もう一度、言わせてください。
創世記18章16~33節
この箇所より「もう一度言わせてください」という題で、説教をしたいと思います。
1.神の友、アブラハム
今読みました箇所の中で、18章17節の言葉はとても興味深い言葉だなと思いました。
読んでみます。
ここで神様は、「自分がしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか」と、ご自分で考え、自問自答しておられることがわかります。このような言葉は、聖書の中でもとても珍しい言葉ではないかなと思います。神様の言葉は、命令の言葉であっても指示や励ましの言葉であっても、ほとんどは「言い切り」の言葉であると思います。このように神様が自らに問いかけ、試行錯誤しておられる言葉というのは、聖書の中にもあまりないのではないだろうかと思います。
本来は、アブラハムにも話さずに隠しておくべき神様のご計画だったのだと思います。しかしその隠しておくべき主のご計画を、神様がアブラハムに知らせたくなったのは、一体どうしてだったんでしょうか?
それは、アブラハムが神様を心から歓迎し、さらに見送りにまでついてきたからだと思います。16 節に、
と書かれてあります。先週は、神様と二人の御使いが、アブラハムのところに訪ねてこられたという、そういう箇所を学びました。アブラハムは、大歓迎して心からおもてなしをしました。そしてその時に、素晴らしい知らせを頂きました。来年の今頃、妻サラに男の子が与えられるという素晴らしい知らせを、この時いただきました。アブラハムにとっては本当に楽しく、感謝なひとときだったんではなかったでしょうか。そしてその3人が今帰ろうとしておられます。次の目的地に向かおうとされています。ところがアブラハムは彼らについて行くんですね。彼らと一緒に行きました。いつまでも別れようとしないんです。とても別れ惜しかったんだろうなという風に思います。
そんなアブラハムを見て、そんなアブラハムだからこそ、神様は思わず心の内にあるご計画をアブラハムに知らせたくなったのではないでしょうか。ご自分に対して、これだけ心を寄せ信頼してくれているアブラハムを見て、今ここで神様がご自分の心をアブラハムに開こうとしておられる。両者が非常に深い信頼関係で結ばれているということに、私たちは気づかされるんではないかと思います。詩篇145篇18節にこのような言葉が記されてあります。
主に心を注ぎ出して呼び求める者全てに、主は近くあられると、聖書は私たちに教えています。私たちは神様と共に過ごす時間を、どれだけ楽しんでいるでしょうか?そして主と語り合う時間を、どれだけかけがえのない時として喜んでいるでしょうか?そのような親しい交わりの中で、神様が私たちに、御心を示してくださるということがあるんではないでしょうか。祈りの、交わりの深まりの中で、神様もそれまで隠されていた、ご計画の一端を私たちに示し導いて下さるということがあるんではないでしょうか。私たちも心を注ぎ出して主のみ前に祈るものでありたいと思います。
その後神様がアブラハムを選び出された目的がもう一度ここで示されていることがわかります。18節と19節をお読みいたします。
アブラハムは必ず、強く大いなる国民となり、地のすべての国民は彼によって祝福される。
私がアブラハムを選び出したのは、彼がその子供達と後の家族に命じて、彼らが主の道を守り、正義と公正を行うようになるためであり、それによって主がアブラハムについて約束したことを彼の上に成就するためだ。
ここに、アブラハムが神様に選ばれた目的が、もう一度示されていることがわかります。なぜ主はアブラハムのことを選び出されたんでしょうか。それはアブラハムとアブラハムの子孫を通して、地上のすべての国民が祝福されるためである、ということがわかります。そのために神様はアブラハムの子孫を祝福し、強く大いなる国民として下さいました。そのためにアブラハムが選ばれたその目的が、ここでもう一度明らかにされているということに私たちは気づかされる。私たちも実は信仰によってアブラハムの子孫となりました。その結果、今教会という神の家族に加えられています。
教会の存在の目的って何でしょうか?それはこの地上に神様の祝福をもたらすことであるということを、もう一度覚えたいと思います。
この地上に神様の祝福をもたらすこと、すべての国民が教会によって神様の祝福を受けること、そのための私達の教会形成であるということを、私たちは覚えていきたいと思います。
2.アブラハムの必死のとりなし
そしてさらにしてはアブラハムにご自分のご計画を示しておられることがわかる。それはどんなご計画だったでしょうか。それはソドムとゴモラに関する主のご計画であったということが分かるんですね。20節を読みいたします。
ここで神様と二人の御使いが、ソドムとゴモラに向かっていくその理由が明らかにされました。それはソドムとゴモラという町が、本当に滅ぼし潰されるべきかどうかを見て、確かめるためであったことがここで語られています。ソドムとゴモラの罪は極めて重いということがここに記されてあります。それらは罪と悪に満ちた、邪悪で退廃した町でありました。この町を滅ぼそうとしておられる神様のご計画が、ここにアブラハムに示されたということが分かる。そしてそのために主と二人の御使いはソドムの方に向かって行かれたという風に書かれてあります。
ところが22節で、アブラハムはまだ主の前に立っていたと記されている。まだそこにいるんですね。三人が、次の目的地に向かうと、進んで行こうとしておられるのに、まだアブラハムは去らないどころか、まだ主の前に立っていた。「主の前に立つ」という言葉は、とても大事な言葉です。それはアブラハムが真剣に、神様と向き合っていたということを表している言葉だからです。アブラハムは、この時、単なるお見送りに来たのではないですね。この言葉を聞いて、全身全霊で神様と向き合っている、そのようなアブラハムの姿勢がここに記されている。そしてここから、アブラハムの必死のとりなしが始まっていくということを私たちは教えられることであります。
アブラハムはまず主に訴えた。このように訴えました。23節から読んでみます。
と、このように切々と訴えているアブラハムの言葉がここに記されてあります。どんなに罪に満ちたソドムの中にも、50人の正しいものがいるかもしれない。それでもその町をあなたは、本当に滅ぼし尽くされるのですか。その50人の正しいもののために、その町をお許しにならないのですかと、アブラハムは神様に向かって訴えています。それに対して神様は26節で答えます。
主は言われた。「もしソドムで、私が正しい者を50人、町の中に見つけたら、その人たちのゆえにその町の全てを赦そう。」
主がアブラハムの願いを、そのまま聞き取れてくださっているということがわかります。ところがアブラハムはそう祈っておいた上で、50人では少し不安になったということが分かるんです。続けてこのようにお願いしました。27節と28節、
このように50人の正しい人の中に、5人不足しているかもしれません。それでもあなたはソドムを滅ぼされるのでしょうかと、アブラハムは問いかけています。すると神様はそのアブラハムの願いを、そのまま聞き取れてくださり、もし45人の正しい人につけたらソドムを滅ぼしはしないと約束してくださった。
ところがアブラハムは40人でもまた不安になってきましてその後40人が30人になり、30人が20人になり、20人が10人になるまで、結局全部で6回もアブラハムは神様に繰り返し繰り返しお願いし続けている様子が、この後記されていることであります。
このアブラハムがお祈りするときの、その言葉にも注目したいと思いますけども、ある時はこういう風に言ってますね。「ご覧ください私はちりや灰に過ぎませんが、敢えて申し上げます」と前置きをした上で、お祈りをしています。またある時は「どうかお怒りにならないで下さい」と言った上で、お願いをしております。とても遠慮深げに、でもはっきりと大胆にアブラハムが主にお願いし続けているということが分かる。そして最後には、「我が主よ、どうかお怒りにならないでください。もう一度だけ私に言わせてください。」と粘りづよくお願いしているアブラハムの姿がここに記されています。
自分の小ささと、神様の偉大さの、その違いをアブラハムよくわきまえてますね。ですから非常に謙遜な祈りです。謙遜だけれどもでも大胆ですね。自分の身をわきまえた上で、神様の偉大さもちゃんと分かっている上で、でもそれでも自分の思いを正直にまっすぐに伝えている、そのようなアブラハムの姿がここに示されているのではないでしょうか。
アブラハムは何を根拠にこのようなお願いをしているのでしょうか。このような粘り強い大胆な祈りは、どうして生まれてきたんでしょうか。アブラハム自身の誠実さや正しさではないと思います。神様の公正さと哀れみ、神ご自身のご性質に訴える形で、アブラハムは繰り返し繰り返しお願いしてるということに気づかされるのではないでしょうか。
アブラハムは言うんですね。「ねあなたは、本当に正しい者、悪い者と共に滅ぼし尽くされるのですか。正しい者を、悪い者と共に殺し、そのため正しいものと悪いものが同じようになるということを、あなたがなさることは絶対にありません。そんなことは絶対にありえないことです。」と、神様に向かって絶対という言葉を2回も繰り返し語っていることがわかる。アブラハムが、神様のことをよく知っていたということがわかります。アブラハムは神様が公正な方であるということを、よく知っているんですね。その神様のご性質を確信していたこと、それ故にこのような大胆なお願いが生まれてきているということに私たちは気づかされます。同時にアブラハムは神様が憐れみ深い方であるということも知っていました。そしてその憐れみにすがっているということにも気づかされる。50人の正しいものに5人不足しているかもしれません。その5人のためにあなたは町の全てを滅ぼされるのでしょうかと、28節でアブラハムはお願いしていますけれども、明らかにアブラハムはソドムの町の救いのために祈っています。ソドムは確かに悪と不正に満ちた街で、その事実は変わらないんですけれども、でもその神様の豊かな哀れみをもって、ソドムの罪を許してくださいと、ここでアブラハムは祈っているのではないでしょうか。アブラハムの祈りは、神ご自身をよく知っている者の祈りであるということがわかります。
私たちはどれだけ神様のことを知っているでしょうか。私たちの神様が、公正な方であり、同時にあわれみ深い方であるということを、私たちはどれだけ知っているでしょうか。
神様は、公正な裁きをなされる方です。でも今でも一人でも多くの人が悔い改めるのを待っておられる憐れみ深い方であります。
この世は様々な不定と邪悪で満ちています。本当にこの世には様々な矛盾があります。その中で苦しんでいる人がたくさんいま。なぜ主は、それを黙って見ておられるのでしょうか。なぜ主の裁きは行われないのでしょうか。そんな気持ちになることが、私たちにもあるんじゃないかなと思いますね。
それは、今も主が、待っているからではないでしょうかね。一人でも多くの人が悔い改めて自分の元に帰ってくることを待っておられる。そこに主のあわれみがあるんではないかと思います。そのような神様のご性質を私たちはどれだけ知っているでしょうか。そのような主を覚えながら、私達も粘り強く諦めないで、祈り続けるものでありたいと思います。
それにしてもこの箇所を全部読んでみてですね、何というアブラハムのソドムに対する愛情ではないかと思いますね。もちろんその町の中に住んでいるロトと、その家族のことが特別に意識されているわけですが、でもそれだけではなくて、アブラハムはソドムの町のために祈ってますね。 祈り続けているアブラハムの姿がここに記されている。
そしてそれ以上に私たちが驚かされるのは、神様がそんなアブラハムの祈りを全部そのまま聞き遂げてくださっているということであります。6回もお願いして全部その通りに聞き遂げてくださいました。一度も否定されていないんです。
アブラハムの訴えに対して、神様は、26節では「その町の全てを赦そう」とおっしゃって下さいました。28節では「いや滅ぼしはしない。もしそこに45人を見つけたら」と、お答えになられました。29節では「そうはしない。その40人のゆえに」と答えています。30節でも「そうはしない。もしそこに30人を見つけたら」と、アブラハムが願ったとおり答えてくださっています。そして31節の「滅ぼしはしない。その20人のゆえに。」最後に「滅ぼしはしない。その10人のゆえに。」6回とも、神様はアブラハムの願いをそのまま受け止めてくださって、アブラハムの願った通りにしてくださっているということに私たちは気づかされる。
この箇所から、わたしたちの神様って、なんて心の広い方なんだろうかという風に思いますね。そして本当に忍耐深く待っておられる方であるということを知られるんではないでしょうか。この聖書の箇所から、神様は、私たちの切なる祈りを必ず受け止めてくださる方であるということを、心に留めたいという風に思います。
3.ロトとその家族の救い
次の19章を読み進めていきますと、アブラハムの必死の執り成しの祈りにも関わらず、ソドムとゴモラは、天からの硫黄と火によって滅ぼされてしまうという結果になってしまうということがわかります。結局その町には、正しい人が10人もいなかったという結論になるんだと思いますが、でもロトとその家族は、奇跡的に助け出されました。ソドムに対する未練があったために、ロトの妻だけは、後ろを振り返ってしまって塩の柱になってしまったんですけれども、でもロトとその娘たちは奇跡的に救出されました。それはもちろん神様の御手がそこに働いてくださったからですが、しかしその背後にアブラハムのとりなしの祈りがあったからです。
出エジプト記の中で、モーセは金の子牛を作って偶像礼拝をしてしまったイスラエルの民の罪を、どうか許して下さいと神様に向かって祈ってる箇所があります。「もし叶わないなら、どうかあなたがお書きになった書物から、私の名を消し去ってください」とまで言って祈っているモーセの姿が、出エジプト記32章32節に書いてあるんですね。もう自分の名前が神様の書から取り消されてもいいから、どうかこのイスラエルの罪を許してくださいとひたすら祈っているモーセの姿がそこに記されてあります。あるいは、新約聖書の中でも、パウロは滅びゆくユダヤの民の救いを願って、「私は自分の兄弟たち、肉による自分の同胞のためなら、私自身がキリストから引き離されて、呪われたものとなっても良いとさえ思っています」と語って、ユダヤ民族の救いのために祈っている姿が、ローマの9章3節に記されてあります。どちらも自分が犠牲になってもいいから、とにかくこの愛するものを救ってほしいという切なる祈りであるということが分かる。
いつの時代の教会にも、変わらずに与えられている務めとは何でしょうか。それはとりなしの務めであるということを、私たち今日覚えたいと思います。主は滅びゆく魂のために、真剣にとりなす者の存在を求めておられるのではないでしょうか。そんな私たちの切なる祈りを、主は待っておられるのではないでしょうか。そしてそのような真剣な祈りを、主は必ず受け止めて、聞き遂げてくださるのではないでしょうか。
私たちは諦めずに祈り続けていきたいなと思います。私たちの愛する家族のために、友人の為に、同胞の救いのために、諦めずに祈り続けていきたいと思います。神様の真剣な祈りを主は必ず受け止めて聞き入れてくださるのではないでしょうか。私たちは諦めずに祈り続けていきたいなと思います。私たちの愛する家族のために、友人の為に、同胞の救いのために、諦めずに祈り続けていきたいと思います。神様の公正さと、そして憐れみ深さを覚えながら、その神様に切に求め続けていきたいと思います。アブラハムのように、主の前に立ち続ける者になろうではありませんか。そしてとりなしのつとめに励む者でありたいと思います。
お祈りをいたします。愛する神様。私たちに大切な務めが与えられていること教えてくださってありがとうございます。先に救われた者として、その恵みに安住することなく、この祝福をさらに次の人に届けることができますように。まだ救われていない、また罪の中に歩んでいる多くの私たちの愛する家族、友人、同胞たちのために、私たちが切に祈る者となりますように。あなたに信頼し、あなたに心を注ぎ出して祈ることができるように助けてください。どうかそのような祝福を、私たちに見せてくださるようにお願い致します。み言葉を心から感謝し、イエスキリストの御名によってお祈りをいたします。