イエス・キリストをより良く知るために

復活の証人

 
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若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。

使徒の働き2章25~36節

ダビデは、この方について次のように言っています。
  『私はいつも、主を前にしています。主が私の右におられるので、私は揺るがされることはありません。それゆえ、私の心は喜び、私の舌は喜びにあふれます。私の身も、望みの中に住まいます。あなたは、私のたましいをよみに捨て置かず、あなたにある敬虔な者に滅びをお見せにならないからです。 あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。 あなたの御前で、私を喜びで満たしてくださいます。』
兄弟たち。父祖ダビデについては、あなたがたに確信をもって言うことができます。彼は死んで葬られ、その墓は今日に至るまで私たちの間にあります。彼は預言者でしたから、自分の子孫の一人を自分の王座に就かせると、神が誓われたことを知っていました。それで、後のことを予見し、キリストの復活について、『彼はよみに捨て置かれず、そのからだは朽ちて滅びることがない』と語ったのです。
このイエスを、神はよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。
ですから、神の右に上げられたイエスが、約束された聖霊を御父から受けて、今あなたがたが目にし、耳にしている聖霊を注いでくださったのです。ダビデが天に上ったのではありません。彼自身こう言っています。
『主は、私の主に言われた。 あなたは、わたしの右の座に着いていなさい。わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまで。』
ですから、イスラエルの全家は、このことをはっきりと知らなければなりません。神が今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」聖書 新改訳2017

今日は「復活の証人」という題でこの聖書の箇所から説教をお語りしたいと思います。

聖霊が弟子たちの上に注がれたペンテコステの日に、ペテロによって語られたメッセージに今私たちは注目をしております。弟子たちそれぞれが御霊が語らせるままに色々な言葉で話し始めたわけですけれども、その後でペテロが、今度は弟子たちを代表して人々の前に立ちメッセージを語りました。

そのメッセージの内容の中心はイエスキリストであったということ、イエスキリストの御技について、イエスキリストの十字架について、イエスキリストの復活について、ペテロは語ったということを、前回のメッセージで私たちは確認したところでありました。

その内容から、福音の中心というのはまさにイエスキリストであるということを私たちに教えられました。そしてこの方以外には救いはないということ、私たちが救われているかどうかは、イエス様を救い主として信じているかどうかにかかっているということを、前回私たちは確認したところでありました。

1.ダビデの預言

そのペテロのメッセージが続いていくんですけれども、今日の聖書の箇所でペテロは、25節で「ダビデはこの方について次のように言っています」と、新しい展開が始まったということがわかります。ダビデについて語っている。そしてダビデが、「この方」というのはもちろんイエス様ですけれども、ダビデが実はイエス様のことを語っていたんだということを、ペテロはここで言及しているということがわかります。イエス様が誕生する1000年も前の人物である、旧約聖書の人物であるダビデが、イエスキリストについて、もう語っていたということ、そのことをペテロがここで証言している。そしてそのために、ここで詩篇16篇が語られているということがわかります。

25節から読んでみます。

私はいつも主を前にしています。主が私の右におられるので、私は揺るがされることはありません。それゆえ私の心は喜び、私の舌は喜びにあふれます。私の身も望みの中に住まいます。あなた私の魂をよみに捨ておかず、あなたにある敬虔な者に、滅びをお見せにならないからです。あなたは私に、命の道を知らせてくださいます。あなたの御前で私を喜びで満たしてくださいます。

このようにペテロはここで、詩篇16篇の言葉を紹介し、語っているということがわかります。この詩編16編、大好きな方もたくさんいらっしゃるんではないかなと思うですけれども、この詩篇16篇の一番大きなテーマは、「喜び」というテーマだと思います。溢れるばかりの喜びが、この詩篇の中で歌われています。ここにも、26節で「私の心は喜び、私の舌は喜びにあふれています」とこの詩篇の著者の告白をしております。もう、口から喜びが溢れてくるとそういうことです。28節では私を喜びで満たして下さいますようにも出てきます。この詩篇の著者は本当に心から喜んでいるということが伝わってくる、そういう内容の詩篇です。

詩篇16篇を読むとわかるんですけれども、この詩篇の冒頭の言葉は、「神様私をお守りください」というそういう言葉から始まります。ですからこの詩篇が非常に危機的な状況の中で歌われた詩篇であるということが分かるんですね。何か危険が迫ってるんです。私をお守り下さいと、心から叫ばざるを得ないような状況の中で歌わ れているということなんですね。

ところがそのような危険が迫っている中にあって、この著者はもう喜びが溢れてくるんです。もう喜んでいるんです。もう心が喜びで一杯なんです。そういう歌なんです。どうしてこんな状況の中で喜んでいることができるのか?

その理由が25節ですよね。「私はいつも主を前にしています。主が私の右におられるので」。そう書いてます。喜んでいられるその理由は、私がいつも主を前にしていたということ、主がいつも私の右におられたということ、「それゆえに、」と続いていく。つまり主なる神様との親しい交わりの中に、いつも生かされているということがこの人の喜びであったということがわかる。そういう詩篇であります。

さらに26節を読むと、この著者は26節の最後の所に、「私の身も、望みの中に住まいます」と告白をしています。この喜びが「望み」に基づいている喜びであるということが分かる。その「望み」って何でしょうか?それが27節、「あなたは私の魂を、よみに捨ておかず、あなたにある敬虔な者に滅びをお見せにならないからです。」

ここにこの人の望みが表されています。神様は、その人がたとえ死ぬことがあったとしても、その人の魂をよみに捨ておいたりはしない。「よみ」と訳されているこの言葉、「ハデス」っていう言葉ですけれども、これは死者が行く世界、あるいは死者の状態を表している言葉だという風に説明されます。死者が行く世界、あるいはその状態の中に捨てられてしまう、そこに捨て置かれることはありませんという、そういう告白です。そして「神様はその人に滅びをお見せにはなりません」と歌われている。その人が滅びることは決してないんです。、つまりその人の命はいつも守られているし、そしてその人は蘇るということ、復活をするということ、これがこの人の持っている望みであり、この人はこののぞみの中に住んでいたと、そのように告白しています。

「のぞみの中に住む」っていう言葉は、とてもいい言葉だなという風に今回思いました。

皆さん果たして「のぞみの中に住んでいる」でしょうか?それはおそらく、のぞみの中に住んでいると言えるくらい、本当に望みの中にどっぷり浸かってると言ったらいいでしょうか、本当にそれはいつも心の中に意識していると言ったらいいでしょうか、たとえ危険があったとしても、目の前にいろんな困難や不安があったとしても、その先に望みがあるそこから目を離さないで生きているということ、そのような生き方がここに示されている、だからこの人はいつも喜んでるんですね。

危険の中にも、苦しみの中にも、その喜びがある。私たちはもしかするとのぞみの中に住んでいるのではなくて、殺伐とした現実の中に住んでいるということが多いかもしれません。ですからすぐに行き詰ってしまいますね。すぐに問題にぶち当たってしまいます。私たちも是非この詩篇の著者のように、望みの中に住む者でありたいという風に思います。

そしてダビデは、この人物は実はイエスキリストのことを表していると主張しているわけです。私たちはこの詩篇を読むと、これはダビデであると考えたくなりますよね。なぜならばこの詩篇はダビデによって作られた詩篇です。当然そのように考えると思います。

ところがペテロは、この詩篇はダビデがイエス様について語った詩篇なんだと、ここで主張しているわけです。

そして二つの根拠が示されております。29節、

兄弟たち、父祖ダビデについては、あなた方に確信を持って言うことができます。彼は死んで葬られ、その墓は今日に至るまで私たちの間にあります。

まず第一の根拠は、もうダビデは死んだんですね。死んだままなんです。ダビデは私たちと同じように死んで葬られました。そしてその墓は、今日に至るまで私たちの間にあるとここで告げられ います。つまりダビデは復活してないんですね。死んだままなんです。

どうして詩篇16篇の人物が、ダビデだということができるでしょう。そのような理由で詩篇の人物は、ダビデではないということをここでペテロは告げています。

さらにもう一つの根編は、30節、

彼は預言者でしたから、自分の子孫の一人を、自分の王座につかせると、神が誓われたことを知っていました。

2番目の根拠は、ダビデが預言者だったということ。そしてその預言者であるダビデが、自分の子孫の一人を自分の王座につかせると神様が誓われたことを、ダビデが知っていたということ、神様のご計画の中で、ダビデの子孫の中の一人によって、王座が確立されるということを、ダビデは信仰をもって知っていたということがここで告げられている。つまりナビではやがて来るメシヤと呼ばれる救い主について、この詩篇を通して予言していたということです。

そして特にダビデはこのメシヤが一度死ぬけれども、復活するということを告げていると言うか、その事実を予言していたということが、31節でも主張されております。

それで後のことを予見して、キリストの復活について、「彼はよみに捨て置かれる、その体は朽ちて滅びることがない」と語ったのです。このようにペテロは、このダビデの詩篇16編について語っています。

ダビデはまさにこの方について語りました。

ユダヤ人たちがよく知っている、ユダヤ人達が自分達の英雄であると言って誇りにしているところのあのダビデが、なんと救い主について予言をしていたということ、しかも、その救い主が死ぬけれども、復活するということをちゃんと告げていたということ、それは聖書の中にちゃんと示されていたことなんだということを、ここで人々の前に、大胆に語っているということであります。

この聖書の箇所を通して、私たちは新約聖書の時代に生き生かされている恵みを噛み締めたいなという風に思います。ダビデも含めて旧約聖書のたくさんの信仰者たちは、救い主と出会うことができなかったんですね。ただ待望するだけでした。やがてやってくるメシヤ、救い主が来る、その人物がやってくるということを知らされていて、待望するだけですね。お会いすることはできなかったんですね。待望しただけで、決して会うことができないで、そのまま死んでしまったんですね。ダビデもその一人でした。でも会うことはできなかったけれども、後に来る私たちのために救い主をちゃんと指し示してくださっていたということ、自分では会うことはできなかったのに、後の時代に生かされる私たちのために、「救い主がやって来ますよ、この人は真の神様ですよ。この人を信じれば救われますよ」という大切なメッセージを残して死んでいかれた。そのようにして今、旧約聖書の先人たちは、私たちに大切なメッセージを語りかけているんではないかなという風に思うんですね。そのメッセージを私たちは聞き漏らすことがなく、ちゃんと受け止めるものでありたいと思います。私たちは今、新約聖書の時代に生きている。つまりイエス様を知っているんですね。イエス様と出会ったんです。そしてこの方にある救いを経験したんです。この方の命によって生かされているんです。

ですから彼の詩篇16篇のこの歌は、私たちの歌ですね。私たちの心からの告白です。ダビデはこれから先のこととして、預言として歌いましたけれども、この歌はもう私たちにとって、私たちの体験なんですね。私たちは詩編16編の著者のように、私の心は喜んでいますと、心から告白することができる、賛美することができる、そのような恵みに生かされているということを私たちは忘れずに、ここに覚え続けたいという風に思います。

2.復活の証人

さてその恵みを、ペテロをはじめとする弟子たちも、噛み締めていたんだなということが 次の言葉を読むと分かります。32節の言葉であります。

このイエスを神は蘇らせました。私たちは、みなそのことの証人です。

私たちは、みなそのことの証人ですという風に、ここで告白をしました。「その事」っていうのはもちろん神様がイエス様を蘇らせてくださったということですね。復活の事実です。そのことの証人です。つまり彼らは、私たちはイエスキリストの復活の証人ですと、ここで告白していることが分かる。

「証人」て何でしょうか?「証人」というのは、その事実を見て、体験して、知ってる人のことですね。

私は裁判の席で証人尋問されたことはありませんけれども、証人は事実を見て体験して知っているからこそ表現することができますね。証人になることができます。

弟子たちは、復活されたイエス様にお会いしました。一度死なれたイエス様が、墓を打ち破って、三日目に蘇ってくださったということを、ちゃんと経験しました。目撃しました。その事実を知っています。そしてイエス様は今もなお生きているということを知っている。ですから彼らは間違いなくイエスキリストの復活の証人です。復活の証人とされたということがわかります。

でももっと大事なことがあるんですね。それは御霊なる神様が、真理を弟子たちに示してくださったということなんです。ペテロが33節で語っていますけれども、復活されたイエス様は、その後天に昇り神の右にあげられて、そこから約束の聖霊を弟子たちに注いでくださいました。その聖霊の説き明かしによって、弟子たちの目が開かれ、イエスキリストをはっきりと知ることができたんです。イエス様が弟子たちにはっきりとこのように教えていました。ヨハネの福音書16章13節でこのように教えていた。

真理の御霊が来ると、あなた方を全ての真理に導いて下さいます。

そのように教えて下さっていました。真理の御霊がやがてやってきます。御霊というのは真理の御霊です。真理の御霊がやがてやってくる。その真理の御霊がやってくると、その御霊があなた方を真理に導くと、そういう風に教えて下さった。その言葉の通りに、ペテロは、わわかったんですね、真理が。旧約聖書が何を伝えているかがわかったんです。ダビデが何を歌っているか、その意味がわかった。それはイエスキリストを指し示しているということがわかった。ダビデの預言の成就として、イエス様が来られたということ、そしてこの世においてイエスキリストは神のみわざをたくさん成し遂げてくださったということ、そして十字架にかかって死んでくださったということ、復活されたということ、そして天に帰って、そして神の右の座について、そこから聖霊を弟子たちに送ってくださったこと、それが全部神様のご計画の中にあった、それが全部自分たちのためであったということが、もう鮮やかに示されていた。真理が示されたんですね。イエスキリストという人が本当にわかった。

ここで語っているペテロ自身が、一番驚いていたんじゃないかと想像するんですね。ペテロは、いつもイエス様と一緒でしたね。イエス様と一緒に行動して、イエス様から教えられて、イエス様から訓練を頂いて、すぐそばでイエス様のことを見ていたのに、でも全然イエス様のことが理解できていませんでした。イエス様が十字架にかかった時も、本当にがっかりして、失望して、何でこうなってしまったのか?その意味も分からない。そういう中でずっと歩んできた。イエス様とともに歩んでいるからといってイエス様のこと全部わかってるとは限らないですよね。

私達もそうだと思います。やはりそこで聖霊が与えられて、聖霊によって解き明かされる時に、私達は本当に聖書がわかる。そしてその聖書がわかることによって、本当にイエス様がわかる。その結果、私たちもキリストの証人とされていくんではないでしょうか。

彼らもそのようにして、聖霊の導きの中でキリストの証人とされて、そしてあのペテロが、人々の前から隠れていていた臆病なペテロが、大胆に人々の前で語り始めた。キリストをあかしする者に変えられた 。イエス様の預言した通りになったなという風に思いますね。

使徒の働きの1章8節で、

聖霊があなたがたの上に望むとき、あなたがたは力を受けます。そしてエルサレムユダヤとサマリヤの全土さらに地の果てまで私の証人となります。

イエス様が約束してくださった通りになったことを私たちはここで確認することができます。

3.証人になる力

キリストの証人となるために私たちに必要なものは何でしょうか。今日の聖書の箇所からそれは聖書の理解であるということを私たちは教えられるんではないでしょうか。しかもそれは自分の頭で理解したものではなくて、聖霊によって解き明かされた聖書の理解であるということ。聖書の全体像が、聖霊によって私たちに解き明かされる時に、私達は本当に神様のメッセージがよくわかる。イエスキリストという方が、どういう方であるかがよくわかる。そしてそのことによって力を受け、知恵を頂いて、復活の証人とされていくということを、私たちは今日の箇所を通して教えられるんではないでしょうか。

つまり福音を証しする力って、福音そのものの中にあるって言うことです。私たちの中にはないですね。私たちは自分の力でキリストを証することはできません。いろいろ私たちも頑張ります。証したいなと思って頑張ります。でも頑張って作り出した言葉って、人を感動させないような気がしますね。人の心に響いていかないような感じがします。方法論や技術でもないと思います。私たちの振る舞いとか、魔法とか、仕草とか、若干そういうことが参考になることもあるかもしれませんけれども、そのような人間の技術や方法によって福音が人々に伝わるわけではないと思いますね。何を語るべきかは、聖霊が教えてくださると聖書は教えています。福音を証する知恵も力も全て、聖霊から来るんです。聖霊によって私たちに御言葉が解き明かされ、その御言葉が私たちにはっきりと示された時に、私たちは力を受ける、知恵をいただく、そのような力をいただいて私たちも証し人にされていくんではないでしょうか。キリストの証人となることができるんではないでしょうか。

この人を見てください。この人が私を救って下さいました。この人が私の罪を許してくださいました。この人が私の命を贖ってくださいました。と、心から告白できるものに変えられていくんではないでしょうか。それは全て聖霊が与える力であるということを私たちは今日覚えたいという風に思いますね。もしそうでなければ、私たちの証は全く効果的ではないと思いますね。聖霊が働かれるからこそ、キリストが私たちを通して証されて、御言葉が伝わり、人々の人生が変えられていくということを心に留めたいと思います。

どうか私たちがキリストを証しする際に、人間の力により頼んでしまうことがないように、技術や方法論のようなそういう人間的なものに必要以上により頼んでしまうことがないように、私たちは注意したいと思います。むしろ私達は、みことばそのものに向き合っていきたいなと思うんですね。御言葉を学びたいと思います。特に聖霊が御言葉を的確に私たちに示してくださるように祈りながら、祈りつつ、御言葉の学びに励んでいきたいなと思うんです。そして祈りたいと思います。どうか神様が私たちを復活の証人として下さいますように。私たちの言葉と歩みを通して、キリストがはっきりと証されますように。聖書と聖霊の導きの中で、私たちがキリストを証する証人となることができるように、私たちはますます祈ろうではありませんか。祈りつつ聖書に向き合っていこうではありませんか。神様が、御霊が解き明かしてくださる。聖霊が、みことばの解き明かしをしてくださる、そのメッセージに期待していこうではありませんか。そのような主の導きの中で、私達も主を証しするものに変えられていきたいと思います。

 

お祈りをしましょう。愛する神様。御名を賛美いたします。主が復活をされて、そして天に帰られて、その後で私達に聖霊をくださっています。私たち一人ひとりに聖霊が与えられているめぐみ覚えてありがとうございます。どうかあなたに期待して祈っていきます。

私たちもどうかあなたの証人として、置かれた場所で主を証することができますように。

私たち の内側には、その力がありません。智恵もありません。しかしあなたが私たちを導いてくださること覚えてありがとうございます。この一週間が始まって行きます。その歩みの中で、一つ一つの場面の中で、私達が御言葉により頼み、主に信頼し祈っていくことができるように励ましてください。与えられた御言葉をありがとうございます。尊い主イエス・キリストの御名によってお祈りをいたします 。

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