イエス・キリストをより良く知るために

いつくしみ深きイエス

 
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若井 和生師
若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。

マタイの福音書9章32~36節

その人たちが出て行くと、見よ、人々はイエスのもとに、悪霊につかれて口のきけない人を連れて来た。
悪霊が追い出されると、口のきけない人がものを言うようになった。群衆は驚いて、「こんなことはイスラエルで、いまだかつて起こったことがない」と言った。
しかし、パリサイ人たちは、「彼は悪霊どものかしらによって悪霊どもを追い出しているのだ」と言った。
 それからイエスは、すべての町や村を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいを癒やされた。
また、群衆を見て深くあわれまれた。彼らが羊飼いのいない羊の群れのように、弱り果てて倒れていたからである。     聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

マタイの福音書には、イエス様に関するたくさんの出来事が記してありますけれども、それを時系列ではなくて、マタイなりの視点で編集して書き記している、ということに私たちは気づかされると思います。マタイ5章6章7章は、山上の説教・山上の垂訓と呼ばれる有名な聖書の箇所ですけれども、そこはひたすら「イエス様の教え」について集中的に記されている箇所ということになります。「心の貧しい者は幸いです」という御言葉から始まり、「あなたの敵を愛しなさい」「まず神の国と神の義を求めなさい」、「さばいてはいけません」、「求めなさい。そうすれば与えられます」といろいろな、そしてたくさんの教えがそこに集中的に教えられているのが5章6章7章ということになります。そしてこれらの章にはイエス様によってなされた「御業(みわざ)」については、ひとつも出てきません。ひたすら教えということになっていると思います。その後の8章と9章、今、私たちは順番に学んできてるわけですけれども、この箇所でマタイは、イエス様によってなされた御業について書き記しております。病気の人を癒したり、悪霊に取り憑かれた人から悪霊を追い出したり、罪人の罪を許して友達になったり、死人を蘇らせたり、当時の苦しむ人々に対してなされた御業についてマタイは、まとめてここに書き記しているということであります。マタイはマタイなりに編集してイエス様の生涯を私たちに紹介してくれているということに気づかされると思います。

1.すべての町や村を巡って

今日の箇所はこれまでの内容の「まとめ」がなされている箇所であります。これら一連の出来事の「まとめ」として、マタイは何を私たちのために書き留めてくれたでしょうか?今日のみ言葉に、私たちに注目をしていきたいと思います。イエス様は各地で色々な神の御業をなされました。そしてその結果何が起こってきたでしょうか?

人々の間に二つの反応が引き起こされたということがわかります。一方にイエス様の御業を喜んで受け入れた人々がおりました。でもその一方に、イエス様の御業を見て反発を覚えた人々もおりました。これら二つの反応が人々の間に引き起こされてきたということがわかります。

今日の与えられている聖書の箇所におきましては、イエス様は悪霊に憑かれて口のきけない人から悪霊を追い出すという御業をなさいました。人々がイエス様のもとに、この時、悪霊に憑かれて口のきけない人を連れてまいりました。イエス様はその人を見て、その人から悪霊を追い出してくださいました。その結果口のきけない人が物を言い始め、そこにいた群衆たちが驚いたと33節に記されてあります。そして彼らは言いました。

こんなことはイスラエルでいまだかつて起こったことがない。

このように語って、イエス様の御業に驚き、そしてイエス様の御業を喜んで受け止めた、そういう人たちがたくさんいたということがわかります。しかしその一方で、パリサイ人たちもそこにいまして、イエス様の御業を見ていましたけれども、パリサイ人たちはこのように語ったと34節に記されてあります。

彼は悪霊どもの頭によって、悪霊どもを追い出しているのだ。

このように語って、彼らはイエス様に対する不満を口にしているということがわかります。イエス様はもちろん悪霊によって悪霊を追い出したわけではありません。神の力によって悪霊を追い出しました。神の力がそこに働いた結果として悪霊は出ていきました。でもパリサイ人たちはそれを認めたくないということが分かるんですね。どんなに素晴らしい神様の御業がそこでなされても、不信仰な人はそれを認めません。認めたくないからです。

私たちもそういう反応に出会うことがあると思います。どんなに素晴らしい福音を伝えても、あるいはそこでどんなに素晴らしい神の御業がなされても、信じない人は全く信じません。信じたくないんですね。心が開かれない限り人は、神を知ることはできません。そんな反応に私たちも出会うことが度々あるかなと思います。でもイエス様も同じだったんですね。イエス様もそのような反応に出会われたということであります。そんな人々からの反発も受けましたけれども、それでイエス様の伝道に対する情熱は衰えてしまったでしょうか。そうではなかったということが分かるんですね。そんな人々からの反発を受けながらも、そこでイエス様の働きが止まってしまうということはありませんでした。弱められることもなかったんですね。むしろさらに活発になされていたということが、35節でわかることであります。35節を読んでみます。

それからイエスは、全ての町や村を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆる患いを癒された。

このようにイエス様は全ての町や村を巡って福音を伝えられたと、ここに記されてあります。会堂で教えて御国を宣べ伝えたり、あらゆる病気や患いを癒されたりしたと、ここに記されてあります。「全ての町や村を巡った」と、こに書いてあります。イエス様、ただでさえ忙しいうえに、イエス様のところに次々といろんな人が押しかけてきたと思います。相当にお疲れだったんではないかなと思いますけれども、でもそれでもイエス様は、更に色々な街や村を巡って歩いて、そして福音を人々に伝えようとされたということがわかります。

全ての人々に福音を伝えようとしておられる、イエス様の強い思いが伝わってくるのではないでしょうか。新約聖書第一テモテ2章4節に、

神は、すべての人が救われて、真理を知るようになることを望んでおられます。

という言葉が記されてあります。神様はすべての人が救われることを願っておられます。全ての人が真理を知るようになることを望んでおられます。それが主の御心です。私たちはこの主の御心、イエス様の思い、というものを受け止めて、全ての人々に福音が伝わりますように祈り励んでいくものでありたいと思います。教会が、ここに60年後立ち続けてきたということ、そしてこの教会を中心に本当に飯能の各地あるいはこの地域色々な地域に福音が伝えられてきたということは、本当に素晴らしいことではないかなと思います。その結果と言っていいでしょうか、本当に皆さんいろんなところから、各地から教会に駆けつけてくださっているということを思いますけれども、本当にこの教会を通してすべての町・村に、地域に、すべての人々に福音が伝わるように、わたしたちは励んでいく、祈っていく必要があるんではないかなと思います。そのような教会としてこれからも共に祈りあっていけたら幸いだと思っております。

2.イエスのこころ

それにしてもイエス様の情熱って本当にすごいなと思いますね。何故イエス様はこれほどまでに熱心に、福音を伝えようとしたのでしょうか?その動機って一体どこにあったのでしょう。その動機はイエス様の「憐れみの心」にあったということを、私たちは次の36節の御言葉を通して教えられるのではないでしょうか。36節をお読みいたします。

また、群衆を見て深く憐れまれた。彼らが羊飼いのいない羊の群れのように、弱り果てて倒れていたからである。

と、このように記されてあります。「イエス様は群衆を見て深く憐れまれた」と書いてあります。そこに主の憐れみがあったということであります。深く憐れまれたと訳されているギリシャ語の言葉がありますけれども、この言葉の元々の意味は、「内臓」という意味ですね。体の中にある「内臓」です。これが元になってできている言葉ですけれども、そしてこの言葉は「はらわた」がちぎれるような痛みを表している言葉であると解説されております。そして新約聖書読んでると、この言葉が時々出てくるんですね。ルカの福音書10章の「良きサマリア人の話」、皆さんよくご存知かなと思います。強盗に襲われて半殺しにされてしまった人を、通りがかりの一人のサマリア人が見つけます。そしてサマリア人はその男を見つけて「可哀想に思った」とそこに書いてあるんですね。この可哀想に思ったと訳されている言葉が、ここに出てくる「深く憐れまれた」という言葉と同じ言葉です。また放蕩息子の話も皆さんよくご存知だと思います。ルカの福音書15章に財産を使い果たしてボロボロになって息子が帰ってきました。その時、父親は遠くから彼を見つけて、やはりそこにも「可哀想に思った」と記されてあります。この言葉も同じ言葉が使われております。

この「可哀想に思った」とか「深く憐れまれた」と訳されているこの言葉は、神が人間に対してそそがれる哀れみを表している言葉として、聖書で記されている言葉であります。

それは自分の「はらわた」がちぎれるような激しい想いであるということです。つまりイエス様は、この時群衆を見て、その群衆が苦しんでいる姿を見て、心を痛められ、なんと自分の痛みとしてそれを受け止めてくださったということであります。

人間も可哀想に思うことあるかもしれませんけど、人間の同情とは全く違うレベルの憐れみがここに示されているということを、私たち心に留めたいと思います。

「イエス様が深く憐れまれた」と書いてるんですけど、群衆のどのような姿を見て、どのような状態を見て、このような気持ちなられたんでしょうか?

ここに「羊飼いのいない羊の群れのように、弱り果てて倒れている彼らの姿を見て」そのように思われたということが記されてあります。群衆を見ておられたイエス様、そしてイエス様には群衆の姿が、「羊飼いのいない羊の群れのよう」に見えておられたということがわかります。羊飼いのいない羊の群れほど哀れな集団はないのではないかなと思います。羊は目がよく見えないために、先を見通せないと言われております。ですからすぐ迷子になってしまうんですね。ですから仮にそこに群れがあったとしても、すぐみんなバラバラになったと思います。そして羊は一度躓いて倒れてしまうと、自分では起き上がることができません。羊飼いがいないということは、倒れた時に、立ち上げてくれる人が誰もいないってことですね。「そのまんま」っということです。そして凶暴なオオカミの餌食にすぐにされてしまうんではないでしょうか。そんな羊たちのように、「彼らは弱り果てて倒れていた」とここに記されてあります。そのような姿を見ているイエス様は深く憐れまれたということなんですが、でもそもそも何で彼らはこのような状態になってしまったんでしょうか?何でこの羊たちはこのように疲れ果てて倒れてしまったでしょうか?イザヤ書53章6節にこのように記されてあります。

私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った。

これ私たち人間の姿ですね。私たちは皆羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行ったと、そこに記されている。彼らが弱り果てて倒れていた原因は、彼らがそれぞれ自分勝手な道に向かって行ったからです。自分勝手に神に背き、神に反逆し、神に敵対したからです。つまり自分自身で招いてしまった結果だったということであります。

私たちは、どんなに苦しくても、惨めだったとしても、自分自身の正しさを信じることができているうちは、何とか忍耐することができると思いますね。なんとか持ちこたえることができると思います。しかしその苦しみはが、惨めさの原因が、自分自身にある時、自分の弱さや愚かさの故にそのような結果を自ら招いてしまった時には、もう私達はもちこたえられないと思います。それこそ本当に弱り果てて倒れてしまうと思います。そしてその悩みというのは非常に深いと思います。そして一番の悲惨は、そのような私たちが、神のみ怒りを受けるべき者たちであるということだと思います。

先ほどの詩篇119編の御言葉を読んでいた時、最後に「私は滅びる羊のようにさまよっています」ってことがありましたけど、まさに私たちは滅びるだけの存在だったんですよね。勝手に神に反逆をし、神に背いて神に敵対するものとなって、そしてさまよって、滅ぼされるだけの存在です。神のみ怒りを受けるべき存在です。

ところがそんな私たちを見て、イエス 様が深く憐れまれたと、ここに記されてある。

私たちが神に背き、神に反逆して敵対し、自分勝手にそうしてるのに、全部それは自分自身が招いたものだったのに、そんな私たちを見て、神様が深く憐れんでくださった。その悩みを「自分の悩みとして」心を痛めてくださったというのは、もう驚くべきことではないかなと思いますね。本当に信じられない愛だと思います。そのような大きな愛がここに示されているのではないでしょうか。そのようにして、主が深く私たちを憐れんで下さり、私たちのために十字架にかかってくださったというのは、もう驚くべきことではないかなと思いますね。本当に信じられない愛だと思います。私たちのために十字架にかかってくださったからこそ今私たちは救われて神の子供とされた、その恵みを私たちも与えられているということを深く心に留めるものでありたいと思います。

イエス様の素晴らしい教えと、そして素晴らしい御技の数々がずっと記されていて、私たち順番に学んできましたけども、そのイエス様の教えと御業の大元には、このようなイエス様の心があったということであります。そのこと私たち覚えたいと思います。

3.宣教に必要なもの

イエスキリストを信じれば、私たちの抱えている問題は解決しますと、私たちは何かそういうサクセスストーリーを求めてしまう傾向があるんではないかなと思うんですね。そしてそれが福音であるかのように思っている時もあるかなと思います。でもそのようなメッセージは、本当に苦しんでいる人々の心には響かないのではないだろうかと思うことがあります。東日本大震災の時に、被災の現場に行って、家族を失った方や家や仕事を失った方々と向き合った時に、「神様を信じればきっと良くなりますよ」となかなか言えませんでしたね。そういうことはとても言えないなと思いました。福島でも故郷を失った人たちがたくさんいますね。帰りたくても帰れないという人たちがたくさんいます。そしてあれから10年経ってますけれども、未だに失ったものの大きさに苦しんでいる人たちがたくさんいますね。そういう人たちを前にして、「イエス様を信じれば、状況が良くなりますよ」と、なかなか言いづらい、そういうことがあるんではないかなと思います。

苦しんでいる時、祈っている時に、主がすぐに答えを与えてくださる時もあります。そのようにして主が、私たちに答えを示してくださる時もあります。

でも祈っても祈っても、なかなか聞かれない、なかなか道が開かれない、苦しみが解決されない、っていう、そういう時もあるかなと思うんですよね。

そうなってしまうと、私たちはだんだん信仰が弱くなってしまうんでしょうか?祈りを聞いてくださらないということで、だんだんイエス様が信じられなくなってしまうんでしょうか?時々私たちそういう反応を取ってしまうことがあるかなと思うんですね。何か問題が起こると、私達はすぐに解決を求める傾向があると思います。そしてその解決が与えられないと、段々信仰が弱ってしまうということがあるかなと思いますね。

でもそんな時に、私たちに必要な経験って何でしょうか?それはそこでイエス様と出会うという経験ではないかなと思います。悩み苦しみもがいているその時に、そんな私に目を留めて、共に悩み苦しんでおられる方がいるということ、そのことを知るということ、その方と出会うという経験が私たちに求められているんではないでしょうか。

その時に本当にこの世では経験することのできない、イエス様だけが与えてくださる慰めと平安を私たちは頂いて、何か状況が変わった訳じゃないかもしれません。でもしかすると、もしかしたら、何も変わってないかもしれないけど、でもそこに主が共にいてくださる恵みを私たちは教えられるんではないでしょうか。そのような経験を私達、もし与えられたとしたならば、ますますイエス様が大好きになり、ますます家様に信頼する者に変えられて行くんではないでしょうか。もしかしたら私たちに必要なのはそういう経験ではないかなと思いますね。そのような恵みに私たちは導かれていくんではないでしょうか。是非そのような恵みと出会うものでありたいと思います。

 

今の時代、本当に殺伐とした時代になってきました。コロナのこの2年間でも、本当にいろんなところに、いろんな問題が起きてきている。そしてその中に私達も歩んでいる者だと思いますけれども、今私たちの周りにいる人々を、私たちはどんな思いで見ているだろうかということも考えたいなと思います。私たちには今の時代の人々の姿はどのように見えているでしょうか ?おそらく今も変わらずに、羊飼いのいない羊の群れのようではないでしょうか。羊飼いのいない羊の群れのように、私たちの周りにいる人々も弱り果てて倒れているのではないでしょうか。そのような人々を見て、私たちはどう反応しているでしょうか。あの人たちは自業自得だ、自分で勝手に愚かなことをして、勝手に苦しんでると、そうやって切り離して考えてしまうような傾向も今、社会にはあると思いますね。非常に冷たいそういう反応も、今世の中にはあるかなと思います。けれども本当にそれでいいんだろうかと思いますね。イエス様はそうではありませんでしたね。イエス様はそこで本当に深く憐れまれた。本当に自分の痛みとしてその痛みを担ってくださった。私たちにも、そのようなキリストの心が求められているのではないでしょうか。人々の抱えている想いや悩みを理解し、自らの痛みとして受け止めていく、そのような主の心が私たちにも求められているのではないでしょうか。

伝道で大事なのは、技術や方法だけではないと思います。もちろん聖書をよく知っているってことは大事ですね。そしてその御言葉を的確に伝えることができる、その方法も大事だと思います。でも何よりも大事なのは、私たちが果たしてこの主の心を持っているかどうか?私たちはイエス様の心が養われているかどうか?私たちの内にそのような思いが与えられているかどうかということ、そのことがもっと大事ではないでしょうか。是非私たちは主との深い交わりの中で、そのような心を養っていただきたいなと思います。私たちの悩み、苦しみの時に、そこにおられる主を知る者となろうではありませんか。まさにその苦しんでいるその時、主が私たちに目を注ぎ、深く憐れんでくださっているという、その主との出会いを私たちは、もっともっと経験していきたいと思うんですね。そこで与えられる慰めと平安を本当に与えられていきたいと思います。どんな時にも主が私たちと共にいてくださる、その恵みを続けて味わっていくものでありたいと思います。

 

お祈りをいたします。愛する神様。み言葉をありがとうございます。本当に主が共にいてくださるということいつも口で告白しながら、実際にはそのように歩んでいないようなことも多い私達であることをお許しください。主が共におられると約束してくださっているにも関わらず、主を置いて自分で歩いてしまうことの多い私たちを許しください。私たちの抱えている色々な悩み、課題、不安、それをみんな主はご存知です。そして私たちのために心を痛めておられることを覚えて感謝します。どうぞその時に、あなたと親しく語り合い、あなたから与えられる慰めの言葉によって、本当に私たちが平安を頂いて、主と共に歩む幸いな日々へと導いて下さいますようにお願い致します。ここにおられる一人一人の歩みの中に色々な課題があると思いますが、どうか主が伴って、あなたが共にいることの恵みを味あわせてくださいますようにお願い致します。御言葉を感謝し尊い主の御名によってお祈りをいたします 。

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