教会にとって大事なことは、人がいっぱい集まることではない。人がいっぱい集まったら嬉しいですけれども、でもっと大事なことは、神様がここにいるかどうかですね。神様のみ住まいになってるかどうか、これが一番大事です。そして私たちが、本当にキリストによって一つにされているか、私たちの間にキリストがいるかどうか、キリストに生かされているか、キリストを中心とした交わりなっているか、これが教会の生命線です。もしこれが見失われていくと、教会の平和はなくなっていくんですね。ですから、私たちは、本当にここにイエス様が住んでもらえるように、神様のみ住まいの教会として、その意識をよく保ちながら、キリストを中心とした交わりとしていきたいと思います。
またパウロは、そのあとに、「御霊による一致を熱心に保ちなさい」とここで教えておりますけれども、私たちに与えられている一致が、御霊の一致であるということがわかります。
私たちが、人間的に努力して作り出す一致ではないんですね。御霊がいることの一致であります。一致というのがもしあるとすれば、それは御霊が与えるものですね。私たちがするべきことは、その一致を保つことです。
私たちが陥りやすいのは、その一致を壊すこと、そういうことが得意なんですね。私たちに、せっかく与えられているこの一致の恵みを、壊してしまう、それが私たちのすることなんですけれども、でもそこで私たちが注意して心がけなければならないことは、それを保つこと、しかもここで「一致を保つために熱心でありなさい」と、「熱心」という言葉が出てまいりますね。御霊による一致を熱心に保ちなさいと、私たちに熱心さが求められているということを、ここから覚えるものでありたいと思います。
5.聖書が教える一致
最後に、私達が御霊による一致を保つために、熱心でなければならない、ということを話しして終わりにしたいと思います。
私が以前お世話になっていた教会でこんなことがありました 。その教会の教会堂が古くなってきました。そこで新会堂が欲しいということになりました。その後話し合いが進みまして、新会堂を建てようということが決まりまして、皆、取り組んでいくわけですけれども、その教会堂が建つまでは、皆さん、本当に熱心でしたね。皆、自分達の新しい会堂ができるということを、楽しみにしながら、本当にそれを心待ちにしながら、一生懸命奉仕をしておりました。その姿は非常にに麗しいということが言えたと思います。
何年か後に、その新会堂が完成しました、そして皆で感謝しました。お祝いをしました。献堂式をしました。喜びました。そこまでは良かったんです。そこまでは、教会は一致団結をしておりましたが、ところが新会堂が完成して、さあこれから教会は何をしていくか、という段階になって、いろんな考えが出てまいりましたね。いろんな意見が出てまいりました。そしていろんな考え方の違い、意見の対立そのものが起きてきて、教会から去っていく人たちがたくさんおきてしまった。せっかく心待ちにしていた新会堂が完成したのに、そして一度はその事を喜んだのに、それが終わった後、その教会を去らなければならなかった人たちが多かったんです。これはその教会にとっての、非常に大きな心の痛みでしたね。牧師は、本当に苦労したと思いますね。
でもその時に分かったんですね、学んだんです。今まで一致団結していたその一致というのは、実は本物の一致ではなかった。それは偽りの一致だった。そして、本当の一致というものを、まだ自分たちは経験していなかったということを、その時にはっきり分かった、理解した、そういう経験だったという風に言えると思います。
教会は、時々そんな経験をすることがあるんじゃないかなと思うんですね。
つまり、教会の私たちの外側に、共通の目標を立てて、その目標をともに意識することで、一致を保つ努力をするというようなことが、時に、あるんではないかなと思うんですね。それは例えば教会建設の事業だったり、あるいはスローガンを何か掲げて、そのスローガンによって、一つになる努力をしてみたり、あるいは何か伝道会であったり、プログラムであったり、そういう活動によって、私たちが、一つにまとまるというような、そういうことがあるのではないかなと思います。そして確かに一時的には効果があるかもしれません。
しかし、それは聖書が教えている一致ではないということを、私たちは今日の箇所から、学ぶ必要があるんではないかなと思うんですね。
聖書が私たちに教えていることは、どういう意味でしょうか。
それは、私たちが、神様に、ともに召されているという、召された者同士であるという意識を、共有するということ、そして、キリストによってむすび合わされているということ、そして御霊の一致を熱心に保つということです。
つまり、三位一体の神様のお働きの中に、私たちが、すっぽりと入ることによって、与えられていく一致であるということを、今日の聖書の箇所から教えられるんではないでしょうか。
私たちの、人間的な、人為的な努力ではなくて、三位一体の神様が豊かに働いておられる、そのことを、私たちが共に覚え、ともに共有することによって、そこに生まれてくる一致、これが聖書が教えている一致ですね。
6.まとめ
そしてその一致を、熱心に保ちなさいと、ここで教えられていることに、私たちは心を留めたいと思います。是非私たちはこれからの1年間、教会が、ますます祝福された教会となるように、そしてこの、三位一体の神様が働いておられる、主が私たちを、召してくださった、それで一つになっていることをしっかりと心に留めて歩みたいと思います。
そしてここに、イエス様がおられる。そのことによって一つになりますね。さらに御霊が働いておられる。そのことによって、私たちは本当にこの世では経験することのない、一体感を味わうことができるんですね。そのようにして私たちは、神様の栄光を豊かに表すことができるんですね。この御霊による一致を熱心にに保つものであろうではありませんか。
お祈りをいたします。恵み深き私たちの父なる神様。私たちを、主の特別な恵のうちに、召しだしてくださったこと覚えて感謝いたします。この一年、召された私たちが、 召してくださった、主の御心に沿って歩むことができるように、また成長できるように助けて下さい。御言葉を心から感謝し、尊い救い主、イエス・キリストの御名によってお祈りをいたします 。