イエス・キリストをより良く知るために

私の賛美はあなたからのもの

 
この記事を書いている人 - WRITER -
若井 和生師
若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。

詩篇22篇21~27節 聖書本文はこちら)

最近いのちのことば社から一冊の本が出版されましたが、「福島から福島への道」っていう本が出ました。最初の福島はカタカナの福島、2番目の福島は漢字で書かれておりますけれども、東日本大震災後、福島で歩んでこられた19人のクリスチャンの方々が当時を振り返って、またこの11年間を振り返って書き記された証言記録集です。私たちの教会にも奉仕に来てくださった木田先生もその中の一人になっておりますけれども、この本について書評を書いてくださいとクリスチャン新聞から頼まれまして、一生懸命読ませていただきました。2冊いただいたので後ろに置いときましたので、読みたい方はぜひ読んで頂ければと思います。福島の奥の方々は、地震や津波だけではなくて原発事故による放射能汚染の影響で被害にずっと苦しんできたということだと思います。多くの方々が傷つきながらも、懸命に生きてこられたと思います。それらの方々の非常に貴重な、尊い証言であると思わされました。苦しみと悩みの中から発せられた呻きの言葉がありました。人間の命を真剣に顧みない、国に対する厳しい告発の言葉もそこにはありました。そして非常に厳しい状況の中にあって、それでも多くの人々が助けに来てくださった、祈ってくださったという、そんなことの喜びと感謝の告白もありました。そんな1人1人の声を聞かせて頂きながら、今、私たちちょうど詩篇22篇を学んでいるところでしたので、この本も全体として詩篇22篇のような味わいがあるなという風に思いました。この本の全体が福島の方々の祈りであり、また賛美でもあると思わされたからであります。そしてこの本を通して思わされました。心からの賛美というものは、苦しみの中から生まれてくるということを教えられました。苦しみの深いところから発せられた祈りに、神様は必ず応えてくださること、それが私達にとっての大きな喜びなんだということを教えられる本だったなと思います。

1.あなたは私に答えてくださいました

今日の聖書の箇所は詩篇22篇の21節の2行目から始まりますけれども、ここから22篇の最後までですね、内容は全て讃美になります。そこには「呻きの言葉」「嘆きの言葉」は、ひとつも出てきません。今までの箇所では、悩み、苦しみを抱えるダビデの正直な告白が含まれていました。疲れ果て、弱り果てて、弱音を吐き出しているダビデの姿がそこには示されていました。ところが今日の21節以降、そのような記述は全く無く、ひたすら賛美が続きます。前半と比べると大変大きな変化です。なぜダビデの内にこのような賛美が生まれてきたのでしょうか?

21節の2行目このように記されてあります。

あなたは私に答えてくださいました。

これがダビデの賛美の原因です。詩篇22編後半の賛美のすべてが、この言葉から始まっています。つまり神様はダビデに応えて下さいました。この前の場面、先週学びましたけども、ダビデはひたすら祈っておりました。悩み苦しみの中で神様に声をあげました。「離れないでください。早く助けに来てください。救い出してください。救って下さい」と、切に神様に求め続けました。そのダビデの祈りに神様が応えてくださったということがわかります。

おそらく状況は全く変わっていなかったと思います。相変わらずダビデは、苦しみの中に置かれていたと思います。問題が取り除かれたわけではありませんでした。でも、それでも、その中にあって神様はダビデの祈りに耳を傾け、応えてくださった、そのことがダビデにはとても嬉しかったということであります。

どのように答えてくださったんでしょうか。それは24節の内容ということになると思います。24節をお読みいたします。

主は貧しい人の苦しみを蔑まず、厭わず、御顔を彼から隠すことなく、助けを叫び求めた時、聞いてくださった。

主なる神様は、貧しい人の苦しみを蔑みませんでした。この貧しい人とはダビデのことを表していると考えられます。ダビデが貧しかった時、一番惨めで落ち込んでいる時、自分でも自分の惨めさの中に苦しんでいる時に、神様はそんなダビデを「蔑みませんでした。厭うことがありませんでした」と、ここで告白されています。今、ダビデは、敵たちに囲まれています。そしてその敵たちは、ダビデを見て、散々蔑み、嘲り、馬鹿にしたと、今まで私たちは学んできました。ダビデは6節で、自分が「人の誹りの的、神の蔑みの的です」と、告白しておりますが、その時の苦しみを告白しております。自分が「いかに人々から誹られているか、蔑まれているか、その的になっているか」と、ここで告白していますけれども、とても惨めな状況でした。そして自分でもその惨めさの中で苦しんでいた。

ところがそんな惨めな時も、神様は共にいてくださったということ、ダビデの味方だったということ、それがダビデにはどんなに嬉しかったかっていうことを、ここで私達は感じさせられるのではないでしょうか。さらに神様は御顔をダビデから隠すことがありますせんでした。そしてダビデが助けを叫び求めた時に、聞いてくださったということが告白されています。ダビデの心の叫びを神様がちゃんと受け止めてくださったという、その確か確かな手応えをダビデは感じていたということであります 。

 

ダビデは最初、神様に見捨てられたと思いました。この詩篇22篇の最初の言葉は「わが神わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」っていうこの言葉から始まってますよね。ですからダビデはもう自分は完全に神様から見捨てられたと思ってたんですね。

そしてその中で、本当に叫んでいただけですけれども、でもそうではなかったんですね。ダビデは見捨てられていませんでした。なぜならばダビデが叫んだ時に、神様はちゃんと応えてくださったから。神様を遠くに感じていましたけれども、でもその神様は御顔を隠すことがなかったんですね。ずっと見守っておられました。その事を知った時に、それが本当に嬉しくて、ダビデの口に賛美が生まれているということがわかります。

私達も苦しみの時、悩みの時、そこで私たちが神様に向かって声をあげるとき、神様は私たちに答えてくださる方であるということを、私たちも覚えようではありませんか。

詩篇120篇1節で詩篇の著者はこのように語って、このように賛美しています。

苦しみのうちに私が主を呼び求めると、主は私に答えてくださった。

悩み苦しみの中にあっても、主が共におられるということ。御顔を隠すことがないということ、そして私たちの叫びを聞いてくださるということ、その方がおられるということ、その方との関係に生かされているということが、私たちにとっての幸せではないでしょうか。

そしてそれが私たちの賛美である。そこから賛美が生まれて来るって言う事を、私達は覚えるものでありたいと思います。

私たちの心からの賛美は苦しみの外から生まれるのではありません。苦しみのその只中から生まれてくるとということ、そのことを覚えたいと思います。そのようにして「あなたは私に答えてくださいました」と、喜び告白しているダビデ、これが本当に嬉しかったんですよね。主が答えてくださったっていうことが本当に嬉しかった。

2.会衆の中での私の賛美

そのダビデは次に何をしたでしょう。22節をお読みいたします。

私は、あなたの御名を兄弟たちに語り告げ、会衆の中であなたを賛美します。

このように告白しています。ダビデは次に神様の御名を兄弟たちに語り告げました。神様の素晴らしさを兄弟たちに語り聞かせたということであります。

ダビデの喜びがあまりに大きくて、自分の中だけでは収めきれなくなっていることがわかります。そして兄弟たちとともに、会衆の中で賛美を始めていることがわかります。私たちも嬉しい経験をした時にはそうなるんではないかなと思うんですね。本当に嬉しい経験をした時というのは、もうその喜びを自分の中で収めておくことができない、そういう気持ちになるんじゃないでしょうか。誰かにこの喜びを知ってほしい、そういう風になるんじゃないかなと思うんですよね。誰かに伝えたくなるのではないかと思います。この時のダビデもそうだったんですね。もうダビデも嬉しくて嬉しくて、そして神様の素晴らしさを兄弟たちに語りかけている。そして会衆の中で、一緒に賛美が始まっているという、賛美の広がりがここに生まれているということがわかります。つまり兄弟たちもダビデの呼びかけに応じたっていうことです。ここで「兄弟たち」と呼ばれる人々、その彼らがダビデの呼びかけに応えているって事は、ダビデに共感したってことですよね。この人たちもやっぱり神様の素晴らしさを知っているし、祈りが答えられることの嬉しさも知っている人々でありました。ですから彼らはすぐにダビデと一緒に賛美することができたんですね 。

ここにクリスチャンの交わりの素晴らしさが表されております。私たちはイエス様を信じる者同士、そしてイエス様を共有する者同士であります。その兄妹姉妹ですね。私たちも互いにイエス様の素晴らしさ、神様の素晴らしさを語り合うときに、互いに響きあえるんじゃないでしょうか。イエス様がこんなことをしてくださった、祈りに答えてくださったと聞くと、それで私達も一緒に賛美したくなるんじゃないでしょうか。それがクリスチャンの交わりの素晴らしさではないかなと思うんですよね。互いにひびき会える、そういう兄妹姉妹であることを感謝したいと思います。そしてその交わりを得て、私たちの喜びはさらに増幅されていくんじゃないかなと思うんですね。ダビデもそうでした。ダビデもここで会衆の中での賛美を経験し、交わりの恵みを得て、更にダビデの喜びが増幅されていくことが分かる。

 

次にダビデは何をしたでしょうか?まだ賛美の輪に加わっていない人々に対して呼びかけを始めたんですね。23節をお読みいたします。

主を恐れる人々よ、主を賛美せよ。ヤコブの全ての裔よ、主を崇めよ。イスラエルのすべての裔よ、主の前におののけ。

ダビデではさらに多くの人々に向かって呼びかけてるんですね。主を恐れる人々よ、ヤコブの全ての裔よ、イスラエルの全ての裔よと、参加を呼びかけて、そして主を賛美せよ、主をあがめよ、主の前におののけって、一緒に賛美しましょうという風にですね、呼びかけている。そういうダビデの姿がここに示されております。神様の素晴らしさを味わったダビデが、さらにその素晴らしさを多くの人々とともに共有しようとしている。そこに賛美の輪が広がっていく、広げられていく様子が示されていることが分かると思います。

そして25節でダビデは告白をしました。

大いなる会衆の中での私の賛美は、あなたからのものです。

このように告白をしております。ここで「大いなる会衆の中で」と語られているところがとても興味深くて、とても印象的だなと思いました。ダビデにとってこの一緒に賛美している兄弟たち仲間たちは、「大いなる会衆」だったんですね。普通の会衆じゃないんですね。

「大いなる会衆」なんです。英語の聖書でこの箇所を読むと「グレートアッセンブリー」って書いてありましたけれども、この人達はダビデにとって「グレートな人たち」なんですよね。グレートに感じられる人たち、ダビデがこの人たちをとても誇りに感じているのを感じますよね。そしてそんな彼らの中にあって彼らと一緒に賛美できていることが、本当に嬉しくて楽しいというダビデの気持ちが伝わってくる言葉ではないでしょうか。

さらにダビデは、神様のことを「あなた」と呼びかけております。「私の賛美はあなたからのものです」って語っている。つまりここでダビデは神様とお話をしてるんですよね。神様と直接お話をしているんです。「あなた」と呼んでいる神様とお話をしている。ダビデにとって神様は「あなた」と呼べる方なんですよね。非常に親しい個人的な関係の中に生かされている。親しい方として呼びかけている。「あなた」と呼べる方が神様だということ、その方との親しい交わりの中に生かされているということ自体が、ダビデにとっての喜びなんですね。そしてその喜びをみんなで一緒に共有できるそういう兄妹姉妹がいるということがさらに喜びなんですね。「讃美はあなたからのものです」と、ダビデはここに告白してる。も本当にその通りだったと思いますね。賛美とは、自分の中で作り出す歌ではないですよね。これは言うまでもないことですけども、賛美はカラオケではありません。元気がない時落ち込んでいる時自らを励ますために、あえて歌う歌でもないんですよね。自分の中から絞り出すようにして歌う歌でもないんですね。

賛美というのは神様から来ます。神様から与えられる歌です。私たちが神様に信頼し、神様の答えを頂き、神様の親しい関係に生かされていることを経験する中で、自ずと生まれてくるのが賛美であるということ、そしてさらにその喜びを与えられている兄妹姉妹との交わりの中でさらに豊かにされていくということ、それが賛美の祝福であるということを私たち覚えるものでありたいと思います。そのような賛美の恵みを私たちも体験していきたいと思います。

このコロナの2年ぐらいですね、私たちはなかなかみんなで一緒に賛美することができなくて、本当に寂しい思いをしてきたんじゃないかなと思うんですね。でも少しずつ気をつけながらではありますが、色んな配慮しながらではありますけれども、賛美できるようになってきていることを本当に感謝したいなと思います。

私たちは続けてですね、本当に主が共にいてくださる恵みを、私たち一人ひとりが体験し、そしてそれを皆さんと共有しながら、そこに響き合う兄妹姉妹がいるということを感謝しながら、みんなで喜び主を賛美していきたい、そのような賛美の溢れる教会として、これからも歩んでいけたら幸いだなという風に思っております。

3.世界中の人々への呼びかけ

ダビデの賛美は、続けて読んでいくと、今度は祈りに変わっているということがわかります。26節をお読みいたします。

どうか、貧しい人々が食べて満ち足り、主を求める人々が主を賛美しますように。 あなたがたの心がいつまでも生きるように。

今までも喜びに満たされて賛美していた、大いなる会衆の中で賛美ていたダビデがですね、ここにきて祈り始めているということが分かるんですよね。

それまで神様とお話をして、本当に神様を「あなた」と呼びかけている、その交わりに喜んでいたそのダビデの思いが、この時、貧しい人々に向けられているって事が分かるんですよね。そしてこの貧しい人々が、どうか満ち足りますように、そして主を求める人々が主を賛美しますようにと、そのような祈りに変えられているということがわかります。

ダビデも自分のことを「貧しい人」と呼んでいました。ダビデも実は貧しかったんですよね。貧しい人だったんです。24節でダビデは自分のことを、「貧しい人」とよんでいる。でもその貧しかったダビデが、神様の恵みによって満たされる経験をしました。そんなダビデなので、彼は貧しい人々に対して共感を覚えることができました。自分が与えられたような恵みを、この人たちにも味わってほしいと心から願うことができたんですよね。

苦しんだ人は、同じように苦しんでいる人と共感することができます。苦しんでいる時というのは、私たちは本当に苦しくてですね、早くこの苦しみが終わってほしいと願うんですけれども、でもその体験が実は同じように苦しんでいる人を助ける力になります。貧しさの中で満たされた経験を与えられた人は、同じように貧しい人たちのために祈ることができるんですね。そのようにしてダビデの心が、実は神様から養われているということに私たちは気づかされます。

私たちも苦しみの中、悩みの中で、実は神様によって養われているということ、そのような体験が必ず用いられていくんだって事を覚えるものでありたいと思います。そしてダビデの祈りはさらに広がっていくんですよね。広がりを見せるんです。27節を読みたいと思います

地の果ての全ての者が、思い起こし、主に帰ってきますように。国々のあらゆる部族も、あなたの御前にひれ伏しますように。

このように祈っております。ダビデは地の果ての全てのものが主に帰ってきますようにと祈ってます。ダビデの前に地平線が広がり、地平線の向こう側さらにもっと先にまでダビデの気持ちが広がっていくことを感じさせられます。そしてその地の果てにいる者が、思い起こして主のもとに帰ってきますようにと祈っている。これは神様から離れてしまっている人々もかつては神様のすぐそばにいた、でも今はもう遠く離れてしまいました。もう地平線の遥か彼方に去っていったかのように感じてしまうそんな人々でも、思い起こして神様の元に戻ってきますようにと、これは救いを求めるとりなしの祈りであるということがわかりますよね。そしてさらにあらゆる国々の部族、つまり世界中の人々が神様の前に来て、ひれ伏しますようにと祈っている。賛美が祈りに支えられ、そしてそれが伝道の力になっているということに、私たちは気付かされるのではないでしょうか。神様の素晴らしさを知っている人は神様を賛美しますよね。そしてこの素晴らしさを他の人にも知ってもらいたいと思います。すぐそばにいる人とは響きあえます。でも響きあえない人もいます。でも響きあえない人もこの素晴らしさを知ってほしい、この神様の元に戻ってきて欲しい、そのような祈りが賛美の中で生まれて来るって言う事、賛美が私たちにとって伝道の力であるっていうことを私たち覚えたいと思いますね。

私たちは賛美をとうして、実は神様の素晴らしさを多くの人々に語り継ぐことができるんですね。そのようにして私たちはすぐそばにいる人にも、また遠くに離れてしまっている人にも、この神様の素晴らしさを伝え語り聞かせていくものでありたいと思います。

4.結び

今日の全体の内容を振り返って、主が答えてくださるということがどんなに大きな喜びであるかということを教えられるのではないでしょうか。全ては21節の2行目から始まってるんですよね。21節の2行目の「あなた私に答えてくださいました。」というこの言葉から始まっています。それで、そのことがあまりにも嬉しいために、その喜びがダビデだけではもう収まりきらなくて、すぐそばにいる人に広げられ、さらに次の人々に広げられ、貧しい人々にも広げられ、さらに地の果てにいる人々にまで、神様から離れてしまっている人々にこのダビデの喜びがどんどんどんどん広がっていく様子がここに記されている。神様に答えていただくということが、どんなに大きな喜びを私たちにもたらすかっていうことを、この箇所から学びたいと思います。

でも最後に私たちが改めて確認したいことは、これはダビデが祈った結果だったということなんですよね。先週学んだことだったことでしたけど、悩み苦しみの中で、ダビデが何度も何度も祈りました。離れないでください、早く助けに来てください、救い出してください、救ってください、この悩み苦しみの中で真っ直ぐに声を上げた時に、主が答えてくださった、そこに主がいてくださった。御顔を隠さないで私の祈りを聞いてくださった。そのことがどんなに嬉しかったか。それが賛美に変えられている。そしてその賛美が多くの人々に広げられていた。その経過を思いながら、私たちも本当に主にまっすぐに声を上げていくものでありたい。悩み苦しみの中にまっすぐ祈るものでありたい。その時に主が答えてくださる恵を体験したいなと思います。そこから生まれてくる賛美を歌い、共に賛美し、そして神様の素晴らしさを人々に語り伝えていくものでありたいと思います。

 

お祈りをいたします愛する神様、御名を賛美します 。

あなたが賛美の素晴らしさを教えてくださっていることを感謝いたします。あなたは私たちの祈りに耳を傾けて下さる方です。私たちが呼ぶ時に答えてくださる方です。私たちから決して御顔を隠す事がありません。呼べば必ず答えてくださる主よ、そのような主との親しい交わりの中で生かされている恵みに感謝します。どうか今日も明日もこの一週間も、どうぞこの恵みを知ることができますように。この恵みの中に生かされて、そして日々あなたを賛美することができるように。そして互いに賛美できる兄妹姉妹が与えられていることにも感謝します。私たちの教会の中で、またその素晴らしさが語り継がれていきますように。そのことが多くの人々に届けられますように。私たちの交わりを祝福し用いてください。感謝します。主イエスキリストの御名によってお祈りをいたします。

 

詩篇22篇21~27節

救ってください。獅子の口から 野牛の角から。

あなたは 私に答えてくださいました。
私は あなたの御名を兄弟たちに語り告げ
会衆の中であなたを賛美します。

主を恐れる人々よ 主を賛美せよ。
ヤコブのすべての裔よ 主をあがめよ。
イスラエルのすべての裔よ 主の前におののけ。
主は 貧しい人の苦しみを蔑まず いとわず
御顔を彼から隠すことなく
助けを叫び求めたとき 聞いてくださった。

大いなる会衆の中での私の賛美は
あなたからのものです。
私は誓いを果たします。主を恐れる人々の前で。
どうか 貧しい人々が食べて満ち足り
主を求める人々が主を賛美しますように。
──あなたがたの心がいつまでも生きるように──
地の果てのすべての者が 思い起こし
主に帰って来ますように。
国々のあらゆる部族も
あなたの御前にひれ伏しますように。

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 

この記事を書いている人 - WRITER -
若井 和生師
若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。

- Comments -

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください

Copyright© 聖書の言葉の余韻に浸る , 2022 All Rights Reserved.

You cannot copy content of this page