偽預言者に、気をつけなさい。・・・マタイ伝7章15~20節
マタイの福音書7章の15節~20節の箇所において、イエス様は弟子たちに、一つの警告を発しているということがわかります。今までイエス様は神の国の価値観、神の国の生き方について長々と教えてくださいました。その聞いたこと、教えられたことが、決して無駄になってしまわないようにと、そのような思いを持ってここでひとつの警告を発しておられる。 それが今日の箇所であります。
それが「にせ預言者たちに気をつけなさい」というそういう警告であります。
1. なぜ、にせ預言者たちに気を付けなければならないか?
私たちはこの言葉は、私たちにも語られている神様からの言葉、警告の言葉として受け止めていきたいと思います。なぜ、私たちは偽預言者たちに気をつけなければいけないのか?
聖書の箇所を通して、二つのことを確認することができます。
a. 広い門へといざなう者
まず、はじめに、この「偽預言者」 たちは、「狭い門」の前に立っていて、狭い門から入ろうとする私たちを、「広い門」へ誘おうとする、そういう存在だからであります。
これは前の聖書箇所とのつながりの中でわかることであります。
そこで語られていたのは、「狭い門から入りなさい」という、そういうメッセージでした。私たちの前には二つの門が立っています。狭い門と広い門、多くの人たちは広い門を選びます。多くの人たちは広い門から入ってきます。
でも私たちには狭い門から入りなさいと語られている、それが前回のメッセージでした。今日の聖書の箇所がその箇所の続きです。そして今日のメッセージも、前回のメッセージのつながりです。 イエス様はなぜこの箇所で、偽預言者たちに気をつけなさいと警告を発せられたんでしょうか?何の脈絡もなく突然この警告を発したわけではない。そこにひとつの危険があるからこの命令を発せられた。
それは私達が、狭い門ではなくて広い門を選んでしまう危険がそこにあるからです。偽預言者たちが、せっかく「狭い門」から入ろうとしている私たちの前に立って、こっちにもっと良い門があるよと広い門を指し示すからです。だから私たちは用心しなければならない。なぜ私たちが偽預言者に気を付けなければならないのか、その理由の第一は、このように文脈の流れを意識することによって分かります。おそらく私たちの心の中には、狭い門よりも広い門を選びたいという気持ちがどこにあるんじゃないかと思いますね。どちらかと言うと、狭い道じゃなくて、広い道を通って行きたい。みんなが通っている広い道を、通って行きたい。それを求めてしまう気持ちがどこかにあるんじゃないかと。
そしてそれは要するに偽預言者たちを警戒するよりも、むしろ歓迎してしまいかねない、そういう心の性質を私たち持っているという事であります。ですから私たちなおさら注意が必要です。にせ予言者たちに惑わされないように、広い門に入ってしまうことがないように注意しなければいけないですね。これが第一の理由です。
b. 羊のなりをしている
もう一つ理由があります。なぜ私たちが偽預言者たちを気をつけなければいけないのか?それはこの偽預言者たちが「羊のなり」をしているからであります。15節の言葉を読みます。
「偽預言者たちに気をつけなさい。彼らは羊のなりをしてやってくるが、内は貪欲な狼です」。こういう風にイエス様は語られました。
彼らは羊のなりをしてやってくるが、その内側には貪欲な狼としての性質を隠し持っているよ、これが偽預言者だから気をつけなさいとここで教えられています。
羊というのは何も武器を持っていない動物であります。自分自身を守るための特別な能力を持っていません。ですから羊飼いがいないと、生きていけないですね。羊飼いがいないとすぐに迷子になってしまって、そのままの力尽きて死んでしまうような、そういうか弱い動物であります。ケモノとしての獰猛さもありません。
つまり偽預言者たちは少なくても表面的にはそのように見えるということであります。でも、その裏側には狼が隠されている。狼としての貪欲さがその裏に隠されているということがわかります。ここで貪欲という言葉が使われておりますけれども、この言葉はもともとの意味は、力ずくで奪うとか、強奪するとか、略奪するという非常に強い意味の言葉が使われております。
文語訳の聖書でこの箇所読むと、「内は奪い掠むるおおかみなり」という約になってます。きがあったらもうすぐに狙って、そして攻撃してくる、狼のしたたかさ、そして凶暴性、そのようなものがここで意識されているということが分かる。つまり人を、自分の利益のために絶えず利用しようとしている策略が、その裏に隠されているということであります。このように偽預言者たちは貪欲さを持ってるんです。
しかし表面的にはそれがわからない。どうしてか?それは羊の形をしているから。
偽預言者が偽預言者であるということがはっきり分かれば、私たちは安心ですね。惑わされる必要はありません。ところがそれが分からないから、わたしたち、注意が必要です。でも現実にはそうではない、とても見分けられない、だから私たち注意が必要なんだよということを、イエス様がここで教えてくださっている。そのことに心を止めたいと思います。
2. エレミヤ書に出てくる「にせ預言者たち」
ここで「羊のなり」をしていると訳されてる言葉、新しい聖書の約では「羊の衣」を着ているというそういう訳になってると思います。
これは一体どういう姿なんでしょうか?
イスラエルの歴史を辿っていくと、偽預言者と呼ばれる人たちは絶えず居たということがわかります。そのことに聖書を読んでいると気づかされます。でもおそらく、イチバン偽預言者たちが非常に活発に活動していたのは、預言者エレミヤの時代であったということが言えるだろうと思います。
預言者エレミヤが活躍した時代というのは、南ユダ王国がバビロン帝国によって滅ぼされてしまうという、そういう時でありました。
イスラエル王国は北と南に分裂をして、北イスラエル王国、南ユダ王国に別れてしまいますが、北方はアッシリア帝国によって滅ぼされてしまいました。南ユダ王国の方は、その後しばらく生きながらえていくんですけれども、最後にはバビロンに滅ぼされてしまいます。
エレミヤが生かされた時代というのはまさにそういう時代でありました。そのような時代状況の中でエレミアは、預言者エレミアは、神様から託された言葉をはっきりと語りました。
それはどういうメッセージだったかと言うと、イスラエルに罪の堕落を伝えるメッセージであり、悔い改めを迫るメッセージであり、そして神の裁きが迫ってる、神の怒りを伝えるメッセージでありました。特に北からアシリアという帝国がやってきて、滅ぼされてしまうということを、エレミアははっきりと予言した。
ところが当時のイスラエルの人々は、ほとんどの人々は、このエレミアの言葉に耳を傾けませんでした。よってエレミアは常に孤独な予言者でありました。
預言者というのは、もともと孤独なんですけれども、でもその中でも特にエレミアは孤独な予言者だったと思います。自分が話したことを誰も聞いてくれない、でも彼は語り続けなければいけないという預言者だったんですね。
ところが当時預言者と呼ばれる人たちは、エレミアだけではない。たくさんいたんですね。エレミヤ書を読んでいるとわかるんです。そしてその預言者たちは神様から「偽りの預言者」という風に呼ばれておりました。
一体何が違ったのか?一体エレミアと何が違ったんでしょうか?エレミヤ書の記事を丁寧に読み進めていくと、彼らの姿が出てまいります。彼らがどんなメッセージを語っていたかってことが出てまいります。
例えばこんなことを喋っていた。
「彼らは私の民の傷を手軽に癒し、平安がないのに平安だ、平安だと言っている」エレミヤ書6章14節。
あの預言者たちは、私の名によって偽りを予言している。私は彼らを遣わしたこともなく、彼らに命じたこともなく、語ったこともない。彼らは偽りの幻と、虚しい占いと、自分の心の偽り事を、予言しているのだ。それ故私の名によって予言はするが、私が遣わしたのではない予言者たち。剣やききんがこの国には起こらないと言っているこの予言者たちは滅ぼされる14章の14節、15節にこういう風に紹介されているのが、当時の偽預言者たちの姿であります。
彼は民の傷を手軽に癒すという風に書いてあります。根本的には癒さない。手軽に癒します。手っ取り早い表面的な解決を与えるけれども、もっと深い根本的な解決な対応を与えようとしない。それが偽預言者たちでありました。平安がないのに平安だ、平安だと口では言う。さらに偽りをいう。
エレミヤはアッシリアによって滅ぼされる、イスラエルは裁かれる、ということをはっきり伝えている時に、この予言者たちは剣や飢饉がこの国には来ないという風にですね、そういうことを伝えている。そして自分の個人的な幻を、神の名のもとに、まさにこれは神の名を軽々しく用いて、神の名を使いながら、自分の幻を語っているっていうそういう状態でありますね。そして何よりも彼らは主が遣わされた預言者ではなかった。まさに偽りの預言者であったということが分かるこのような偽預言者たちが非常にたくさんいて、かつ活動していたのが、エレミアの時代であります。
残念なことに当時の多くの人々は、これら「にせ預言者」たちの言葉を聞くんです。喜んで聞くんです。そしてむしろ彼らは偽預言者たちの方を歓迎するんです。自分たちの聞きたいことを言ってくれるメッセージ、自分たちが求めて聞きたいこと、それを伝えてくれる預言者たちを歓迎する。
ところがエレミヤは、罪のことをはっきり言います。神の怒りを伝えます。悔い改めを迫ります。このメッセージは誰も聞かない。そういうイスラエルの当時の状況でありました。当時のイスラエルの 立場に立って考えるならば、それだけ不安が大きかったっていうことになるのかなと思います。お先が全く見えないそういう状況であります。
エジプト、そしてバビロンという両方の大国の間にイスラエルは挟まれて、その狭間で消えかかってるような、そういう国際情勢ですね。そのような中にあって、本当に希望が見えない、先が見えない、人々が不安に駆られてしまう、そういう状況の中にあった。人々はもう本当にわずかでもいい、本当に一時的でも何か自分をほっとさせてくれるような言葉、傷を癒してくれる言葉、そういうことばかりを求める、そういう時代状況があったわけでありますよね。
そして極端なことを言えば、自分の心が慰められるんだったら、それが真実であるかどうかっていうことよりも、嘘でもいいから慰めて欲しい、それくらいな心境に人々がなっていたんだと思います。これが偽預言者たちの姿。エレミアの時代の偽預言者たちの姿、応急処置的な一時的な解決を与えてくれるかもしれない、そして人が喜びそうな人受けしそうなメッセージを伝えてくれるかもしれない。
でも一番肝心なことを言ってないんですね。この予言者達。イスラエルの罪による堕落、悔い改めの必要、神の怒り、さばき、一番肝心なこと言っていない。
つまり神から託されたメッセージを、何一つ語っていなかった。
どうでしょうかこのような偽預言者たちの姿は、本当に羊のように見えるんじゃないでしょうか。まさに羊のなりをしている預言者たちということが言えるんではないでしょうか。そのような預言者たちがエレミアの時代だけではなく、イエス様の時代にも、そして初代協会の時代にも、等しく存在していた。そしてその脅威に、教会がいつも狙われていた。そのことを私たちは覚えることができるわけであります。
3. 今の私たちの周りの偽預言
あれから2000年が経って、時代は全く違うかもしれないけれども、今の状況は全く同じではないでしょうか。そして私たちはまさに、今エレミアのような時代に生かされているんじゃないかなという風に思いますね。
先が見えない、希望が見えない、これからの日本はどうなっていくんだろうか?
これからの世界はどうなっていくんだろうか?自分の人生はどうなってしまうんだろうか?本当に不安に駆られてしまう。すぐに焦りに心が捕らわれてしまう。
そういう状況が世の中に広がっている。
そういう中にあって、私たちは一体どういう言葉を求めるんでしょうか?
一時的であってもいいから、自分をほっとさせてくれるような、そんな言葉が今求められているんじゃないでしょか。いま本当に真実なニュースよりも、フェイク・ニュースの方が歓迎されるそうですね。
でも、私たちはそういう時代状況の中にあって、耳を傾けなければならない神の言葉があるということを忘れてはいけない。
私たちの罪人としての姿を、はっきり示してくれる言葉、私たちに悔い改めを迫る言葉、そしてその罪に対しては、神の怒りが警告されている、神の裁きがあるという言葉を、私たちは決して聞き漏らしてはいけない。
それは、もしかしたら私たちにとって聞きたくない言葉かもしれませんね。そういうこと聞きたくない。でもその言葉に今、私たちは耳を傾ける必要がある。そこを通らなければ、私たち本当の平安を得ることができないからであります。
もし、牧師が人間の罪のこととか、悔い改めと神の裁きを語らなくなってしまったら、その場合皆さん注意してください、警戒してください。
それは牧師が偽預言者化してるって事になりますね。そしてもしかしたら、そういう偽預言者たちが、今日増えてるんじゃないかなっていうことを思いますね。
「偽預言者たちに気をつけなさい」と語っておられるイエス様の言葉は、今の時代にも有効であるということ、今の時代であるからこそ、私が聞かなければな であるということを是非覚えておきたい。
この言葉はしっかりと心に留めていきたいと思います。そして羊のようななりをしている偽預言者たちに決して騙されることがないように、広い道の方に連れて行かれることはないように、私たちは目を覚ましていたいと思います。
4. 偽預言者を見分ける方法
さて、このように15節ではとても見分けづらいんですね。オオカミの格好してくれていたらすごくわかりやすいのに羊のなりをしてますから分からない、見分けられないんですけど、も見分けづらいものなんだけれども、でも見分ける方法があります。
ということは次にイエス様が語っておられることであります。どうすれば私たちはそれを見分けることができるのかそういう思いを持って今度は16節から読んでみたいと思います。
16節から読みます。「あなたがたは実によって彼らを見分けることができます。ぶどうは、いばらからは取れないし、いちじくはあざみから取れるわけがないでしょう。同様に良い木は皆良い実を結ぶが、悪い木は悪い実を結びます。良い実が悪い実を実らせることはできないし、また悪い木が良い実を実らせることもできません。良い実を結ばない木は皆切り倒されて、火に投げ込まれます。こういうわけで、あなた方は、実によって、彼らを見分けることができるのです」と、このように続けてイエス様は語っておられます。
イエス様はここで、あなたがたは実によって彼らを見分けることができると語られました。15節では羊と狼のたとえだったんですけど、16節からは木と実のたとえに変わっているということがわかります。そして私たちが注目すべきなのは、木ではなくて実なんだということをここでイエス様が教えていることであります。
そして、ぶどうはいばらからは取れないし、いちじくはあざみから取れるわけがないという風に語っておられます。
ここに、いばらとあざみという言葉が出てきますけども、これはセットでよく聖書の中にでてくる言葉ですね。一番初めに出てくるのは創世記3章18節ですがここではこういう言葉で出てきます。
「途中あなたのためにいばらとあざみを生えさせ、あなたは野の草を食べなければならない」。これは創世記3章ですね。あのアダムとエバが罪を犯してしまった場面です。そしてその結果として、人間が罪を犯した結果として、土地が呪われてしまうということになるわけですね。そして土地が呪われた結果として、そこから生えてくるものが、もはや、いばらとあざみしかないと、ここに出てくるわけであります。
つまりいばらとあざみという言葉は神様の呪いの象徴です。そしてその結果としての不毛、そして人間の苦しみを表している言葉ですね。これがいばらとあざみです。
その一方で、ここにブドウとイチジクって出てきますね。これはもう皆さんよくわかると思いますけども、神様の祝福の象徴です。ブドウとイチジク、これもセットでよく出てきますね。つまりここでイエス様がおっしゃっていることは、呪われた木から祝福の実がなることはないってことですね。神様の呪いを受けたところから、祝福が生まれてくることはない。呪いからは呪いが出てくる。祝福からは祝福が出てくる、ということであります。そしてイエス様は良い木が悪い実をならせることはできないし、悪い木が良い実をならせることもできない。そして良い木は皆良い実を結ぶし、悪い木は悪い実を結ぶということをずっと語っていることであります。
ここでイエス様が語っていることは特に難しいこと何もないと思いますね。よくわかることであります。極めて当然なことを語っておられます。甘柿の木からは、甘柿しかなりません。渋柿の木からは渋柿の実がなります。その逆はないですよね。私たちでもよく理解できることであります。
このような分かりやすい例え話によってイエス様は二つの事を教えています。
a.心と行いの関係
一つは私たちの「心」と私たちの「行い」の関係についてここで教えていますね。
ここで「実」という言葉は、私たちの「行い」を表しています。「木」というのは、私たちの「心」を表しています。つまり私たちの心と、私たちの行いは、繋がっているって言うことがここで示されていることであります。
私たちの行いの根源は、私たちの心にあります。私たちの心の中にあるものが、必ず外側に現れてきます。私たちの行いとして現れてくる。このように私たちの心と私たちの行いは密接につながっているということが、まず一つ教えられていることであります。
b.木は実によって識別できる
もう一つ教えられていることは、木は実によって識別できるって言う事です。つまり私たちの心は、見えないけれども、私たちの行いによって識別されるということが、ここで教えられていることです。
私たちはぶどうの木にぶどうがなっているのを見て初めて、この木がぶどうの樹であるということを識別できます。ももがなっている木を見ると、この木はももだったとわかります。実がならない状態では分からないことがあります。専門家がわかると思いますけれども、素人は分からないですね。この木は何の木なんだろうって、秋になって初めてわかるということがあるんですね。ですから同じように、私たちも実によってその木を識別することができる。その実を見れば木がわかるということです。
同じように人の心は見えません。見えなくても、その人の行いを見ればその人の心がわかるということ、つまり人の心は、人の行いが明らかにするという事、そのことが教えられている。その人が偽預言者であるかどうかは、その実によってわかります。その言っていることではなく、教えていることではなくて、その人物の行い生き方、普段の姿を見ればよくわかる、そういうことが教えられているわけであります。
その人が教えていることの中身ではない、その方っていることの素晴らしさではない、その人がどのような生き方をしているか、そこにその人が、本物であるか偽物であるかが表されているということであります。
5. 自分自身のこと
このようなメッセージを受けて今日私たちは最後に自分のことも考えてみたいと思います。
イエス様は、「偽預言者たちに気をつけなさい」とここで命じておられますけれども、私たちは知らず知らずのうちに、偽預言者たちに騙されてしまっているっていうようなことはないだろうか?
狭い門から入って、狭い道を歩いていたつもりだったけども、気づいてみたら広い門をくぐって、広い道を歩んでいたって言うな、そういうことはないだろうか?
実によってそれが分かります。
私たちがどういう実を、普段の歩みの中で実らせているかによって、それが見分けられる。
さあうでしょう、皆さん、皆さん普段の生活の中でどんな実が実っているでしょうか?
その実によって識別できるので、私たちの心の中にあることが、生活の中に表されてしまう、そういう現実ありますよね。
19節の言葉を非常に厳粛な思いで聞きたいと思います。
イエス様はこういう風に言っておられます。「良い実を結ばない木はみな切り倒されて火に投げ込まれます」。
良い実を結ばない木は、皆切り倒されて火に投げ込まれてしまう。ここでイエス様は裁き、裁きを警告されているということが分かると思います。
もし私たちの生き方の中に良い実が見られないのであれば、 切り倒されて火の中に投げ込まれてしまう。私たちは日々の歩みの中で一体どんな実を結んでいるでしょうか?教会に居る時ではなくて、帰った後、自分のそれぞれのご家庭に戻った時に、どんな生き方、どんな振る舞いをしているでしょうか?あるいは、誰も見ていない時、一人でいる時に、自分はどんなことをしているでしょうか?そこに実が現れるという事、その実によって識別できるということを、私たち覚える時に、本当に自分自分の吟味が必要であるということですね。本当に神様の前に、自分を正しいあり方でいるのかどうかということが絶えず求められているということを、私たち是非覚えたい。是非自分を神様の前に立って、人の目の前ではなくて、神様の前に立って、自らを吟味していただきたいという風に思います。
私は、この聖句の準備をする中で思わされたことは、私たちが人生の中で本当に実を結んだかどうかがわかるのは、もしかしたら死のその時じゃないかっていうことを思ったわけであります。
6. まとめ
今日は最後に皆さんに問いかけたいと思いますけれども、皆さん間違いなく救われているでしょうか?本当にイエス様の十字架の血潮によって、罪を許していただいて救いを与えられたでしょうか?イエス様にしかないその平安を、本当に頂いているでしょうか?
もしかしたらそうではなくて、何か信じているつもりになっているだけで、この世が与える、偽りの平安によって、心を慰めてしまってるって言うな、そんなことないでしょうか?自分は狭い道をくぐって、狭い道を歩いてきた。そういうつもりでいたけれども、よくよく考えてみたら広い道を歩いていたっていう、そういうことないでしょか?命に至ると思っていたのに、たどり着いたら滅びだったっていう、そういうことはないでしょうか?その自己吟味というものがいつも求められている。
実を結ばない木は切り倒されて火の中に投げ込まれてしまうというこのみことばを私たちは厳粛な思いで受け止めたいと思います。もしその点で、まだ曖昧だという方がいたら是非今日この時に、イエス様を仰いで、イエスキリストの十字架を仰いで、イエス様が自分の罪のために死んでくださったということを信じて、受け入れてほしい。
今まで狭い道を歩いたつもりだったけれども、知らず知らずのうちに広い道を歩んでいることに気づかされたという方は、もう1度悔い改めて、そして神様の前に心新たに従って行く決心をしていただきたい。