イエス・キリストをより良く知るために

キリストのうちにとどまりなさい

 
この記事を書いている人 - WRITER -
若井 和生師
若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。

ヨハネ第一の手紙2章26~29節

私はあなたがたを惑わす者たちについて、以上のことを書いてきました。しかし、あなたがたのうちには、御子から受けた注ぎの油がとどまっているので、だれかに教えてもらう必要はありません。その注ぎの油が、すべてについてあなたがたに教えてくれます。それは真理であって偽りではありませんから、あなたがたは教えられたとおり、御子のうちにとどまりなさい。さあ、子どもたち、キリストのうちにとどまりなさい。そうすれば、キリストが現れるとき、私たちは確信を持つことができ、来臨のときに御前で恥じることはありません。あなたがたは、神が正しい方であると知っているなら、義を行う者もみな神から生まれたことが分かるはずです。( ヨハネの手紙 第一 2:26-29 SKY17 )

 

(1)聖霊に教えられ続ける

第一ヨハネの手紙の御言葉に耳を傾けていきたいと思います 

今日26節 から始まるんですけれども、 26節でヨハネはこういう風に語りました 。「私はあなた方を惑わす者たちについて以上のことを書いてきました 。」ヨハネはここに至るまで 反キリストは偽りもの と呼ばれる者たちについて書き記してきたですね 。この人たちは キリストに反対する人々、 キリストを否定する人々でした 。それによって信仰者たちを キリストから引き離そうとする 惑わす者たち だったということが分かります。 その人たちのことについて ヨハネは今まで書き記してきたっていう風に言っていますけれども 何のために書き記してきたんでしょうか ?

それはもちろん 教会の信徒たちが今 手紙を書いているところの兄弟姉妹たちが 、惑わされないためですよね。 惑わされないために、そのことをよく理解できるように 、よく気をつけることができるように。、そのようにして、彼は手紙を書いてきました 。でも ヨハネはそれ以上に伝えたいことがあったんですね 。それ以上に大事なことがあったんです 。それは彼らには本当に素晴らしい祝福がすでに与えられているっていう事、そのことを伝えたいために、この筆を書き進めているということが分かります 。皆さんと一緒に27節の御言葉をお読みしたいと思います。 

27節「 しかし あなた方の内には 御子 から受けた 注ぎの油がとどまっているので 、誰かに教えてもらう必要はありません 。その注ぎの油が、全てについて あなた方に教えてくれます。 それは真理であって、 偽りではありませんから、 あなた方は教えられた通り 御子のうちにとどまりなさい 。」

ありがとうございます 。 「しかし」 で始まるんですけど 、これは この後 話すことがとっても大事ですよって意味の「しかし」 なんですよね 。今まで話してきたことも大事だったけど 、これから話すことはもっと大事ですよって意味の「しかし」 という言葉ですね 。そして ギリシャ語の聖書で読むとよくわかるんですけど、「あなた方」って言葉がここで とても強調されている。あなた方はすごいものを持っている、素晴らしい祝福を与えられている。 そのことを ヨハネは伝えたくて この御言葉を語っています 。彼らは一体何を持っているんでしょうか ?こういう風に言っているんですね 、ヨハネは。 

「しかし 、あなた方のうちには 、御子 から受けた 注ぎの油がとどまっているのです。」 彼らには 御子から受けた 注ぎの油がとどまっています。御子、つまり イエス様、「 イエス様から受けた 注ぎの油 」これは「聖霊」を表しますけれども 、その聖霊が彼らには与えられてます。 そのことを ヨハネは本当に伝えたくて 、この言葉を記しているということがわかります。 イエス様は確かに 弟子たちに約束してくださいました。 「私が父にお願いすると、父はもう一人の助け 主をお与えくださり 、その助け 主が いつまでも あなた方と共にいるようにしてくださいます 。」ヨハネの福音書の14章16節ですけども 、イエス様もかつて 弟子たちに約束してくださったんですね 。父なる神様にお願いしてもう一人の助け主と呼ばれる聖霊 を あなた方に与えるよと、 そしてその聖霊は信じる者たちといつまでもともにいてくださる。そのような存在であると、 イエス様もかつて教えておられました。でその聖霊について ヨハネはここに書いてるわけですけれども 、彼はここで「注ぎの油」って言葉を使っています 。油が豊かに注がれるように、それは本当に豊かに たくさん与えられているっていう 、そういう意味の言葉ですね 。20節で、彼はもう教えてましたね 。もう私たち一度 学んだところだったんですけど 、20節でも「注ぎの油」 という言葉を使っていました 。あなた方には 聖なる方からの「注ぎの油」があるので、皆、真理を知っていますって、すでにここで一度教えていました 。ですから 同じことの繰り返し なんですね。でヨハネはよっぽどこのことを伝えたかったんだな っていうことがわかるんです 。これがどれだけ大事なことかっていうことが伝わってくるんですね 。私たちはどれだけすごい、素晴らしい、神様からの祝福 を頂いているか っていうこと 。でこの「注ぎの油」である聖霊が留まっている時に、ヨハネによる と、誰かに教えてもらう必要はないんだそうです 。どうしてですか 。その「注ぎの油」が、全てについて あなた方に教えてくれるから、 私たちがどう生きていったらいいのか 、何を目指して歩んでいったらいいのか、 何を大切にしていったらいいのか、 私たちの人生に関わる全ての大切なことを 、この聖霊は、私たちに 豊かに教えてくださる 。だから他の知識はもう必要ない ということを、 ヨハネ ここで言ってるんですよね 。当時、 教会を惑わす人たちがたくさんいました 。その人たちはこういう風に言ってたんだそうですね 。「聖書だけでは十分ではない。 聖書は不十分です。」 と言ってですね。 「救われるために、真理を得るために、もっと違う 知識も必要です」ということを教えていたという風に言われている。 当時 教会にとっての脅威だった、グノーシス主義者と呼ばれる人たちでしたけども、グノーシスという言葉は、「知識」って意味の言葉ですね 。彼らは 、聖書 以外の新しい知識を求める人々でありました 。そんな彼らの新しい教えに、知識に、当時の教会も惑わされていた 。そういう現状があったということが言われています。 そういう状況の中にあって 、ヨハネは強調して言っているわけですね。 あなた方にはもう十分に与えられています。 この方は 、真理の御霊 です。この方がもう十分に与えられていることゆえに、 誰かに教えてもらう必要は、もうないんです 。それゆえに彼らに必要なことは 、この 与えられている 聖霊に、しっかりと教えていただくこと 、それが彼らに求められていたことだったということを、 私たちも覚えたいと思いますね 。 

私たちにも 聖霊が与えられている 。すごい 恵みが与えられてるっていうことを、感謝したいなと思います 。イエスキリストを救い主として信じて 、信仰告白して、洗礼を受けた方には聖霊が与えられております 。その聖霊は注ぎの油と呼ばれるくらい 、 頭に油が注がれるくらいにですね 、豊かに与えられる。 

この間 祈り会で第一列王記 1章を学んだんですけれども 、ちょうど ソロモンが王になる場面を学びました 。その時に 預言者ナタンがですね 、ソロモンの頭に油を注いだって、そういう記事があったんですよね 。王様になる時には、王様の上に油を注ぐっていう そういう習慣がありました 。もう神様が王としての必要な知恵と力を、豊かに与えてくださいますようにって、そういう意味を込めて、祈りを込めて、 「注ぎの油」をかけた、 そこから来てますけれども、 その注ぎの油のように、豊かに私たちに聖霊が与えられている。 そしてこの聖霊が、私たちに 真理を教えてくださる。私たちに必要なことを全て教えてくださる。 そのことに 皆さん気づいていますか ?

もし気づいていないとしたならば 、そして 何か、他の何か新しい知識などを 求めているとするならば 、何か 、的を外れたことをしていないかどうか、 本当に気をつけなければいけないなと思います。 私たちは、本当にこの聖霊の導きに敏感でありたいなと思いますね。 聖霊が、私たちに必要な全てのことを教えてくださることを感謝したいと思います。 それで必要なことを教えてくださるんですが、教えてくださったことを、すぐ忘れちゃう 私たちなんですが、 でも思い出させてくださる。 そういう方であることを覚えたいと思います。 ぜひ私たち、本当にこの方に心開きたいなと思います。 そして引き続き 聖霊に教えられ続ける、 そのような一人一人でありたいと思います 。

 (2)キリストのうちにとどまる

さて次に ヨハネが命じたこと その続きなんですけども 、その後半部分ですけどもね 、こういう風に教えています 。「それは真理であって、 偽りではありませんから、 あなた方は教えられた通り御子のうちに留まりなさい」。 次に ヨハネが命じていることは「教えられた通りに御子のうちにとどまりなさい。」 御子、つまり キリストのうちにとどまりなさいってことを、次に教えております。 そしてこのことは28節 でももう一度繰り返してますね 。「さあ 子供たち キリストのうちにとどまりなさい」って もう1回 繰り返してるんですね 。ヨハネの手紙を読んでいると、だんだんヨハネの癖が見えてくるんですね 。ヨハネは大事なことは2回繰り返しますね 。1回では心配なのかもしれませんね。 ちゃんと本当に伝わっているのかなと、みんなに 本当に理解されてるのかなって、心配してるのかもしれませんけど、大事なことは2回繰り返しますね。 しかもここでは「さあ 子供達」 って呼びかけてから 繰り返してるんですね 。「さあ」っていうところに 本当に気持ちがこもってるのを感じさせられるんですね 。本当にこのことが大事なんだよと、 本当にこのことを伝えたいんだよ っていう、 そういう ヨハネの気持ちが伝わってくる言葉ですね 。そしてこのような表現を通して、キリストのうちに留まるということが、私たちにとっていかに大事であるか、 いかに大切な 神様からのメッセージであるか っていうこと、 伝わってくることであります 。 イエス様も同じでしたね 。同じように教えてくださいました 。ヨハネの福音書の15章で 「私にとどまりなさい。 私もあなた方の中にとどまります」って、 イエス様も ぶどうの木のたとえ の箇所ですけれども、 そこで 同じことを教えてくださっている。ですから 本当に私たちは キリストのうちにとどまるって事が、とても大事なことなんだということが 聖書を通して、 繰り返し 教えられています 。

でも私たち 言葉の意味としては分かりますね 。キリストのうちにとどまる、 それはキリストに繋がるって意味であり、 キリストとの親しい 交わりの中に生かされるって意味ですね。 頭では納得します。 理解できます。

でも、実際には、 キリストのうちにとどまるっていうことが、どういうことなのか 意外とわかってないこともあるかなと思うんですよね 。実感できない 。本当に自分はキリストの内に留まっているのかどうか、よくわからない。 頭では理解しますね 。分かってますね。ところが体験できていない、キリストのうちにとどまるっていうことが、どれだけ素晴らしい祝福であり 、恵みであるか っていうのがよくわからない。 そういうこともあるんじゃないかなと思いますね。 で 私たち ここで留まる っていう言葉がとっても大事だってことを今日覚えたいと思います 。そしてこのヨハネ はこの 同じ 聖書の箇所の中で、とどまるってことを 何度も何度も繰り返し 教えています。 最初は24節でした。 先週学んだところでしたけれども 、24節でヨハネは、「初めから聞いていることを、自分の内にとどまらせなさい」っていう風に教えてました。 初めから聞いていることを、自分の内 にとどめる、そこからスタート なんです 。 そして27節で「あなた方のうちには 。御子 から受けた 注ぎの油がとどまっている」って 2番目に語りました 。そして 3番目に28節で、「キリストのうちにとどまりなさい」 と命じています 。留まるって言葉が3回繰り返されて使われている 。そして この「留まりなさい」 「留まっている」 「留まりなさい」の 、この順番が大事だってことを 私たちは覚えたいなと思います 。

 まず私たちは、初めから聞いていること、 つまり 御言葉を私たちのうちにとどまらせるって事が大事なんですね。 そこから始まるんです 。その時に私たちにとどまっているところの注ぎの油である 御霊がその御言葉を通して働かれるんですね 。そしてその結果として 私たちは キリストのうちにとどまるものに導かれていくという、この順番が大事だっていうことをぜひ 覚えたいなと思います。 

御言葉をまず聞いて、しっかり聞いて、そしてその御言葉を私たちのうちにとどまらせる というところから始まります。 その時に私たちに与えられてる 聖霊が御言葉を通して働かれる 。どのように働かれるんでしょうか それは 文字として この紙に記された聖書の言葉が 、神の言葉として私たちに迫ってくるってことなんですよね 。文字に記されてるこの聖書の言葉が 「神の声」として私たちの 耳に響いてくるってことなんですね 。その声がもし 聞こえてきたならば その 神の声は、 直接 私たちに語られていることがわかったらば、 私たちの心は反応します。 必ず。 そして私たちの心は開かれる んです。 私たちの魂は開かれるんです。 そしてこの方に信頼するんです そしてそのようにして私たちは キリストにとどまるもの 、キリストとの交わりに生かされるもの 、そのような恵みに導かれていく。 そのこと 私たち ぜひ 覚えたい 、そしてこのことを本当に体験していくものでありたいなというふうに思います。 

旧約聖書の中に「雅歌」 という歌があります。雅歌の 2章9節にこういう言葉がある ちょっと紹介したいと思います雅歌の2章9節をお読みしてますけども「 私の愛する方はカモシカや 若い 鹿のようです 。ほら あの方は、私たちの 壁の向こうでじっとたちを 窓から伺い 格子越しに見ています」ってそういう歌 なんですね。でこれは女の人が歌ってる歌なんですけれども この歌を歌っている女の人は 壁の中 、家の中にいるんですね そして 格子窓の外から愛する人がこちらを見ていることを意識している そういう言葉であるということが分かります。 この後こういう風に続いて行きます。「 私の愛する方は私に語りかけて言われます。 我が愛するもの、 私の美しい人よ 。さあ立って出ておいで。 ご覧 冬は去り 雨も過ぎて行ったから、 地には花が咲き乱れ 刈り入れの季節がやってきて 山鳩の声が私たちの国中に聞こえる 。イチジクの木は実をならせ ぶどうの木は花をつけて香りを放つ 我が愛するもの 私の美しい人よ さあ立って出ておいで。岩の裂け目 崖の隠れ場にいる私の鳩よ 私に顔を見せておくれ あなたの声を聞かせておくれ あなたの声は心地よく あなたの顔は愛らしい。」ってそういうふうに続いていきます 愛する人は窓の外から この女の人に向かって 呼びかけてるんですね 我が愛するもの 私の美しい人よ さあ立って出ておいで」ってすぐに呼びかけてるんです 雨も過ぎていきました 家には花が咲き乱れ 借り入れの季節がやってきました 山鳩の声が国中に聞こえ イチジクの木は実を鳴らせ ぶどうの木は花をつけて香りを放っています 我が愛するもの 私の美しい人よ 私の美しい人よ さあ立って出ておいで 岩の裂け目 がけの隠れ場にいる 鳩よ 私に顔を見せておくれ。 あなたの声を聞かせておくれ。 あなたの声は心地よく あなたの顔は愛らしい。」 と続いていきます。 愛する人は窓の外から この女の人に呼びかけているんですね そんな素晴らしい季節がやってきた 。だから 出ておいで って呼びかけている そういう歌 なんですね そのようにして女の人に呼びかけてるんです  この女の人は 岩の裂け目 崖の隠れ場に隠れていたってことが分かります 怖くて外に出て行けないんです 恐ろしくて外に出ていけない。 もう一歩外に出たら、自分は責められるんじゃないか もう自分の本当の姿が明らかになったら嫌われるんじゃないか その事を恐れ 外に出ていけない 本当の自分の姿がわかったらあの人は私のこと嫌いになってしまうんじゃないか っていう恐れがあってなかなか外に出ていけない。 でもこの愛する人はそれでも諦めないで 語り続けているっていうのが この歌なんですね。「私に顔を見せておくれ あなたの声を聞かせておくれ あなたの声は心地よく あなたの顔は愛らしい」って絶えず 招き続けている声なんです。 そのような 招きの声を 、何度も何度も聞いて この女の人は、ついに外に出て行く。 そしたらどのような体験に導かれたんでしょうか。 どのような 告白を 彼女は してるんでしょうか 

こういう風に 16節で語ってますね「 私の愛する方は私のもの 私はあの方のもの 」ってそういう告白に導かれたということがわかる 。男と女の間の愛の歌という風にして知られていて あ こういう言葉も 聖書にあるんだな って意外に思うかもしれませんけども 実はこれは神様の愛の素晴らしさを歌ってる歌なんですね 。神様の愛ってどんなに素晴らしい愛なのか っていうことを 私たちに示しているのが 雅歌であります この女の人は男の人の声を聞いて反応したんですね そしてこの方に心を開いたんです そしてこの方に信頼したんです そこに愛の交わりが誕生したっていうことがわかる 。同じように 神様も私たちに 御言葉を語りかけてくださっています。聖書を通して今日も日々私たちに語りかけてくださっています そこに聖霊が働かれる時にその文字に記されてる御言葉を通して神様の語りかけが聞こえてくる 

私たちもみ んな恐れてますね 。外に出て行けなくて不安です 自分の全てが知られたら嫌われるんじゃないかと思って 一歩も外に出て行けない自分の部屋に閉じこもってることの多い私たちじゃないでしょうか でもそんな私たちに向かって 神様 諦めないで 語りかけてるんですよね 「愛する者たち 出ておいで」って その招きに答えて私たちが一歩外に出て行く時にそこで本当に人の出会いが起こる、本当に神様の素晴らしさに触れる そして私たちも 同じような 告白に導かれていくのではないでしょうか 。「私の愛する方私なのだ 私はあの方の物」っていう そういう告白に導かれていくんじゃないでしょうか。 

御言葉はそのようにして私たちに語りかけてくるんですね そして 聖霊を通して神様は私たちに迫ってくるんです その時に私たちは心が開かれます そしてこの方に信頼します そこにキリストとの交わりが誕生し キリストのうちにとどまる そのような経験が、私たちが導かれていくとするならば それは何と幸いなことではないでしょうか。是非、 私たちは、日々に語られる御言葉に耳を傾けたいと思います。 そしてその御言葉を私たちのうちにしっかりととどまらせたいと思います。 その時に すでに私たちにとどまっている聖霊がその御言葉を通して私たちに 真理を示してくださり、そして私たちに親しく語りかけてくださるその言葉を聞いた時に私たちの魂も開かれていく そして私たちもしっかりとキリストのうちにとどまるものにさせていただけるそのような恵みに私たち 招かれていることをぜひ 覚えたいと思います 

 (3)再臨の日の確信と平安

さてもし私たちがキリストのうちにとどまる時 その先にどんな祝福が用意されているか これを最後に見て今日は終わりにしたいと思いますけども 、28節の御言葉を皆さんで一緒に朗読したいと思います 。さんはい「 さあ、子供たち キリストの内にとどまりなさい。そうすれば、キリストが現れる時 私たちは確信を持つことができ 来臨の時に御前で恥じることはありません」 

 さあ 子供たち キリストのうちにとどまりなさい そうすれば・・・ その結果 何が起こるのか っていうことですね。それは、その次に書かれていることですね

 2つのことをここで ヨハネは教えています 

 1番目、キリストが現れる時 私たちは確信を持つことができるということ。もう一つ 二番目として来臨の時に御前で恥じることはないということ 。この2つのことが ここで教えられていることがわかります 2つ記されてますけれども この2つは同じことを違う言葉で表しているということが言えると思います「来臨の時」って出てきますが 、来臨の時ってどういう時でしょうか それはキリストが現れる時なんですね キリストが現れる来臨の時に 私たちはどうなるんですか 積極的な言い方をするならば 私たちは御前で確信を持つことができる 消極的な言い方をするならば 私たちは御前で 恥じることがないんです イエス様の御前に立たされた時に私たちは確信を持って立つことができるし その時に 恥ずかしい思いをすることはないということが ここで告げられていることであります 

キリストの来臨の時ってどういう時なんでしょうか それは私たち一人一人が 聖なる神様の前に立たされる時ですね そして私たちの全てが明らかにされる時です そして それは神の裁きの時なんです そのような 厳粛な時に私たちが確信を持って 平安を持って立てるということはありえないことですよね。 なぜならば 私たちは生きてる限りう、たくさんの罪を犯し続けているからなんですよね もう人にも言えない人にも見せられないような 恥ずかしいことたくさんしてきてる 私たちなんですよね それが全部暴かれた時に確信を持って立っていられるなんてとてもあり得ないことですよね 平安を持って 恥ずかしくないなんてありえないことじゃないでしょうか 

ところが ヨハネはその時に私たちは確信を持って 平安を持って立つことできるんですよキリストのうちにとどまってるって事がこれだけ大きな 祝福 なんですよってことを、 この言葉を以て伝えている どうしてですか キリストのうちにとどまってるならば 私たちはそのイエス様が 私たちのために十字架にかかって死んでくださった そしてその イエス様を私たちが信じていることのゆえに私たちの全ての罪が許されているし 私たちは神の子供として完全に受け入れられている だからこそ私たちは御前にあって確信を持って 平安を持って立つことができる本当に これは幸いな素晴らしい 恵みではないでしょうか 

でも同時にここで とっても厳粛なことが 教えられているなってこと思うんですよね

 私たちは人生の最後の時に こういう厳粛な瞬間がやってくるってことを 私たちは 聖書を通して覚えておく必要があるかなと思います 私たち忙しい毎日を過ごしてると思います 勉強して お仕事をして結婚して家庭を築いてそれなりに人並みの人生を歩んでいるかもしれません。 一生懸命 私たちに与えられてる 人生 歩んでるんだと思うんですけれどもでも実は最後にこういう時がやってくるってことを私たちはどこかで覚えておかなければいけない キリストの現れの時に私たちが御前に立たされる時が来るって事ですよね そしてその時に私たちの人生をどう歩んできたかが問われる 試される時がやってくるその時に私たち問われることは本当に私たちは キリストのうちにとどまっていたかどうか 本当にこの方を信じて そして 救い主として信じて そしてイエス様の恵みによって許され 神の子供とされていたかどうか この方との親しい 交わりの中に生かされてきたかどうかそのことが問われる瞬間が来ますよってこと

このことを、ここから私たちは受け止めるものでありたいなと思います

 (4)むすび

 皆さん どうでしょうかその日がやってきた時に皆さん 私たちは本当に確信を持って 平安を持って主の前に立つことができるでしょうか ぜひできると確信を持って言えるものでありたいなと思います もし私たちがキリストのうちにとどまっていると間違いなく言えるとすれば、 もう安心なんですね いつ イエス様がいらっしゃってももう安心なんですね 是非 そのような確信の平安を頂いてしっかり 私たちはイエス様のうちにとどまるものでありたいなというふうに思いますね。 そして合わせて私たちの子供たち 孫たち、家族はどうでしょうか この時が来た時に家族は本当に確信を持って平安を持って立っていられるんだろうか それを思った時に私たちはもっと祈らなければいけない もっと真剣に祈らなければいけないんじゃないでしょうか。 日々忙しい毎日かもしれません やるべきことたくさんあるかもしれないけれども でもそれでもやっぱり 目を覚まして 祈り続ける必要があるんじゃないでしょうか 語り続ける必要があるんじゃないでしょうか 本当にその日は 迫っているんですよね。「 盗人のようにやってくるって イエス様 おっしゃってますね 来臨の日が、キリストの表れの時が、近づいている そのことを、 私たち 忘れないで目を覚まして 祈り続けるものでありたいと思います 語り続けるものでありたいと思います そのようにして私たちが本当に御前で確信を持って平安を持って主とお会いできるように そしてその恵みの中に多くの人が加えられるように私たちは日々 祈り続けるものでありたいと思います 

 

 

お祈りをしましょう 私たちに御言葉が与えられていることを感謝します そして 御言葉を通して 御霊が働いて私たちに親しく語りかけてくださる恵みがあること覚えてありがとうございます 何気なく難しく感じるような 聖書の言葉 かもしれません しかし 主は、日々私たちに語りかけてくださっているその声を 私たちは日々 聞き取ることができるように そして恐れもあります 不安もあります そして本当に戸惑いもあります でもその戸惑いを全部取り除いてくださってあなたに向かって心開くことができるように信頼できるように信じることができるようにそしてあなたとの親しい交わりの中で生かされることができるようにどうか 導いてください どうかその恵みの中に加えられる方々が日々起こされるように私たちの家族の中から友人の中から そのような方々が 是非 起こされるように私たち 目を覚まして 祈り続け 語り続けることができるように そのあなたの思いを 私たちにお与えくださるようにお願いします 感謝します イエス様の御名によって お祈りをいたします アーメン。

この記事を書いている人 - WRITER -
若井 和生師
若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。

- Comments -

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください

Copyright© 聖書の言葉の余韻に浸る , 2025 All Rights Reserved.

You cannot copy content of this page