イエス・キリストをより良く知るために

主の山には備えがある

 
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若井 和生師
若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。

創世記22章1-14節

私が20代の頃にフィリピンに留学をしていたことがありますけれども、そのフィリピンに出発する時にですね、私の父に筆で書いてもらった御言葉がありました。それが今日の聖書の御言葉、創世記22章14節の「主の山には備えがある」という言葉でした。当時の聖書の訳では、「主の山の上には備えがある」というそういう訳だったと思います。留学することは決まったのですけどもその他の事は何一つ決まっておりませんでした。あちらに行ってどこに住むのか、どういう生活をするのか、教会はどうするのか、経済的に支えられるのか、どんなサポートが与えられるのか、と思う不安だらけだったんですね。でもこの御言葉を部屋の前に貼ってですね、そして主の山の上には住まいがあるということを信じて歩んでまいりましたけども、本当に神様が一つ一つは色んな備えを与えて下さって、無事に留学が守られて無事に終えて戻ってくることができた。

そんなこと思い出しておりますが、私にとって思い出のある御言葉ですけれども、今日はその御言葉の箇所を共に皆さんで学んでいきたいと思っております。

1.試練

創世記22章の御言葉を読んでいただきましたけれども、1節の言葉の冒頭の部分っていうのは、本当に考えさせられる言葉だなという風に思います。22章1節

これらの出来事のあと神がアブラハムを試練に合わせられた。

この1文から22章が始まっていくんですけれども。今日の話の内容の全体のまとめとして、神様はアブラハムに試練に会わせられたんだということがここに示されております。

アブラハムは、今まで学んでまいりましたけども、随分苦労してきた人生だったと思うんですけれども、でもやっと息子のイサクが与えられて、それまでの苦労が報われたのではなかったでしょうか。そのまま平穏で幸せな老後を過ごすことができたならば幸いだったなという風に思います。ところが神様はそのアブラハムに試練を与えられたということが今日の箇所に示されております。

まだアブラハムには試練が必要だったということなのでしょうか、私たちの神様は、私達にも試練を与えられる方であるということを覚えたいと思います。しかもこの時はアブラハムに与えられた試練とは、アブラハムにとっては人生で最大の試練だったと言っても良いのではないかと思いますね。今までもいろんな試練がありましたけれども、この時の試練は本当に今までにはないような試練だったんじゃないでしょうか。それはいったいどんな試練だったんでしょうか。2節をお読みいたします。

神は仰せられた。「あなたの子、あなたが愛してひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そして、私があなたに告げる一つの山の上で、彼を全焼の捧げものとして捧げなさい。」

このように主はアブラハムに語られました。その試練とは、アブラハムの愛するひとり子イサクをモリヤの地まで全焼の捧げものとして捧げるという試練でした。全焼の捧げものを捧げるという行為が何を意味しているのかは、アブラハムは当然分かっておりました。それは息子イサクを生贄として、祭壇の上で屠り、火で焼いて神に捧げるということです。神様ここでイサクに関して、アブラハムにこのように言ってます。「あなたのあなたが愛している一人子イサク」って言ってますね。神様は、アブラハムがイサクを愛していることをよくご存知です。イサクアはブラハムにとって、人生のすべてだったと言っていいと思いますね。自分の命よりも大切な存在だったんじゃないでしょうか。そのこと神様もよくわかってるんですね。くご存知なんです。ご存知の上で、その息子を神に捧げよと求められました。

なんと無茶な要求ではないでしょうか。そしてなんと残酷な命令ではないでしょうか。普通の人ならば、もうここでつまずいてしまうような命令だと思います。

そして私達でも、神様は何と厳しいことを要求されるのではないかと、そういう印象を抱いてしまうような場面ではないかなという風に思います。でももっと驚きなのは、その後のアブラハムの反応です。3節、

翌朝早く、アブラハムはロバにい鞍をつけ、二人の若い者と一緒に、息子イサクを連れて行った。アブラハムは全焼の捧げもののための薪を割った。こうして彼は神がお告げになった場所へ向かって行った。アブラハムは翌朝早く起きた。

と、書いてあります。そして鞍に鞍をつけ、二人の若い者と一緒に息子イサクを連れて出発しました。そして神様がお告げになった場所へ向かって行ったと、ここに記されてあります。つまり主の言葉通りにしたということです。神の命令にそのまま従ったということです。

なんという従順さでしょうかと、私たちはも驚いてしまうわけですけれども、でもアブラハムの心の中に戸惑いはなかったんでしょうか?神様に対して疑問を抱いたり、反発したくなったりするような、そんな気持ちは起きなかったんでしょうか?

せっかく与えられた息子です。もう待望の子を、待って待って待って、それで与えられた息子。息子がもしいなくなってしまったら、今までの苦労は全部、水の泡に化してしまうんではないでしょうか。イサクがいなくなったら、神様あアブラハムに約束してくださったあの約束はどうなってしまうんでしょうか。「あなたに子孫を与える。そしてその子孫を通してすべての国民を祝福する。」と、約束してくださった約束は、全部破綻してしまうんではないでしょうか。そもそも親が自分の息子を殺すなどという恐ろしいことを、なぜ神様は命じられるのか?私達であるならば、そこで当然疑問と不満と反発が次々と起こってくるような状況ではないかという風に思います。アブラハムのその時の心中は詳しくはわかりませんわかりませんけれども、ひとつだけわかること、それはアブラハムが神の命令に従ったということであります。すぐに従いましたね。翌朝すぐですね。すぐに行動しました。そして御言葉の通りにしました。そこに神様のそこにアブラハムの神様に対する従順が表されているということがわかります。

それは本当にすごい信仰心だと私たちは思うわけですけれども、でもこのような信仰心はもしかすると盲目的な信仰と呼ぶんではないでしょうか。或いは盲従と呼んだりするんではないでしょうか。

しかしこの時のアブラハムの心境については、新約聖書のヘブル人への手紙の11章17節から19節に記されてあります。そちらを読んでみたいと思いますが、ヘブル人への手紙の11章の17、18、19節をお読みいたします。

信仰によってアブラハムは試みを受けた時に、イサクを捧げました。約束を受けていた彼が、自分のただ一人の子を捧げようとしたのです。神はアブラハムに、イサクにあって、あなたの子孫が起こされると言われましたが、彼は神には人を死者の中からよみがえらせることもできると考えました。それで彼は比喩的に言えばイサクを死者の中から取り戻したのです。

このように新約聖書で、この場面について解説されております。アブラハムは仮にイサクを捧げても、神様はイサクを死者の中からよみがえらせることができると考えた、とここに記されてあります。つまり神様にとって不可能なことは何一つなく、神様はご自身の方法を持って必ず約束を果たしてくださると、アブラハムが信じたということです。振り返ると、アブラハムは今までそのことを繰り返し学んできたんではなかったかなと思うんですね。

ヘブル書の11章の8節と11節も読んでみたいと思いますが、このようにに書いてあります。

信仰によってアブラハムは相続財産として受け取るべき地に出て行くようにと召しを受けた時に、それに従い、どこに行くのかを知らずに出て行きました。

という風に書いてあります。アブラハムが神様から召しを頂いた時に出発するんですけれども、でもその出発した時には、どこに行くのかわからなかったんですね。先が見えない中での出発でした。でもその御言葉に信頼して、一歩足を踏み出した時に、その後のことは全部主が導いて下さいました。ちゃんと行く行くべき道を示してくださった。そういうことをアブラハムは体験してきたのですね。さらに11節を読みますが、

 

アブラハムはすでにその年を過ぎた身であり、サラ自身も不妊の女であったのに、信仰によって子をもうける力を得ました。彼が約束してくださった方を、真実な方だと考えたからです。

と記されてあります。アブラハムはもう十分に歳をとっていましたし、サラの不妊の女でしたけれどもでも、信仰によって子をもうける力を得た。すでにその年齢を過ぎたのに信仰によって子をもうける力を得ました。彼が約束してくださった方を真実な方と考えたからです。このように記されてあります。神様について、神様のご計画について、アブラハムには理解できないことがたくさんありました 。神様について知らないことばかりなんです。

でも分からなくても、主に従う者には、必ず主が答えてくださることを、今までも学んできた。そういうことを体験してきました。そして今回も同じです。

今回もアブラハムは信じたんですね。「自分の息子を神に捧げなさい」などという命令を、なぜ神様くださるのかわからないんですね。とても理解できないんです。でもわからないけれども、それでも主の最善がなされることを信じて、アブラハムは神様に従った。

よってこれは、アブラハムの神様に対する報酬ではないんです。盲目的な信仰ではないんです。これはアブラハムの神様に対する信頼なんです。アブラハムはただ機械的に神様に従っているわけではないです。それが決められたから、定めだからとか、ルールであるからという理由で神様に従っているわけではないですね。そのようにロボットのように神様に従っているわけではない。アブラハムは神様に信頼しました。神様にはアブラハムにはとても知りえないような、計り知れないご計画があるんだということを信じて、神様に委ねた。その時に、神様が最善に導いてくださった。そういうことを私達、聖書を通して教えられるんではないでしょうか。

 

私たちの神様も私たちに試練を与えるときがあるんではないかなと思います。今のこのコロナの状況っていうのも、本当にいろんな意味で試練だと思いますけれども、でもそれは私たちはただ大変だということではなくて、神様から与えられた試練として受け止めることができたならば、受け止め方は全然違うんではないかなという風に思いますね。

そこで私たちに求められていることは何でしょうか?

それは主に従うことです。

試練の意味について、私たち分からないことがたくさんありますね。何でこんな事が起こってくるのか?なんでこんな目にあわなければいけないのか?理解できない事、沢山ありますね。でも分からなくてもそこで、私たちに求められていることは、主に従うことです。

私たちには分からない神様のご計画がありますね。神様のご自身の方法で、かみさまの御業を出されるんです。私たちはそこで、主に信頼し、従っていくものでありたい、そのように思います。

2.主の山には備えがある

その後の展開ですが、アブラハムたちが出発をして三日目に、目的地であるモリヤの山が見えてきました。そこでアブラハムは連れの二人の若い者たちをそこに残して、イサクと二人だけで目的地に向かって行きました。おそらくアブラハムは息子イサクとの最後の時を、二人きりで過ごそうと思ったのではないかと考えられます。しばらく進んでいくとイサクがアブラハムにこんな質問をしてきました。7節です。

イサクは父アブラハムに話しかけていった。「お父さん。」彼は「何だ、わが子よ。」と答えた。イサクは尋ねた。「薪はありますが、全焼の捧げものにする羊はどこにいるのですか。」

このイサクの言葉を聞いた時のアブラハムは、もう胸が張り裂けるような思いだったのではないかと想像します。アブラハムは、それに対して、

「わが子よ、神ご自身が全焼の捧げものの羊を備えてくださるのだ。」

と答えていますけれども、とてもお前がその捧げものなんだよとは言う事が出来ませんでした。アブラハムは神様の命令に従順に従いましたけれども、心の内では激しく苦しんでいたのではなかったかと思います。

そのまま二人は、モリヤの山に到着しました。そこでアブラハムは祭壇を築いて、薪を上に載せました。そして手を伸ばし、刃物を取り、手を振り上げてイサクを屠ろうとしたちょうどその時、天から主の使いの声が聞こえてきまし。11節、12節

「アブラハム、アブラハム。」彼は答えた。「はいここにおります。」御使いは言われた。「その子に手を下してはならない。その子に何もしてはならない。今私は、あなたが神を恐れていることがよくわかった。あなたは自分の独り言さえ惜しむことがなかった。

このように御使いがアブラハムに語られたその言葉がここに記されてあります。この時この瞬間に、アブラハム与えられたこの試練の意味が明らかにされました。それはアブラハムが本当に神様を恐れているのか、本当に主なる神様を第一としているのか、そのアブラハムの信仰を明らかにするための試練であったということであります。

その時のアブラハムにとって、息子イサクはもう本当に大事な大事なアブラハムにとっての全てと言ってもいいような、本当に自分の命よりも大切なかけがえのない存在だったと思いますね。そのアブラハムにとって最も大事なイサクよりも神様を第一とするのかどうか、そのアブラハムの信仰がここで試されたということが分かるわけであります。そのイサクをアブラハムは主に捧げました。イサクを殺しはしませんでした。でも自らの手を用いてイサクを主にお捧げしました。自分にとって最も大事なイサクを神様にお捧げしました。

そのイサクを神様が、なんとアブラハムに返してくださった。

その後アブラハムが目を挙げてみると、一匹のひつじが角を大藪にひっかけていました。アブラハムは行ってその羊を取り、それをイサクの代わりに全焼のいけにえとして神様に捧げた。そのような展開につながっていきます。そしてアブラハムは、その場所をアドナイ・イル、エと呼びました。「主の山には備えがある」という意味ですが、神様がアブラハムのために一匹の牡雄羊備えてくださった。そういう意味でもそこに備えがあったということがわかります。そして息子イサクをアブラハムの元に返してくださった。それも本当に嬉しい大きな神様の愛だったと思います。この試練全体が、この試練そのものが、神様の備えだった、と言えるかもしれません。いろんな意味でまさに、主の山には備えがあると心から告白できるような、そのような体験だったということがわかります。

この試練を通してアブラハムは学びました。神様を第一にして従って行く時に、主は全てを備えてくださる方であるということを、アブラハムはここで教えられたのではなかったでしょうか。

3.結び

私たちも問われているんではないかなと思いますね。神様は私たちにも一番大事なものを主に捧げなさいと問われることがあるんではないでしょうか。私たちの手のひらの中で握り締めてしまっているもの決して離すことができないでいるものを、主にさ下げなさいとわたしたちに命じられる時があるんではないでしょうか。お金でしょうか?趣味でしょうか?家族でしょうか?子供でしょうか?仕事でしょうか?

それはみんな大事なもので、みんな神様から与えられた祝福ですけれども、でもそれがあるゆえに神様に100%従い切れていないものが、もしあるとするならば、それをとり下げなさいと、主はわたしたちに命じられるんではないでしょうか。

主の山には備えがあります。主は自ら喜んで捧げるものに、豊かに応えてくださいます。試練の中でも、喜んで主に従っていくものでありたいと思います。

このモリヤの山が、やがてエルサレムになり、そしてソロモンがこのモリヤの山に神殿を建築するという、そういう展開につながっていきます。そしてイエス様はこのエルサレムにて十字架につけられて死なれてゆきます。

そのようにその後の展開も考えていく時に、アブラハムはここで、意図せずに神の側に立たされていたということを、私たちは気づかされるんではないかと思うんですね。

父がひとり子を捧げるということが、どんなに大きな心の痛みであるのかということを、アブラハムはここで教えられたのではないかと思いますね。アブラハムはイサクを神に捧げました。でも主に捧げて、それを取り戻すことができた。でも父なる神様は、そのひとり子イエスキリストを惜しまずに、私たちに捧げ尽くしてくださった。そこにどんなに激しい痛みがあったかということを、アブラハムはこの時身をもって体験させられていたのではないかというふうに思うんですね。

神様は、ご自分の心と一つになる者を求めておられるのではないでしょうか。自分を中心にして神様を利用するような、そんな信仰ではなくて、完全に神様の側に立って、神と一つ心になり、主の御心に生きる人を、主は求めておられるのではないでしょうか。そのような信仰者を神様は必ず祝福してくださるのではないでしょうか。

私たちのために、最も大切なひとり子イエスキリストを惜しまずに与えてくださった、父なる神様に感謝したいと思いますね。そしてその父なる神様に私たちも最も大切なものを主にお捧げしてお仕えして行こうではありませんか。

 

お祈りをしましょう、恵み深き私たちの父なる神様。試練の時にも、そして主の御心がわからないような時にも、どうか主にお従いしていくことができますように助け導いてください。私たちには知ることのできない、あなたの計り知れない方法をもって、あなたは御業をなしてくださることを、身をもって信じることができるように助けてください。そしてひとり子イエスキリスト私たちのために惜しまずに与えて下さったあなたに、私たちも私たちの最も大切なモノをお捧げして、主にお従えしていくことできるように励まし助けてくださるようにお願い致します。み言葉を心から感謝し、主イエスキリストの御名によってお祈りをいたします 。

 

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