イエス・キリストをより良く知るために

過越しの準備

 
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若井 和生師
若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。

マルコの福音書14章12~16節

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今日は過越しの準備という題でマルコの福音書の14章12節から16節までの箇所からお話をしたいと思います。

本日の聖書の箇所、冒頭の言葉は、「種無しパンの祭りの最初の日」すなわち「過ぎ越しの子羊を屠る日」というところから話が始まっております。

今日ここに出てくるこの記事、この出来事が、「種無しパンの祭りの最初の日」つまり「過ぎ越しの祭り」の当日の出来事であったということがここに示されております。つまりそれはイエス様が十字架にかけられる日の、「前日」のことであります。イエス様の十字架が迫っているということが分かる。

「過ぎ越しの祭り」というのは、ユダヤ三大祭りの一つで、ユダヤ人たちが各地に離散して生活をしていましたけれども、このお祭りの時だけは各地から集まってきて、エルサレムに集まってきました。ですからその時エルサレムはたくさんの人でごった返していたと思います。そして祭り特有の、独特の高揚感に溢れていたということが考えられる。

【1】 緊迫した雰囲気の中で

さらにこのエルサレムの中で、イエス様を殺害する計画が着々と進んでおりました。祭祀長たち律法学者たちという宗教界のリーダーたちが、イエスを騙して捉え殺すための良い方法を探していたと1節に書いてありました。ただ民衆の圧倒的支持を得ているイエス様です。民が騒ぎを起こすことを心配して、祭りの間にイエス様をとらえることには彼らも慎重だったということが2節に出てくる。ところがユダの裏切りによって事態は急変します。

何とイエス様の弟子の一人であったイスカリオテのユダが、祭祀長の所にやってきてイエスを引き渡すと言い出しました。

その場面を前回の礼拝の時に確認を致しました。マリアがイエス様の頭に油を注ぐため香油の壺を割って、そしてその油をイエス様の頭に注いだという場面を前回学んだんですけれども、その時にユダがそこにいて、「なんと無駄なことか。貧しい人たちに施しができたのに」と反応しました。

ところがイエス様はこのマリアの行為を高く評価して下さって、その結果ユダの考えを退けた。このイエス様の対応がユダの心に非常に大きな落胆と怒りを引き起こしたことがわかる。その後すぐにユダは祭司長達の所に行ったんですね。

つまりこの出来事が、イエス様を十字架に追い詰めていくきっかけになったということを聖書は私たちに伝えております。祭司長達はユダが現れてびっくりしたと思いますね。そして喜んだと思います。これでイエス様を捉え、殺すことができると思ったことでしょう。

 

事態は急速に動き始めます。そしてイエス様に危険が迫っている。そういう時の出来事であります。ですから非常に緊迫した状況がそこにあったということ、でもその状況の中でイエス様は 弟子たちと最後の食事の時を過ごそうとされた。その食事の準備をされたというのが今日の話の内容ということになります。

イエス様はこの食事を本当に、切に願っていたということがルカの福音書の記事を読むと分かります。ルカの福音書22章15節、

私は苦しみを受ける前に、あなたがたと一緒に、この過越しの食事をすることを切に願っていました。

「私は苦しみを受ける前」つまり十字架につけられる前に、あなたがたと一緒にこの過越しの食事をすることを切に願っていた。切望されていた。弟子たちと共に食事をするそのひとときを、どんなに楽しみにしておられたかという、そのイエス様の思いが伝わってくる。弟子たちとの最後の時を過ごすため、そしてそこで大切なメッセージを伝えるため、イエス様はこの時は本当に待ち望んでいたということが分かるんですね。その時にイエス様がどんな思いでおられたか?本当に苦しんでいたと思いますね。もう十字架が迫っていますね。でもその思いを弟子たちは全然気づいていないんです。全然理解できていないんです。イエス様にとってそれはとても寂しいことだったと思うんですが、でもそれにもかかわらず、イエス様はやはり弟子たちとともに過ごす時間を必要とされた。求めてくださった。そのためにこの最後の晩餐の場所は、注意深く確保される 必要があったわけです。弟子たちとの交わりを切に望んでおられたイエス様は、私たちとの交わりをも、切に望んでおられる方であるそういうことを覚えたいなと思います。イエス様の側で私達と共に過ごす場所をちゃんと用意し確保した上で私たちを招いてくださる。私たちもイエス様のことを十分に理解できているわけではないと思うんですよね。イエス様の御心に実に疎い私ではないかなと思うんですね。

 

イエス様の前に全く相応しくない、共に招かれる価値もないような、そんな一人一人かもしれない。でもそんな私達のことをイエス様は招いてくださる。そして私達と交わりがしたいんです。それは私たちのことを愛してくださっている証です。

そんなイエス様の思いに、私たちどれだけ応えようとしているだろうか?どれだけ気づいているだろうか?そんなことを是非覚えたいなって思うんですね。 

私たちが願う以上に主が私たちとの交わりを求めて、私たちを招いてくださっている。それが礼拝です。礼拝は単なる私たちのお務めではない。主が私達を招いてくださって、私達と交わりがしたいと願っておられる。その場に私たち招かれている。それが礼拝。

その主思いに、私たちはもっともっと気づいて 、そしてその主の愛と恵みに応える者でありたいと思うんですね。ここで本当に主との親しい交わりを経験していくもので会いたいなと思います。 

【2】 神の定められた時の中で

それまでのイエス様の宣教活動の中心は、ガリラヤ湖周辺のガリラヤ地方でした。ここで弟子たちを選ばれ弟子たちを訓練しそこでたくさんの人たちに対して福音を語り御業を行っていたイエス様が、この時は弟子たちを伴ってエルサレムにやってきました。何のためにエルサレムに行ってきたんでしょうか? その目的の一つは過ぎ越しの祭りに参加するためです。でもそれだけではありませんもう一つ大事な目的がありました。それは世界中の人々の贖いとなるため十字架にかかるという大切な目的のためにイエス様はエルサレムに上ってきた。 イエス様はこの過ぎ越しの祭りの時が、ご自分に定められた神の時であるということをよく理解しておられました。

 

過越しの祭りっていう祭りは、レビ記や申命記に記されている事ですが、これはイスラエルの民がエジプトから救われたことを記念する祭りでした。羊が屠られて流されたその血を、家の家紋や柱に塗りつける事によって、民は守られ救われました。神様がその血を見て、その家を過ぎ越されたから。そのようにして彼らは救い出された。その恵みを決して忘れないように、一生覚え続けることができるようにするために、毎年毎年この過ぎ越しの祭りをお祝いしていた。それがずーっと歴史の中で続けられていた。そういうお祭りでした。

 

この年もいつもと変わらずその過ぎ越しの祭りの時がやってきたのですけれども、この年の過ぎ越しの祭りは特別でした。全世界の人々の救出が今なされようとしているということ、そのために子羊の尊い血が流されようとしているということをイエス様はご存知でした。

 

かつて屠られた子羊の血によって、イスラエルの民が救われたように、自らが犠牲の子羊となって主のみ前に捧げられ、屠られ、血が流されることによって、世界中の信じる民が救われるということをイエス様はご存知だった。ですからイエス様は自分の時はよく知っていたということであります。

弟子たちはこの世の時間の中を歩んでいました。この世の今という時を歩んでいました。人間が作り出すそのようなこの時の中を歩んでいました。イエス様もその時を共有してるわけですけれども、しかしそのようにして共有しながら、同時に神様が定められた時の中を歩んでおられた。そういうことに私たちは気づかされる。この後イエス様は弟子たちと共に食事をされて、そしてその後ゲッセマネの園に行かれます。そこでお祈りをするわけですけれども、そのお祈りの言葉の中で35節ですが、

できることならこの時が自分から過ぎ去るようにと祈られた。

と書いてあります。この時というのは、イエス様が十字架にかかる時を表しています。またその後ユダが裏切って沢山の人達を連れてきてイエス様が捕らえられてしまうという場面がやってくるわけですけれども、その時の直前にイエス様は弟子たちに向かって「時が来ました」と言われました。これは41節に出てきます。「時が来た」。この時というのもやはりイエス様の十字架をを表しています。ですからイエス様は自分がどういう時を歩んでいるのかがよくわかっておられた。そして神の定めの時が、迫っているということを意識しおられる。この世の時間の中を歩みながら、合わせてしかし神様のご計画の中を歩んでおられる、神様の時の中を歩んでいるイエス様のそのような人生、歩みというものを私たちは教えられるわけであります。

今はどんな時なのかなと思います。今私たちは世界中でコロナの影響に苦しんでおります。今、世界中の人々がこのコロナ問題に苦しんでる今の時というのは、神様のご計画の中にあってどんな時なんだろうか?と考えさせられる。私たちの神様は時を支配しておられる方です。神様の御手の中で起こっています。私たちはその意味を全て理解することはできません。でも全ては神様の御手の中で起こっていることです。そしてその中に生かされている私たち、私たちは今、目の前の事柄、そして私たちの人生の時の中を歩んでいますけれども、でも合わせて、実は「神様のご計画」というその時の中を歩んでいるということを覚えたいと思います。その神様の時の中で、私達の人生があるということ、私たちの歩みが導かれているということを意識するものでありいたいという風に思います。

弟子たちは、そんな主の時が迫っているということに全然気づいていません。もう間もなくイエス様は捕らえられて十字架につけられてしまう。もうその日の迫っているということに弟子達は全然気づいていない。無自覚なんです。

【3】 主権者なるイエス

けれどもその弟子たちが12節でイエス様に一つ質問をしております。こういう質問でした。

過ぎ越しの食事ができるように私たちはどこへ行って用意をしましょうか?

その日は祭りの当日です。それで過ぎ越しの祭りの時には食事をするという習慣があります。エルサレムにはたくさんの人たちが集まっていました。そしてその人たちはみんな食事をするわけです。ですから場所の確保も大変だったと思うんですね。

イエス様はちゃんと場所を用意してくれているんだろうか?確保してくれているんだろうか?心配になったと思うんですね。当然の反応だと思いますね。弟子達は先のことが見えておりません。ですから、先のことが見えませんから心配になったんだと思います。

私たちもそうだと思います。先が見えないので心配になるんですね。どうしようどうしようと焦ってしまったりして、そういう気持ちがここに出てるんではないかなという風に思います。でも心配する必要なかったんですね。イエス様はちゃんと過ぎ越しの食事のための場所を確保しておられたということがわかります。そして心配してる弟子たちに向かってイエス様は不思議な指示を与えられました。その指示の言葉が13節14節15節の言葉です。読んでみます。

イエスはこう言って弟子のうち二人を遣わされた。「都に入りなさい。すると水瓶を運んでいる人に出会います。その人について行きなさい。そして彼が入っていく家の主人に、「弟子たちと一緒に過ぎ越しの食事をする私の客間はどこかと先生が言っております」と言いなさい。するとその主人自ら席が整えられて用意のできた2階の大広間を見せてくれます。そこで私たちのために用意をしなさい。」

このように指示をして、二人の弟子を遣わしたということが分かる。都に入りなさい。都に入ると水瓶を運んでいる人に出会うから、その人についてきなさい。するとちゃんとその場所が示されますという指示だったんですね。

2人を遣わされるんですけども、この二人の弟子はルカの福音書22章8節を読むとペテロとヨハネであったということがわかります。二人が遣わされていくわけですね。イエス様の言われた通りに行動するんですけど、そうしたら本当にイエス様の指示通りになりました。

水瓶を運んでいる人がいたんです。「水瓶を運ぶ人」とされている「人」という言葉は男性形の名刺が使われておりますので、この水瓶を運んでる人が男性であったったということ がわかるんですけれども、当時ユダヤの社会では、水瓶を運ぶのは女性の仕事でした。普通は女性が運んでいる水瓶を、男性が運んでいたらやはり目立つと思うんですね。それがよく分かるようになっていたのではないでしょうか。ただたくさんの人たちがエルサレムにごった返しておりました。本当にいろんな人たちが入り組んでいたと思われます。その中にあって水瓶を運んでいる人を発見するのは大変だったんではないかということも考えられます。でもイエス様の言われる通りになりました。そして彼について行ったら本当にその通りになったのです。ちゃんと場所が用意されていて、二階の大広間がちゃんと用意されたということに気付かされました。この経験は何気ない経験のようですけれども、この弟子達にとっては、「イエス様の指示通りだった。イエス様の言われた通りにすると本当にそうなるんだな」ってそういうことを学ぶ経験だったんじゃないかなと思うんですね。

 

その数日前の出来事になるんですけれどもイエス様がロバに乗ってエルサレムに入城した場面がありました。これはマルコの福音書の11章に出てくるんですけれども、その時にもこれととても似たことがありました。その時もやはりイエス様は二人の弟子たちを遣わされたんですが、その時にはこういう風に言った11章の2節3節に書いてあります。

 

向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだ誰も乗ったことのない子ロバが繋がれているのに気がつくでしょう。それをほどいて引いてきなさい。もし誰かが何故そんなことをするのかといったら、「主がお入用なのです。すぐにまたここにお返しします」と言いなさい。

 

自分具体的な指示だなと思うんですけれども、そのような指示を出してたんですね。その指示を受けて、やっぱり二人の弟子が村に入っていくと、本当にその通りになるんです。ロバがいて、そしてそのロバの持ち主とのやり取り、全くその通りのやり取りがあって、無事にロバを確保することができて、そしてイエス様はそのロバに乗って、エルサレムに入城するという展開になっていくんですね。

 

ですから短い間に似たような経験をしているって事が分かるんですけれども、この二つの経験を通して弟子達は学んだと思うんです。イエス様の指示に間違いはない。イエス様の言われた通りにすればちゃんとその通りになる。そのことを学んだんじゃないかなと思うんですね。なぜならばイエス様は「神様の時の中」を歩んでおられ、この先の事をご存知だった。ですから弟子たちは安心してイエス様の指示に従うことができました。イエス様の十字架の直前でしたけれども、弟子たちはこの方は本当に主なんだなと、この方の指示に従っていれば本当にその通りになるんだ、安心なんだな、この方の言葉は信頼できるの店そういうことを彼らは教えられていあたんではないでしょうか。

 

今の世の中にあっても私たちの指導者もこうあって欲しいなと思うことが時々あります。指導者に求められていること、リーダーに求められていることってなんだろうかって考える時に、それは先を読む力、この後どうなっていくかと先々の事を想定しながら、そのための的確な指示が与えられるということ、それは指導者にとって必要な資質ではないかなと思うんですね。

目先のことだけではなくて、10年先20年先どうなっていくのか?どこに導いていくのか?どこを目指していくのか?というビジョンをはっきりと示した上で、的確な指示を出していくということ、そん時に人々は安心して、その指導者の言葉に従って行くことができるんではないかなと思うんですね。

私達の今の国のリーダー達にも、そういう資質が与えられるように、そういうリーダー達が立てられていくように本当に祈らなければいけない。

 

本当に今の世は全く先が読めない。そういう時代になっているんではないでしょうか。一寸先は闇という言葉がありますが本当に文字通り、一寸先は闇のような状況になっているんではないでしょうか。しかも様々な危険に満ちています。その中にあって私たちも悩むんです。迷うんです。焦るんです。先が見えないということはそういうことです。

 

でもそこで大事なことは何でしょうか?イエス様に尋ねること。イエス様が進むべき道を照らしてくださる。弟子たちも先のことが見えなくて心配になりました。どこで過ぎ越しの食事をするのか?その場所は本当に確保されているのか?先が見えないので心配なんですね。ですからイエス様に尋ねました。でもイエス様はちゃんと用意しておられた。そして的確に指示を出します。こういう風にすればいいんだよと。そのとおりにしました。その通りになりました。 ちゃんと用意してくださっていたその場所にたどり着くことができました何気ない相手のように見えるけれども本当に神様と私達の関係を指し示している出来事じゃないかなと思うんですよね。

 

箴言20章24節にこう書いてあります。 

人の歩みは主によって定められる。人はどうして自分の道を悟ことができるだろう。

二つのことがここで教えられています。人の歩みを定められるのは主であるということが一つ、そしてもう一つは人は自分では自分の道をさせることができないということがもう一つ。

自分で自分の道を私たちは悟ることはできないんです。ですから私たちは悩むんです。迷うんです。焦るんです。

でもそんな私たちに求められていることは何でしょうか?それは主に相談することです。

主は全部ご存知なんです。わたしたちの行くべき道は全部ご存知なんです。

そしてその主の言葉に信頼すること、この主の指示に従うこと、そのことを通して私たちの歩みを導いてくだる。私達の歩みを確かなものにしてくださる。そのような導きの中に私達生かされている恵を覚えようではありませんか。どうか私たちが遠慮せずに、主にいつでも相談することができますように。そして主が備えられる道を一歩一歩、歩んでいくことができるように祈りあっていこうではありませんか。

【祈り】

お祈りを致します。

めぐみ深き私たちの父なる神様。今本当に暗い世の中になっていると思います。私たちもその中にあって、先が見えなくて心配になったり、戸惑ったり、迷ったりします。でも私たちはいつでもあなたに相談できます。あなたがすべてをご存知です。全てはあなたの時の中で導かれています。そのこと教えてくださってありがとうございます。どうかあなたに信頼し相談し、そしてあなたのみ言葉にに聞き従うことができますように。そのようにして主が私たちの道を確かにしてくださる恵を、これからも豊かに味わって行くことができますように、この一週間の旅路も、どうか守り支えてください。み言葉を心から感謝し尊い主、イエスキリストの御名によってお祈りをいたします。

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