禁教下のキリスト教/信長、秀吉、家康、家光—日本キリスト教史(2)
はじめに:
音声解説
・ザビヱル、ヴァリニヤー/などのイエズス会士たちは日本のキリスト教化を夢見、日本人と日本の
文化を尊重した丁寧な宣教活動を展開した。その結果、一時は30方人以上とも言われる多くの日
本人がキリスト教に入信した。その多くは庶民層の人々だった。
・その後、日本に封建体制国家が築かれていく程度に応じ、キリスト教への弾圧は強まり、江戸時代
の1640年代以降、キリスト教は日本社会から一掃されることになった。その後、キリスト教は「邪
教」、「邪宗門」と見なされる。
I・キリシタン禁制略史
(I)織田信長とキリスト教
・キリシタンに対して好意的に接した。ヴァリニヤー/と繰り返し面会し、京都に南蛮寺、
安土にセミナリョを建鼓することを自ら提案。教会側も信長の保護の下、繁栄を楽しんだ。
・信長のキリスト教保護政策はあくまでも政治的、便宜的なものだったと考えられる。
・大坂の本願寺、京都の比叡山などの多くの寺を焼き討ちする。仏教の対抗勢カとなるキリ
スト教には好意的だった,
・信長の晩年には自らを神格化する思想が見られる。
(2)豊臣秀吉とキリスト教
・天下統一の野望に役立つ限りはキリスト教を最大限利用した。秀吉の保護政策のもと、教
会は一層の繁栄を味わう。
・宣教師たちとの関係は、互いに利用し合う関係。(権力者におもねる形での宣教)
・その一方でキリスト教に対する警戒心も抱く。高山右近に棄教を迫るも、拒否された。
・九州平定中の1587年、博多にて突然「伴天連追放令」発令(キリスト教迫害の幕開け)。
有馬領で女性を求めた際に、拒否されたことが理由の一つとされる。
・ヴァリニヤーノの外交的手腕の結果、キリスト教の宣教はその後も事実上、容認された。
・1593年、スペイン系のフランシスコ会士も来日、日本での宣教を開始する。
・1596年、スペイン船サン,フェリペ号事件。
・1597年、長崎の西坂で26聖人殉教
く特徴)政策として確立した禁教ではなかった。
伴天連追放令からの抜粋
一、日本ハ神国たる処きりしたん国より邪法を授之儀太以不可然候事 一、伴天連其知恵之法を以心さし次第に檀那を持候と、被思召候ヘハ、如右日域老仏法を相破 事、曲事候条、伴天連儀日本之地ニハおかせられ間敷候間、今日より廿日之間二用意仕可 帰国候、其中ニ下々伴天連に不謂族申懸もの在之ハ、曲事たるべき事 一、黒船之儀者商売之事候間、各別候之条年月を経、諸事売買いたすべき事 |
(3)徳川家康とキリスト教
・当初はキリシタンに対して寛大な態度を取った。
・貿易上の理由から、ポルトガル系のイエズス会よりも、スペイン系のフランシスコ会に好
意を寄せる。その後、ドミニコ会、アウグスチノ会も来日。(宣教方針の違いで混乱)
・家康は、オランダ・イギリスとの貿易に着手。幕府の貿易独占体制の確立を進めた。
・I612年に幕府天領において、I614年にほ全国に対して、禁教令発令。本格的禁教政策を
推進した。(きっかけ:161I年 メキシコ使節ビスカイノ日本測量事件、世界情勢の変化)
・1613年、伊達政宗、支倉常長ら遣欧使節回むローマに向けて派遣。
・I6I5年、高山右近らをマニラに追放”大迫害が始まる。(迫害を逃れて多くのキリシタン
たちが東北、北海道へ移動)
く特徴)キリスト教そのものの禁止。
(4)徳川家光とキリスト教
・在職1621~1651年の30年。キリスト教に対する徹底した弾圧を行う。
・1623年、江戸大殉教
・I633年、第一次鎖国合発令
・1637年、島原の乱 (→ 鎖国の大義名分となる)
・1639年、ポルトガル船入港の禁止 (鎖国の完成)
・これ以後約200年間、キリシタンたちほ日本社会の表面からは一掃された。
・徹底した弾圧政策
① 宗門改め:寺院の帳簿に国民すべての宗旨を登録。
① 寺請制度:キリシタンではない証明する証文を寺が発行。
② 踏絵:キリストやマリアの聖画像を踏ませる。
③ 五人組連座制:キリシタンの相互監視制度。
④ キリシタン類族改:キリシタンが出たら、その家系を五代にまで渡って監視下に置く。
⑤ 宗門改役の設置:キリシタン取締りの専任機関の設置。
⑥ 訴人奨励のための褒賞制:キリシタン発見のための密告の奨励。
⑦ 鎖国の完成:1639年。これ以後240年間、孤立政策をとる。
・キリシタン邪宗門観が、一般庶民の間に浸透した。(「吉和文丹」から「切支丹」へ)
(特徴)禁教の制度的完成 づ 隠れキリシタンヘ
飯能キリスト聖園教会・金曜集会 日本キリスト敦史の学び3 2019/01/18