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ダビデとゴリアテの戦いから教えられること・・・第一サムエル記17章1~11節

 
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若井 和生師
若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。
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第一サムエル記17章1~11節,41~47節

1.神様の民、イスラエルの膠着状態

はじめにですねこの時のイスラエルの状態がどういう状態であったかということについて確認してから初めていきたいと思います。17章第1サムエル17章の1から11までを読んでいただきました。その部分に当時のイスラエルが敵のペリシテ軍と、一つの谷を間にして向き合っているという状況がここに描かれているわけですけれども、そのイスラエルの状態を一言で言い表すならばそれは、「膠着状態」ということになると思います。つまり前に行きたくても前に進めない、後ろに下がりたくても後ろにも下がれない、どちらにも身動きがとれないという状態に彼らが置かれていたということが言える。
11節に「サウルと全イスラエルはペェリシテ人の言葉を聞き、気をくじかれて非常に恐れた」と書いてあります。敵の大将ゴリアテが前面に出てきて、イスラエルを脅しておりました。この人の背の高さは69キュピト半あったと4節に記されています。1キュピトは約44 cm ということですので、計算してみますとゴリアテの身長は2 m 86 CM あったということになります。このゴリアテの存在が、イスラエルから見るとも高い山のように見えたんだと思いますね。そしてそのゴリアテの脅しによって、イスラエルの人達がすっかり意気消沈してしまったということが分かるわけであります。ですから前に進めない、攻撃できないわけです。それじゃあ諦めて、後ろに戻るかと言うと後ろに戻ることもできないです。異教の民ペリシテ軍を前に、神の民であるイスラエルが退くとするならば、それはもうイスラエルのメンツが丸つぶれになってしまいますね。よって前に進むこともできないし、後ろに下がることもできない、要するに膠着状態であるということが言えるわけであります。
そして16節を見るとですねゴリアテが、40日間、朝早くと、夕暮れに出てきて、待ち構えたと書いてありますので、40日間その状態が続いたということです。前にも行けない後ろにも下がれないその状態が、40日間続いた、もう誰がどうやってそれを打開してくれるのか?というですねそういう膠着状態に陥っていったということです。
神様に特別に選ばれて、神様の特別な祝福を受けてきたイスラエルの民の姿としては、何とも不甲斐ない姿であると言えるんじゃないかと思います。

2.私たち自身の人生の膠着状態

でもよく考えてみると、これは私たちによく見られる姿ではないだろうかという風にも思います。私たちもクリスチャンとしての肩書きを与えられています。名前が与えられています。皆さんは、少しでもクリスチャンとして歩みたいと願っていることと思います。そして何よりも主の御心に従って歩んでいきたいということが、私たちの願いだと思いますよね。聖書を繰り返し読んでいくと、神様が私たちに何を願っているか、神の御心というのがだんだんわかってきます。そしてそれはただ御言葉を聞くだけではなくて、聴き従うことの大切さを教えられます。そうありたいと私たちは願います。ところが私たちは聞いてもなかなか従えないという課題を抱えていることが多いような気が致します。聞いて納得はします。でもその先に実践が生まれてこないということがあります。その結果、学んだことが必ずしも私たちの実生活の中に生かされていかないということがあるんではないかなと思うんですね。そんな時の私たちの姿というのは、まさにこの時のイスラエルの姿にそっくりではないかと思いますね。前に進みたくても進むことができないんですが、後ろに下がることができるかと言うと後ろに下がることもできない、そんな膠着状態に、私たちの信仰が落ちてしまうということがあるんではないでしょうか。神様の御心というものをどこかで意識しながらも、実際には自分の弱さの中に留まってしまう。そして知らず知らずのうちに、私たちの中に諦めが支配してしまう。その結果、私たちの生活はほとんど変わっていかない。その状態が、何日も何日も続いていくという膠着状態に、私たちの信仰は落ちていないでしょうか。
私たちにはやっぱり、ダビデが必要だと思います。ダビデのように突き抜けた信仰、膠着状態を打ち破って、そこに突破口を切り開いてくれるそんな信仰が、私たちには求められているんではないでしょうか。そんな信仰が私たちに必要なんではないでしょうか。

3.ダビデはどのようにして、この膠着状態を破ったか

ダビデには一体何があったのか?私たちにはない、一体何をダビデは持っていたのか?なぜダビデはゴリアテに勝利できたのか?そしてそのことによってイスラエルの膠着状態をどのようにしてダビデは打ち破ることができたのか?その点を、御言葉を通して学んでいきたいと思います。
3っつのダビデの信仰の特徴信仰に見られる特徴を覚えたいと思います。

①ダビデの怒り

まずダビデの姿、少年ダビデの姿を通して気づかされる第一のことは、「怒り」ということであります。20節から26節までの御言葉を読んでみたいと思います。
「ダビデは翌朝早く羊を番人に預け、エッサイが命じた通りに、言われたものを持って出かけた。彼が野営地に来ると、軍勢は時の声を上げて陣地に向かうところであった。イスラエル人と、ペリシテ人は向かい合って陣を敷いていた。ダビデは父からこよづかったものを、武器を守る者に預け、陣地に走ってきて、兄達に安否を尋ねた。ダビデが彼らと話していると、なんとその時、あの代表戦士がペリシテ人の陣地から上ってきた。ガテ出身のゴリアテという名のペリシテ人であった。彼は前と同じことを語った。ダビデはこれを聞いた。イスラエルの人は皆、この男を見た時、彼の前から逃げ、非常に恐れた。イスラエルの人々は言った。『この上ってきた男を見たか。イスラエルをそしるするために上ってきたのだ。あれを打ち取るものがいれば、王はその人を、大いに富ませ、 その人に自分の娘を与え、その父の家にイスラエルでは何も義務を負わせないそうだ。』ダビデはそばに立っている人達に言った。『このペリシテ人を討ち取ってイスラエルの恥辱を取り除くものにはどうされるのですか。この無割礼のペリシテ人は何なのですか。生ける神の陣をそしるとは。』」
ここにダビデが最初にゴリアテと対面した時に感じた彼の気持ちが表されております。ダビデはこの時、まだ戦場にいなかったんですね。戦場にいなくて、どこで何をしていたかというと、野原で羊を飼っておりました。ところが3人のお兄さん達が、兵士としてその戦地に赴いておりましたので、お父さんのエッサイから頼まれて、お弁当を届けるように頼まれたんですね。それでお弁当を持って、ダビデはその戦場に出ていく。その時初めてゴリアテを見るんですね。ゴリアテと対面した時、その時に彼が感じた感情が26節ですよね。ここにい出て参ります。「このペリシテ人を打ち取ってイスラエルの恥辱を取り除くものには、どうされるのですか。この無割礼のペリシテ人は何なのですか。生ける神の陣をそしるとは」。
この「なんなのですか?」っていう、このところですね。ここに、非常なダビデの怒りというものが込められているということを感じるではないしょうか。この怒りはどういう怒りでしょうか?それはゴリアテが、生ける神様の陣を謗るということに対する怒り、つまり神の御名が汚されている、神の栄光が貶められている、ということに対する怒りであったということが分かるわけであります。このようにダビデの怒りは、イスラエルを謗っているゴリアテそのものに向けられているわけですけれども、同時に敵にそしられるままにされさせているイスラエルに対しても、ダビデはある種の怒りを感じたんではないかと想像されます。その時のイスラエルの人々の反応が、25節に出てきますけれども、この25節と26節のことが実に対照的であります。25節、「イスラエルの人々は言った。『この上ってきた男を見たか。イスラエルをそしるために上ってきたのだ。あれを討ち取るものがいれば、王はその人を大いに富ませ、その人に自分の娘を与え、その父の家にイスラエルでは何も義務を負わせないそうだ』」という風に言ってますね。この言葉からイスラエルの人たちがすっかり怖気付いてしまっていることがわかります。そして彼らのもっぱらの関心は、王が与える報酬を誰がもらうかということになりました。サウル王は、ゴリアテと戦って勝利したものには、ご褒美を与えると約束していたということが分かる。そのご褒美は、富、そして自分の娘を妻として与えるといい、そしてそのものの家族、父の家には、今後一切何の義務も負わせないという、本当に色んなご褒美を用意して、それくらいして誰が行くだろうかと励ましてるわけです。けれどもそれにもかかわらず、誰も行く人がいないという状態であることがわかるわけであります。人々の関心は、誰が行くだろうか?誰がその報酬もらうだろうか?そんな点に向けられていたわけであります。そんなイスラエルの態度、イスラエルが敵にそしられるままにされている姿を見て、ダビデは、また怒ったわけであります。そしてこのダビデはこういう風に語りました。「このペリシテ人を討ち取って、イスラエルの恥辱を取り除くものにはどうされるのですか。」ダビデにとっての一番の関心は、誰がご褒美をもらうかということではなくて、このイスラエルの恥辱をいち早く、とにかくすぐに取り除きたいという、そういう点にあったということが分かる。ダビデはひたすら神の栄光を追い求めて、神のために怒っているということに、私たちは気付かされるわけであります。
私たちはこのような怒りを覚えることはあるでしょうか?神のみ名が汚されているということに対して、私たちが怒りや悲しみを覚えるということはあるでしょうか?多分自分のために怒ることはよくあると思いますね。自分の思った通りに事が進まない時に、非常に不機嫌になって怒るということは、私たちの中によくあることだと思うんですけれども、しかし神のために怒るという怒りを覚えるということが、私たちの生活の中にあるでしょうか?

なぜダビデは神様のためにこんなに素直に怒ることができたのか?

それを考えてみるとですね、それはやっぱり、ダビデが完全に神の側に立っていたということになると思います。そしてダビデにとって神様は、大切な大切な主人ですね。その主人が侮辱されているのを見て、とても我慢ができないという、そういうダビデの心境がそこにあるということが分かるんではないでしょうか。自分の奥さんが他人から侮辱されているのを見て、怒りを感じない夫がいるとしたらばその夫は妻に対する愛情を疑ってみた方がいいかなと思いますね。あるいは自分の夫が、他人から侮辱されているのを見て、怒りを感じない妻がいたらば、妻はその夫に対しての愛情を疑ってみる必要があるんじゃないかなと思いますね。主のみ名が汚されているのを見て、ダビデが怒ることができたのは、それだけダビデが神様を愛していたからということになるんではないでしょうか。
このような神に対する愛というものが、私たちの中に果たしてあるんでしょうか?
ダビデはまだ少年です。子供ですけれども、その愛を豊かに持っている人でした。私たちもダビデのように、神を愛する者になろうではありませんか。
神様は、私たちのこと愛してくださいました。今も愛してくださっています。これからもずっと愛してくださるんです。その神様を、私たちも愛そうではありませんか。神様の側に立とうではありませんか。神を私たちの主として、支えていこうではありませんか。そのような、私たちの愛が求められているということを、是非ここから覚えたいと思います。これがまず第一の特徴ということになりますね。まず怒りがあったということであります。

②ゴリアテと対峙したときの、普段通りのダビデの信仰

次の展開もまた見ていきたいと思います。そのようにダビデが反応した、その反応がどうやらサウル王の元にその情報が伝わったようです。そこでサウロは、ダビデを呼び寄せました。そしてそのサウロに対して、ダビデは、こう語っております。32節ですね。「ダビデはサウルに言った。『あの男のために、誰も気を落としてはなりません。このしもべが行って、あのペリシテ人と戦います。』」。と誰も行く人がいない中にあってダビデがですね、自分が行って戦いますと、王様の前で言っているという場面であります。そうするとですね、サウロは、とっても心配になったようです。33節でこう言いました。『お前はあのペリシテ人の所へ行って、あれと戦うことはできない。お前はまだ若いし、あれは若い時から戦士だったのだから。』こう心配して声をかけているということが分かるんですけれども、サウロ王がダビデを心配した一番の理由は、ダビデはまだ若いということにあったことがわかります。若いということは素晴らしいことですよね。ただ戦いということに関して言うならば、やっぱり経験というものが非常に大事です。ダビデには戦場で兵士として戦った経験が全くありませんでした。しかもゴリアテは、若い時から有志であり、経験豊富であります。これでは全く相手にならないと、サウルが思ったのも無理はないですね。ですから納得できる言葉だと思います。ところがそう言われて、ダビデはさらに何て言ったんでしょうか。34節から36節。「 ダビデはサウルに言った。下僕は父のために羊の群れを飼ってきました。獅子や熊が来て、群れの羊を取って行くと、下僕はその後を追って出て、それを撃ち殺し、その口から羊を救い出します。それが下僕に襲いかかるような時は、そのひげをつかみ、それを打って殺してしまいます。しもべは獅子でも熊でも撃ち殺しました。この無割礼のペリシテ人もこれらの獣の一匹のようになるでしょう。生ける神の陣を謗ったのですから。』」と言ってですね、やっぱり私に行かせてくださいとお願いしているのです。

このダビデの告白の言葉を聞いて、あなたは、色んな事を感じられると思いますけども、一つ気づかされることは、ここにダビデの信仰の2番目の特徴見ることができると思います。それは普段通りであったということになると思います。
確かにダビデには戦場で戦うという経験はないです。戦場での経験はなかったけれども、でも彼には羊飼いとしての経験がありました。羊たちを守るために、獅子や熊と戦った経験があったんですね。そしてそのどちらの経験においても、主が救い出してくださったと37節でダビデは告白をしておりますね。自分で上手く行ったっていうんじゃなくてししや熊の爪からシモベを救い出してくださった主が救い出してくださった行為を経験を、もうすでに与えられていたということが分かるわけであります。そして同じ神様がゴリアテの手からも救い出してくださると確信しているからこそこのように言えるというわけであります。このダビデの告白から私たちは気づかされますナビでにとってゴリアテとの戦いは日常生活の延長に過ぎないということであります。
ダビデが羊飼いとして生活しているその延長線上に、ゴリアテとの戦いが位置づけられているし、そのような戦いとして意識されているということがわかるわけです。イスラエルのほとんどの人々にとって、ゴリアテとの対決は、今まで経験したことがないようなとても大きな経験だったと思います。それこそ彼らの日常で経験したことがないような特別な、特別な、強敵に見えたんじゃないかと思いますね。ある意味では、日常から切り離された、特別な経験として、その時のことが意識されていたんではないでしょうか。ところがダビデにとっては、それはあくまでも日常の一部分であります。もちろんダビデにとっても、ゴリアテは大変な強敵であったと思います。獅子よりも強い、熊よりも強い、大きな障害であり強敵であったと思います。それでもダビデにとって、ゴリアテとは、獅子や熊と同じような存在であるということが言えるわけでありますね。獅子や熊の爪からシモベを救い出してくださった主は、「このペリシテ人の手からも」、と表現されていることから、獅子や熊と対決したそのときと同じものとして、ゴリアテも意識されているということが分かるわけであります。そしてあの時味わった経験が、今回も繰り返される、あの時作り出してくださった主が、今回も救い出してくださると確信している、そこにダビデの信仰の素晴らしさが表されているわけであります。ダビデの信仰を一言で言うならば、「日常の信仰」ということになるんではないでしょうか。普段の生活の中に何気ない日常の歩みの中に信仰があるということであります。何か大きな問題に直面した時に、急に慌てて神様を意識して、急に神様にすがるというようなそういう信仰ではなくて、良い時も悪い時も、みことばにより頼んで、主と共に歩むという信仰であります。そのような小さな積み重ねの延長上延長線上に、ゴリアテという、 大きな障害に対する勝利が確信されていたということを、私たちはこの箇所から覚えるものでありたいと思います。
私たちの人生の歩みの中にも、色んなゴリアテが突然現れ突然現れるように感じるかもしれませんね。どんな大きなゴリアテが私たちの前に立ちはだかるのか、私たちはわかりません。この間大阪で大変な地震が起こりました。大阪は、今大変だと思いますけれども、同じことが今度は東京で起こるかもしれませんね。今度は首都圏で起こるかもしれません。その時に至って慌てふためくっていうことがないために、私たちは今からどんな備えが必要でしょうか?あるいは、これから何か大きな事故にあったり、病気になったり、手術をしたりというようなことがあるかもしれません。そして誰もがいつかは死という問題に直面しなければいけないですよね。それは私たちにとっては、とても戦えないような、大きな大きなゴリアテであるということが言えると思いますけれども、その時になって突然あわてふためくことなく、平安と確信を持ってそこで勝利を確信するためには、どんな準備が必要なんでしょうか。そのための備えは、もう今ここから、始まっているって言うことを私たちは覚えたいんですね。
何気ない普段の生活の中から、私たちの代わり映えのしないような日常の中から、もうすでに備えが始まっているということです。日々主の御言葉に、より頼むということ、いつも主に祈るということ、大きいことも小さいことも、み言葉と祈りによって勝利していくっていうこと、そのような経験を日々繰り返していくということ、そして主と共に歩むという、そのような日常の信仰を、私たちは自らの内に養っていく必要があるんではないでしょうか。その先に勝利の確信があるということをぜひ覚えたいというふうに思います。ダビデの信仰は、まさに日常の信仰であったということを覚えたいと思います。

③「この戦いは主の戦いだ」というダビデの確信・信仰

3番目の特徴を見ていきたいと思いますが、そんな王様とのやり取りをした後、いよいよダビデは戦いの場に向かっていきます。そしてゴリアテの前に進んでいくことになりますけれども、その戦いの場面を今度は最後に注目したいと思います。
41節から47節、もう一度その戦いの場面を見てみたいと思います。
「そのペリシテ人は盾持ちを前に立て、ダビデの方にジリジリと進んできた。ペリシテ人は、ダビデに目を留めて彼を見つめ、彼を蔑んだ。ダビデが血色の良い、姿の美しい少年だったからである。ペリシテ人はダビデに言った『俺は犬か。杖を持って向かってくるとは。』ペリシテ人は自分の神々によってダビデを呪った。ペリシテ人はダビデに言った。『さあ来い、お前の肉を空の鳥や野の獣にくれてやろう。』ダビデはペリシテ人に言った。『お前は、剣と槍と投げやり思って私に向かってくるが、私はお前がそしったイスラエルの戦陣の神、万軍の主のみ名によって、お前に立ち向かう。今日、主はおまえを私の手に渡される。私はお前を殺してお前の頭を胴体から離し、今日ペリシテ人の軍勢の屍を、空の鳥、地のけものに与えてやる。すべての国はイスラエルに神がおられることを知るだろう。ここに集まっている全てのものも、剣や槍がなくても、主が救いをもたらすことを知るだろう。この戦いは主の戦いだ。主はお前たちを我々の手に渡される。』と、ここにゴリアテとダビデのやり取りが書いてあるわけですけれども、ゴリアテの前にダビデがやってきたとき、そのダビデを見て、ゴリアテはいささか面くらったようですね。ダビデが血色の良い姿の美しい少年だったからと書いてあります。そしてなんだかゴリアテはバカにされたような気持ちになりました。「俺は犬なのか。杖を持ってくるとは。馬鹿にするな」みたいな、そんな感情がここに込められているのを感じます。
けれども 確かにダビデはその時、鎧をつけてないですよね。最初は鎧をつけて出て行こうとしたんですけれども、鎧があんまりにも重くて、歩くこともできないくらいだった。それでダビデはその鎧を捨ててしまった。それくらいダビデの体は華奢だったって言うか、肉体はまだ、大人としての十分な成長を遂げていなかったということも言えるかもしれませんね。それで結局、鎧は身につけないで普段の姿そのまんまですね、羊飼いの時の姿、いつも彼が使っている石投げと、石を5個河原から拾ってきて、それを持って羊飼いの姿で現れたわけですよね。ダビデはそのような面においても、本当に普段通りだったということがわかりますね。戦いの方法においても普段通りだったということであります。
そしてダビデはこのゴリアテに向かっていうわけです。お前は剣と槍と投げやりを持って、私に向かってくるが、私はお前が謗ったイスラエルの戦陣の神、万軍の主のみ名によってお前に立ち向かう。今日、主はお前を私の手に渡される。すべての国はイスラエルに神がおられることを知るだろう。そして最後に「この戦いは主の戦いだ。主はお前たちを、我々の手に渡される」。
ダビデは、「主はイスラエルの戦陣の神、万軍の主のみ名によってお前に立ち向かう」と言いました。この戦いは主の戦いだという風に言いました。そして最後にもう一度、「主はお前たちを我々の手に渡される」と繰り返しております。この戦いが、主の戦いであるということ、主が戦ってくださる戦いであるということ、そして勝利は主によってもたらされるということを、確信しているのダビデの信仰というものを、私たちはここに感じるわけであります。主が、ダビデと共にいてくださるということを決して疑わない、非常に素直な神様に対する信頼があるということが分かるんではないでしょうか。ある人は思うかもしれませんね。主の戦いだとダビデが言っている割には、戦ってるのはダビデじゃないか?って思う人もいるかもしれません。本当にその通りですね。戦ってる当事者はダビデです。主の戦いだと言っているからといって、ダビデは何もしないで傍観してるわけではなくて、あくまでも戦ってるのはダビデなんですよね。ですからダビデ自身の戦いであったという言い方も可能だと思います。しかしそれはすべて主の導きの中にある戦いでありました。そのように認識できたというところにもうすでに勝利を確信しているわけです。別にダビデは好きでゴリアテと向き合ってるわけではないですよね。ある時突然起こってきた、ダビデの人生の中に、突然起こってきた障害なわけですね。ある意味では、向き合わざるを得なくなってしまった、そういう現実であるということです。けれども、それは主の戦いであると認識できたところにもうすでに勝利があるということに、わたしたちは気付かされるんではないでしょうか。

4.まとめ,私たちの人生の中のゴリアテにどう対処すべきか?

私たちの人生の中にもいろんな問題が起こってきますよね。とてもコントロールできないような大変な問題に直面させられて、私たちは慌てふためくかもしれません。別に好きで向き合おうと思ってるわけでもないし、向き合わざるを得なくなってしまったというのが正直なところかもしれませんが、もしそこで、私たちが、それが本当に主の戦いであると認識できるかどうかですよね。なんでこうなってしまったの?っていうのではなくて、「これも全部主の御手の中にある戦いである」と、もしそこで認識できたら、その問題の向き合い方がもう全く変わってきますね。それは本当に主の御手の中で、信じることができる、そこにもうすでに私たちの信仰が試されているということが言えるんではないでしょうか。そしてその後、主の導きの中でダビデは鎧を脱ぎ捨て、 普段着で行きなさいっていうのが、主の導きでありました。その後、石を拾ってきてですね、そしてその石投げを振り回して放ったその石が、見事にゴリアテの額に命中して、一発で倒れてしまったのも、これも全部神様の導きでありました。その全ての行程に主の支配がある、主の導きがあるということを、ダビデはこの緊張の場面の中で、絶えず意識しながら、信じながら、一歩一歩、歩んで行ったということが分かる。
全ての行程の中に、主に対するダビデの信頼があったということを、私たちは覚えたいと思います。
この勝利は、神様がダビデの内側に眠っている力を引き出してくれて、それで処理できたわけではないですよね?ダビデの中に隠されている何かすごい力があって、それを神様が励まして、導きだして、それで勝ったということではないわけであります。
ダビデは若いです。力がありません、経験もありません、大人達から見れば子供じゃないかと言われるような青二才のような、半分青い、そういうダビデかもしれません。
ところがダビデは、そんな若さの中にありながら、主に信頼することを小さい時から養っていた。自分は小さいかもしれないけど、お父さんは大きい、自分は弱いかもしれないけどお父さんは強い、というそういう父親に対する非常に素直な信仰を持って、主に信頼していた。そこにダビデの勝利の秘訣があったということを、ぜひ私たちは覚えたいと思います。信仰は信頼であるということをぜひ覚えたいと思います。そしてこの父なる神様に対する信頼こそは、私たちの最大の武器であるということをぜひ覚えようではありませんか。
私たちも人生の中で色んなゴリアテと向き合わされる時があると思います。今まさにゴリアテと向き合ってますという方もおられるかもしれません。これからゴリアテと向き合うだろうという方もおられるかもしれません。目に見える形で大きなゴリアテが現れて、それで惑わされるということがあるかもしれないし、あるいは目に見えないゴリアテが私たちの心の中に現れて、私たちを思い煩いでいっぱいにしてしまうというようなこともあるかもしれない。そんな時に私たちに求められているのは、このダビデの信仰であるということをぜひ心に留めたいと思います。
そしてそのダビデの信仰は、日々の歩みの中で、普段の生活の中で養われていくということであります。主が共にいてくださるということ、主が共に戦ってくださるということ、全ての勝利は主から来るということを、日々の歩みの中から味わっていくということ、これが私たちに求められていることであります。日常の中から、普段の生活の中から、主と共に歩む日々を今週もぜひ続けていこうではありませんか。大きいこと、小さいこと、全ての事において、み言葉と祈りによって勝利していこうではありませんか。そのようにして、主に導かれて歩む一歩一歩としていきたいと思います。

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