イエス・キリストをより良く知るために

なぜ、赤ちゃんが我が家に与えられたのか?創世記1章27節

 
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若井 和生師
若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。
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創世記1章26~28節:神は仰せられた。「さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう。こうして彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地の上を這うすべてのものを支配するようにしよう。」 神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。 神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。増えよ。地に満ちよ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地の上を這うすべての生き物を支配せよ。」

私は若い頃に、フィリピンで生活をしていたことがあります。それでフィリピンの人々と色々お付き合いをしていく中で、フィリピンの人々のたくましさというものに、非常に感心させられることが多々あったなということを思い出しております。多くの方々が貧困の問題であったり社会的抑圧であったり様々な考えられないような困難の中にあっても、明るく前向きにたくましく生きている姿というのを見て、励まされることが多かったんですけれども、日本ではちょっと行き詰まっただけで、自分の死を考えてしまったりですね、そんな傾向もあるかなと思うんですけれども、フィリピンでは自殺というのがほとんどないということを聞きました。それで何が違うのかな、何があるのかなと、色々考えながらフィリピンのこと調べていましたけれども、一つ気づいたことがありました。フィリピンの人の宗教ですね。宗教心を調べて行く時に、フィリピンの宗教観の中に、創造主なる神様を信じる信仰があるということとが分かりました。フィリピンの方はカトリックの方が多いんですけれども、でもカトリックがフィリピンに伝わる以前の土着の宗教の中に、創造主という考え方があって、自分達は神によって作られているという理解が、広く共有されているということがわかりました。ですからその感覚を今でも多くの方々が持ってるんじゃないかなと思うんですけれども、それがフィリピンの人々の心の深いところにある、安定に繋がってるんじゃないかなという風に私は考えております。

自分はどこから来たのか?なんのために存在しているのか?

自分はどこから来たのか?自分の存在の理由は何か?ということが分かっているということは、私たちが与えられた人生を喜んで歩むために、とても大切なことではないだろうかと思います。生きててよかった、生まれてきてよかったと、心から思えるためには、やはり、とても大切な理解じゃないかなというふうに思います。今日は子供祝福式が、この後、もたれるんですけれども、私たちが願うことは、私達の子供達が、生まれてきてよかった、そう心から告白できる、そんな人生を歩んでくれることじゃないかなと思うんですよね。自分は何で生まれてきたんだろうか、自分なんか生まれてこないほうが良かったと、そういう後ろ向きな気持ちで生きていくことを、私たちは望んでいないと思います。そのような心からの確信と、心の深いところにある安心感といったらよいでしょうか、そのようなものを子供達はどこからどういう風に与えられていくでしょうか。それはやっぱり自分がどこから来たのか、そして自分は何のために存在しているのかということに関して、正しい理解があるということは、とっても大事なことじゃないでしょうか。そんなことを今日、聖書を通して学んでゆきたいと思います。

私達は創造者なる神によって造られた。創世記1章27節。

聖書は、私たちが創造者なる神様によって作られたということを教えております。それが今日の箇所の内容ということになりますが、創世記1章の27節に、神は人をご自身の形として創造されたかのように記されてあります。聖書によれば、私たちは神様によって創造された一人一人であるということ、神様によって作られた神の作品であるということがわかります。ですからこの理解に立つときに、私たちは、ある日偶然、この世に生まれてきたわけではない、私達の子供達も、ある日突然この世に現れたわけではない、神様のご計画の中で神様の御手の中で作られた一人ひとりの存在であるということを、私たちは教えられる。そしてそれが私たちが、今、存在している訳でもあるし、私達の子供たちが今、生かされていることの理由でもある 。それを知っているか、知らないか、人生にとってとても大事なことじゃないでしょうか。それは大きな違いになるんじゃないかという風に思います。

神様は私達を、そして子供たちを、どのような存在として造ってくださったのか。

今日与えられている箇所から二つのことを覚えたいと思います。

第一に、創り主なる神様は、私たち、そして私達の子供達を、尊い価値ある存在として造ってくださったということ。

二番目に、私たち、そして私達の子供達を、社会的存在として造ってくださったということ、その二つのことを、み言葉を通して覚えあっていきたいと思います。

神は人をご自身のかたちとして創造された。

創世記1章27節に、「神は人をご自身のかたちとして創造された」と記されてあります。

ただ私たち人間を造られただけではなくて、その人間を「神のかたち」として造られたというふうに教えられております。また1章26節を見ると神様が人を「神の似姿に作られた」という言葉も出てきます。私達人間は、神ご自身のかたちとして造られております。そして、神に似たものとして造られています。これはいったい何を意味してるでしょうか?

神様は目に見えないんです。目に見えない神様のかたちに造られたというのは、どういうことでしょうか?あるいは目に見えない神様に私たちが似ているって言われても、それはどういう意味で似てるんでしょうか?いろんなことを教えられる、いろんなことを考えさせられる言葉だなと思うんですけれども、第一にこれは、私たちが非常に尊い存在であるということ、価値ある存在であるということ、また私達の子供達も非常に尊い存在価値ある存在として造られているということを表しております。

聖書が記されたところの、古代オリエントの世界において、「神のかたち」という言葉は、王様であったり、支配者権力者を表す言葉だったそうです。その言葉が、人間一人ひとりに使われているというのはどういうことでしょうか。

それは私たち一人ひとりが、実に尊いもの、価値あるものとして作られているということを表しております。つまり私達の存在そのものに価値があるということです。

今、私たちが生かされているこの時代の考え方、またこの日本でも世界でも同じだと思うんですけれども、この時代の主流の考え方、人間についての考え方は、どういう考え方かということを考えるとですね、それはおそらく人間そのものに価値があるということではなくて、人間にくっついている、あるいは付随しているものに、価値があるという、そういう考え方が支配的ではないだろうかというふうに思います。その人の持っている学歴であるとか、職業であるとか、社会的立場であるとか、性別の違いであるとか、国籍とか肌の色とか才能とか、その人の持っている技術とか、そういうものによって人間の価値が図られる世の中になってしまってるんじゃないかなという風に思いますね。その人存在そのものに価値があるんではなくて、その人に付随しているいろんなもの、色んな立場、そういうものに価値があるかのような、そういう考え方がこの世の支配的な考え方じゃないでしょうか。

私たちもよーく考えて気をつけてないとですね、そういう考え方に飲み込まれてしまったり、影響されてしまったり、混乱してしまうということになりかねないと思います。

なんとなく勉強がよくできてですね、偏差値が高い人が、なんとなく価値がある人であるかのような、有名な学校に進学をし、有名な企業に就職をした人が、なんかとっても価値がある人であるかのような、そうならない人は何となく価値がないかのような、そんなふうに見做す雰囲気といいますか、社会的なそういう状況っていうのが、やっぱりあるんじゃないかなと思うんですよね。気をつけてないと、自分でもそんなふうに感じてしまうようなことがあるかもしれません。

あるいは何か才能がある人、今 ノーベル賞を取るような本当に優秀な方もいますし、あるいは大谷翔平選手のように、ピッチャーとしても超一流、バッターとしても超一流な、そんな人がいるんだなと、私達には信じられないような思いになりますけれども、すごくなんか価値があって、すごいお金がそこについて回るって言うことになりますけれども、でもそういう人が価値があって、そうでない人は価値がないという風に、誰が決めるんでしょうか?でもこの世はそういう考え方になっているんじゃないかなという風に思います。あるいは何か社会に貢献できる人、貢献できるような技術を持っている人は、非常に用いられますけれども、そうでない人、力のない人は、社会でも必要とされないということで、だんだんなんとなく居心地が悪くなってしまう。そんな社会になってしまってるんじゃないかなという風に思います。

聖書にはそういう考え方はありません。どうしてかと言うと、聖書は私たち一人ひとりは、神によって造られた、神のかたちであるという風に教えているからです。

この聖書の真理に、しっかり立ってないとですね、私たちも、なんとなくこのような考え方に影響されて、そんなん考え方になってしまうんじゃないかなという風に思いますね。

ですから気をつけなければいけないと思います。

神様は期待と喜びを持って、人を造られた。

今回の聖書の箇所を読んでみて、私がとても心にとまった一つの言葉があるんですけれども、それは26節の、「さあ」という言葉なんですね。神様が人間を造られる時に、こう話したという言葉が創世記1章26節なんですが、

神は仰せられた。『さあ、人を我々のかたちとして、我々の似姿に作ろう』」という風にここに出てきますね。神様が人を造ろうとした時に、「さあ」と、そういう言葉を発したってこれはいい訳じゃないかなと思いましたけれども、神様が自分自身に語りかけて人間を造ってくださった。「さあ」という言葉の中に、神様の期待、そして喜びが、込められているのを感じるんじゃないかなと思いますね。神様が私たちを造る時、少なくても「あ~あ」とか「フ~」とか 、「なんで~」 とか、そんなため息混じりの言葉を発して造られtのではないということですね。「これからすごいの造るぞ」という思いを持ってですね、私たち一人ひとりが造られているっていう事なんです。それはどんなに幸いなことではないでしょうか。この「さあ」という言葉の中に、本当に私たち一人ひとりが、とっても神様にとって大事な存在なんだということが表わされてるように思いますね。

そしてそのことを証明してくださったのはイエス様です。イエス様は神であったのに、その立場を捨てて、人となってこの地上に来てくださって、そしてなんと、十字架にかかって死んでくださった。それは、私たちの罪のためであった、という風に書かれてありますけれども、私達のためということだけではなくて、私たち一人一人のために、十字架にかかってくださったということです。つまりもしこの地上に、私一人しかこの地上にいなかったとしても、イエス様はわたしのために、この地上に来て、そして私のために十字架にかかってくださったということです。もしこの地上に皆さん一人しかいなかったとしても、その一人の為に、皆さんのために、あなたのために、イエス様は来てくださって、イエス様をは字架にかかってくださったということです。これはすごいことですよね。それはどれくらい神様にとって、私たち一人ひとりが大事で尊い存在であるかということを、表しているんです。価値のない人のために、死ぬ人は誰もいませんね。価値のない人のために、犠牲を払う人っていうのはほとんどいないと思います。けれどもイエス様が、私たちのために死んでくださったっていうことは、それだけ私たちに値打ちがあるということですね。私たちに価値があると、それだけの価値があるということを証明して下さったんですよ。イエスキリストの十字架は、そういうものなんですよね。ですから私たちは、本当にイエス様の十字架から目を離さないで、そこになんと大きな愛が、私たち全体だけではなくて、私たち一人ひとりに対する愛がそこに表されているかということを覚えながら、感謝したいと思います。

わたし達は、子供達を、そのような存在として受け入れ、愛していかなければいけないと思います。親たちは子供達をそういう存在として 愛を注いでいかなければいけないという風に思います。子供達は、神様の子供です。神様がそんなに大切に思って造ってくださったその子供達を、本当に委ねられていますので、その子供達を愛していくってことはとっても大事なことです。ですからお勉強のできる子、できない子、色々あるかもしれませんし、親の言うこと聞く子と、聞かない子、色々あるかもしれません。親に従順な良い子供もいるかもしれないけど、反発ばっかりしてる子供達もいるかもしれませんけれども、私たちはその状態によって、本当に色々とイライラしたり、混乱したり、そんなことがあるかもしれませんけれども、でも、それだけ大事な一人ひとりなんだよということを忘れないで、その子供達が委ねられているということを、感謝しながら子育てに取り組み、また祈っていくものでありたいと思います。

私達や、私達の子供たちは、「社会的存在」として造られている

私たち一人ひとりが、そして子供たちが、神のかたちとして造られたというのは、どういう意味があるでしょうか?何を表しているでしょうか?

2番目にそれは、私達や、私達の子供たちが、社会的存在として造られているということを表しております。つまりそれは関わりを持つ者として、あるいは互いに励ましあったり助け合ったりしたりする存在として、造られているということです。27節に、

神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。」と記されています。

神様は人を神のかたちとして創造し、そして男と女を作られました。神様は男だけを造りませんでした。あるいは神様は女だけを造りませんでした。男と女の両方を造られた。それは男と女が、互いに助け合ったり、支え合ったり、愛し合ったりしながら、生きていくためです。お互いに関わりを持つ存在として、私たち一人ひとりが造られているということです。

私たちは、一人で生きていくことはできないですね。一人で完結している存在ではありません。必ず誰かの助け、協力、関わりがないと、生きていけないです。男と女が互いに助け合いながら歩むように、私たちは造られています。そしてその人間を、神様は祝福されました。創世記1章28節で、「神は彼らを祝福された」と、そのように記されてあります。神様は人間を祝福された。すべての子どもたちはもう祝福されております。この祝福を受けてこの世に送り込まれてきました。この世に生まれました。実は神様は、「人を造られた」その時にも、人を祝福してくださっています。そのことが分かる。子供達が家庭に与えられるということは、それは家庭にとって大きな祝福です。その子供達の存在によって家庭は祝福されます。子供が生まれるというのは、神の祝福がやってきたということです。神様も祝福してくださっている、その子供がやってきたということは、それはその子供によって家庭が祝福されるということです。ですから親は、子供たちを神が祝福されたものとして受け入れるということを育てるということが求められてきます。本当に来てくれてありがとう、本当に家に生まれてくれてありがとう、そんな気持ちを込めて子供達を育てる必要があるんじゃないでしょうか。

なんでウチに来たんだ、なんで生まれてきたんだって、そんな気持ちで育ててしまってはいけないですよね。そんな人、いないと思いますけれども、子供たちが本当に情緒的に安定した子供として成長していくためにも、本当に生まれてきてよかった、そういう風に思えるようになるためにも、本当に子供たちが祝福の子供として家庭に受け入れられ育てられていくということが大事なことですですから、親は神の祝福なんだということを信じなければいけません。

神が人間を地上に送り出して下さった時に、委ねられた「務め」。

そして神様は、 祝福された後に、この人間を地上に送り出して下さったんですけれども、一つの命令をもって、人間をこの地上に送り出してくださったということがわかります。それは1章28節に出てきますけれども、

産めよ。増えよ。地に満ちよ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地の上を這うすべての生き物を支配せよ。

神様が、人を祝福されたあと、このような言葉、このような命令をもって、人を地上に送り出してくださったということがわかります。つまり人には、神様からの大切な勤めが与えられているっていうことです。それはどんな勤めでしょうか。この聖書の言葉によるとそれは、産めよ、増えよ、地に満ちよ、地に増えていくということ、地に広がっていくということ、そして地を従えよ、あるいはすべての生き物を支配せよ、従えるということ、支配するという、そういう勤めが人に与えられているということがわかります。支配するという言葉を聞くと、私たちは何か、自分勝手に、自分の権力のままに、人々をコントロールしてしまうような、この地上をコントロールしてしまうようなそんな感じがするかもしれませんけれども、ここで支配するという言葉はむしろ、管理するとか、育てるとか、そういう意味が込められている言葉です。

神様が造られた、この天と地、素晴らしい世界を、みこころのままに人が管理をしていくということ、あるいは神様の御心に沿った形で発展させていくということ、それが人に与えられた務めであるということが、この言葉を通して教えられております。そしてそれは神様の祝福を、全世界に届けるためです。この全地に神様の祝福を届けるため、そして全世界を神様の祝福で満たすため、そのためにまず神様は、人を祝福して、そしてその後、産めよ増えよ地に満ちよ、と言っています。神様の願っていることは、この世界が祝福されることです。そしてわたしたちによって、その祝福がもたらされること、届けられること、そういう大切な勤めが、私たち一人ひとりに与えられている。そして私達の子供達にも与えられている。これを知っているか知っていないか、とっても大きな違いだという風に思いますね。

私たちは何のために生きているんだろうか?この世にやって来た目的は何だろうか?子供たちもいつかそういうこと考える時が来るかもしれません。今は一生懸命、宿題を一生懸命やって、次の目標に向かって頑張ること、それがとりあえずの目標かもしれませんけれども、やがて自分は何のために生きてるんだろう、自分のこの地上における目的は何だろう、そんなことを考える時が、やがてやってくるんじゃないかと思うんですよね。それを知っているのと、知らないとでは、全然違いますね。

でも私たちは感謝です。聖書を通して、そういうこともちゃんと教えてもらえるんですね。聖書は教えています。私たちの存在を。この世に生かされている目的は、神様のお仕事をするためですね。神様の祝福を、全世界に届けるためです。そして神様の造られたこの素晴らしい世界を、ふさわしく管理したり、整えたり、育てていくこと、それが私たちに委ねられた務めです。そのために私たちはいろんな勉強をしたり、いろんなお仕事をしたり、いろんな努力をしますね。それが全部神様の栄光のためなんです。それが分かっているか、分かっていないか、それは人生にとって、大きな違いではないかという風に思いますね。私たちは子供達をそういう方向に育てていくという責任があります。神様が何のためにこの子供を地上に送ってくださったでしょうか。そのことを親たちもよく理解していなければいけないし、おとな達もよく理解していなければいけない。そのことを理解しながら、私たちは子どもたちを守り、また育み、そして成長を祈っていくということが求められている。そのことをぜひ覚えたいと思います。そのためにはやっぱり子供たちが、本当にこの社会性を養っていけるように、私たちは見守っていく必要があるかなと思います。社会的存在として私たちは造られています。たえず人との関わりの中で成長していく、そういう存在として造られています。

まとめ

まず親子のコミュニケーションから始まりますね。親と子がよく向き合って、会話しているということ、そしてそれが今度兄弟の関係、家族の関係、そこで子供たちは社会性を養ってゆきます。親戚の関係、近所の関係、さらに幼稚園に入ったり、学校に入ったりすると、また違う世界の人たちの出会いがありますね。中学・高校、やがては社会人になって知らない世界に入ってきますけれども、そこでやっぱりいろんな人との出会いがありながら、その中で成長していくんだと思います。そういう存在として、私たちは造られていますけれども、それはそういう人との関わりの中で、お互いに助けられたり、助けたり、助け合ったりしながら、神様の祝福をこの世界に届けるためです。人々の関わりの中で、神様の素晴らしさを伝えるためです。そういう存在として私たちは造られているし子供達も造られているということを覚えながら、是非その面において、子供たちが豊かに成長できるように、私たちは祈り育てていくということが、とっても大事なことじゃないかなと思います。子供達は私達の子供達かもしれませんけれども、でも神の子供たちであるということを、ぜひ覚えたいと思います。神様が愛し、造られた子供達、そして私たちに委ねてくださった大切な子供達です。そして神様には、ちゃんと計画があります。子供達それぞれに計画があるんです。そして神様の御心というのがあるんです。こういう風に育ってほしいな、そしてこういう大人になってほしいな、こういう働きをして欲しいなと、まず神様が願っていますよね。その御心に沿って、私たちが子どもたちを育てていくということは、とても大事なことではないでしょうか。

決して自分の所有物にすることがないように、全部自分のものとして、自分の願いを叶えてくれる存在として子供達を支配してしまうことがないように、この子供たちは神様から委ねられた大切な大切な命であるということ、存在であるということを、私たちはよくわきまえながら、祈りつつ御心に沿って、子供達を愛し育てていきたいというふうに思います。

どうぞ教会に子供たちを送って下さい。この教会は本当にみんな祈っています。子供達の成長を祈っています。そしていろんな方々が関わってくれます。ここは神の家族です。ここは家族、兄弟がたくさんいます。おじさん、おばさんもたくさんいます。おじいちゃん、おばあちゃんも、たくさんいます。みんなに愛されて、みんなに祈られて、育てられるって言うこと、こんなに幸いなことはないですよね。子供達はこの教会の中で養われていきますね。社会性を身につけていきます。そして神様を意識しながら、自分に与えられた人生を感謝しながら、成長していけますね。本当に素晴らしいことじゃないでしょうか。ですからぜひ教会に、これからも子供たちを送り続けて欲しいなと思います。委ねられた子供たちの成長を、私たちはこれからも祈り続け、愛し続けていくものでありたいと思います。

 

お祈りをいたします。愛する神様、私たち一人ひとり本当に尊いものとして、価値あるものとして、造ってくださったこと、本当に私たちを愛してくださって、最高の作品として期待をもって、願いをもって、また喜びをもって造られている一人一人であることを覚えることができてありがとうございます。そしてそれだけではなくて、本当に私たちがこの命ある限り、ここで与えられている務めを果たすために、主が私たちに努めを与えてくださっていることも覚えて、ありがとうございます。この祝福を、子供たちがよく受け止め、信じ、また理解しながら、あなたの御心に沿った方向へと人生を歩み続けていくことができますように、それぞれの子供達を導いていてください。またそれぞれのご家庭を導いていてください。御言葉を心から感謝いたします。尊い救い主、イエス・キリストの御名によってお祈りをいたします 。

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