神がご自分の血をもって買い取られた神の教会
使徒の働き20章28~32節
【1】 牧師を迎えるための備え
本日の聖書箇所は私が聖園教会の牧師として就任した際に与えられたみことばです。それは2016年4月のこと。司式をしてくださったのは小林和夫先生でした。和夫先生の語られるこのみことばを、襟を正されるような思いで聞いたことを思い出します。
その後、教会の歴史を調べていく中で、このみことばは2004年に加藤嘉成牧師の就任式の時にも朗読されたみことばであることがわかりました。加藤牧師は2年後の2006年に聖園教会を辞任していかれました。その後、2016年に私が就任するまで、聖園教会は牧師の定まらない10年の日々を過ごしたことになります。
私たちは、どのような教訓をこの10年から得るべきなのでしょうか。このようなことを二度と繰り返さないために、教会にとって牧師を迎えるとはどのようなことなのか、牧師とはどのような存在で、どのようなつとめが与えられているのか、私たちは聖書からよく学んでおく必要があります。
【2】 牧師:聖霊がお立てになった
今日与えられている使徒の働き20章の記事は、パウロがエペソ教会の長老たちに対して語った惜別説教です。この中でパウロは教会に立てられた指導者(当時は長老、もしくは監督)の役割について教えています。このみことばを通して牧師という職務について教えられます。
パウロは「聖霊はあなたがたを群れの監督にお立てになった」と語りました(28)。このことばより牧師とは聖霊によって教会に立てられた指導者であることがわかります。牧師就任はもちろん牧師個人と教会との話し合いによって決まります。しかしそれでも、聖霊の導きを確信するからこそ、そのことが決まります。よって牧師にまず求められることは召しがしっかりしているということです。同時に、同じ理解が教会にも求められます。
時々、牧師の人柄や人当たりのよさ、実績や教会に対する貢献度で牧師の評価が定まってしまうことがあります。プロ野球の監督であれば実績が挙げられなければ、解任されてしまうでしょう。しかしそのようなこの世的な規準で牧師の評価が決まってしまうことがないように、私たちは気を付けなければなりません。牧師は聖霊が立てられた器であることのゆえに、尊いつとめなのです。
【3】 管理者としての牧師
それでは牧師のつとめとは何でしょうか。パウロは「あなたがたは自分自身と群れの全体に気を配りなさい」とエペソ教会の長老たちに命じました(28)。牧師のつとめとは「気を配る」こと、つまり、群れの管理に集中することです。
第一に牧師は自分自身を管理できる人でなければいけません。自分を管理できなければ教会を管理することはできないからです。その上で牧師は教会の群れ全体に気を配ります。
どのような方法で群れを管理するのでしょうか。第一に群れを牧します。パウロは「神の教会を牧させるために」彼らを監督に立てられたと語りました。牧師のつとめとは第一に群れを牧することです。羊飼いが羊たちを牧するように、牧師は信徒たちを養い、導き、励まし、慰め、時には戒めなければなりません。そのようにして信徒たちの成長を促すのです。
二番目に牧師は群れを守ります。パウロはやがて「狂暴な狼が中に入り込んで来て、容赦なく群れを荒らし回る」と警告しました(29)。さらに、「あなたがた自身からも、いろいろな曲がったことを語って」、教会に混乱を引き起こす者たちが現れると語りました(30)。そのような危険の中にあって「目を覚ましていること」が彼らのつとめでした(31)。牧師は今も、様々な教えの風から教会を守るために、しっかりと目を覚ましている必要があるのです。
どのようにして牧師は信徒たちを牧し、教会を守るのでしょうか。神のみことばを語ることによってです。よって牧師の第一のつとめは、みことばそのものをはっきりと語ることです。聖書の真理に堅く立つことができるように、牧師は教会を導く責任が神から与えられているのです。
【4】 神がご自分の血をもって買い取られた神の教会
教会が注意しなければならないことが一つあります。それはキリストを頭とする教会が、いつの間にか牧師中心の教会になってしまうことです。私たちは皆、教会の頭がキリストであることを、頭では理解しています。しかしそれでも牧師の人格や人柄やタイプなどが教会を支配してしまうことがあります。教会がそのことを牧師に求めてしまうことがあります。
パウロは、「教会は神がご自分の血をもって買い取られた神の教会」であることを教えています。神にとって、教会はいかに尊い存在でしょうか。私たち一人ひとりにとって、教会とはどれだけ大きな祝福でしょうか。その教会は神の教会、つまり神の所有です。その尊い教会を、人間の思いが支配する人間の集団にしてはいけません。牧師と信徒は協力しながら、教会を「神の教会」として守っていかなければならないのです。その神の教会にこそ、神は臨在され、神の祝福があふれることを私たちは忘れないようにしたいと思います。