迫りくるサウル、その軍隊の脅威!・・・サムエル記23章14節~29節
旧約聖書のサムエル記からダビデの生涯を学んでいますが、今日は、サムエル記23章の14節から29節までをみてゆきたいと思います。
1.神様の助けを、どのように知ることができるか?
まず、14節がとても素晴らしい御言葉だと思いますので、14節を読んでみたいと思います。
「ダビデは荒野にある要害に宿ったり、ジフの荒野の山地に宿ったりした。サウルは毎日ダビデを追い続けたが、神はダビデをサウルの手に渡されなかった。」
一方にダビデを追いかけるサウルがいて、もう一方にはそのサウルから逃げ回るダビデがおります。しかしダビデは決してサウルに捕まることがありませんでした。どうしてかと言うと、「神様がダビデをサウルの手に渡されなかった」とここに書いてあるからであります。神様はダビデのことをしっかりと守ってくれているということが分かります。そのことがはっきりと示されている素晴らしい御言葉だと思います。
ただこの言葉は、神様の側から見た時の、説明であるということが言えると思います。
この事実をダビデ自身はどのように知ったでしょうか?実は神様が自分のことを、守ってくれている、力強い御手によって守ってくれているということをダビデ自身はどのようにして、それを知ったのでしょうか?
「私は山に向かって目をあげる。私の助けはどこから来るのだろうか。私の助けは天地を造られた主からくる」
と書いてあります。私の助けは天地を作られた主からくると聖書に書いてありますけれども、でもそのことを私たちは、どうやって知るのでしょうか?本当に助けてくださるんだということを、わたしたちはどのように知るのでしょうか?
やっぱりそれは私たちの日々の歩みの中の経験を通して知るんだと思います。日々の私たちの歩みの中で、体験を通してそれを教えられるんだと思います。
聖書に書かれてある、御言葉が、私たちの生活の中に、信仰によって結びつけられることによって、私たちは神様を知る者にされていきます。
聖書に書いてあることが本当だった。そして本当に神様は私たちを守られるんだ、本当に神様は私たちのことを助けてくださるんだ、ということを納得し、頷きながら理解してゆく、そうゆう歩みをしたいなと思います。
2.具体的な主の守りの経験
今日の箇所は、ダビデが主の守りを、経験を通して教えられた場面であります。神様はダビデを守って下さいました。どのように守って下さったんでしょうか、そしてダビデはその神様の守りをどのように経験したんでしょうか。今日の聖書の箇所に注目をしていきたいと思います。
(1)ダビデを訪ねた親友ヨナタンの励まし
15節から18節まで読んでみたいと思います。
15節「ダビデはサウルが自分の命を狙って戦いに出てきたのを見た。その時ダビデはジフの荒野のホレシュにいた。サウルの息子ヨナタンは、ホレシュのダビデの所に行って、神によってダビデを力づけた。彼はダビデに言った。『恐れることはありません。父サウルの手があなたの身に及ぶことはないからです。あなたこそイスラエルの王となり、私はあなたの次に立つものとなるでしょう。父サウルもそうなることを確かに知っているのです。』ふたりは主の前で契約を結んだ。ダビデはホレシュにとどまり、ヨナタンは自分の家に帰った。」
神様はまずどのような方法でダビデを助けてくださったでしょうか。ダビデの親友のヨナタンをダビデのもとに送ることによってダビデを助けてくださったということがわかります。
15節に当時のダビデの置かれていた状況が記されております。そこにこう書いてあります
「ダビデはサウルが自分の命を狙って戦いに出てきたのを見た。」
サウルが自分の命を狙っている、そして戦いに出てきたように書いてあります。ダビデにとっては殺されるかもしれないという危機が迫っているということであります。この状況にダビデは本当に心配になったと思います。ダビデにとってはこんな日々の連続ですね。どこに逃げても安心できる場所がない。さすがのダビデも疲れ果てて、気落ちしてしまったんじゃないかなと思います。でもそんな時に、何と親友のヨナタンが来てくれた。なぜ、ヨナタンが、この時、現れたのか。どんな経緯で、ここまでやってきたのか、詳しいことは書いていません。
でもこのようなヨナタンの訪問は、この時のダビデにとっては、本当に時にかなった助けであったということがわかります。神様がそのように導いていてくださったということがわかります。ダビデにとってヨナタンとはまさに主が備えてくださった助けであったということを覚えたいと思います 。ヨナタンの、ダビデを励ますその励まし方が、また素晴らしいということが言えます。
16節にこう書いてあります。
「サウルの息子ヨナタンは、ホレシュのダビデの所に行って、神によってダビデを力づけた。」
ヨナタンは、人間的なつながりや関わりを通して、ダビデを励まそうとしたわけではない。お互いに信じあっている神様を、共に覚えあうことによって、ともに神様を仰ぐことによって、ダビデを励ましました。二人の友情が神様を中心とする、神様を共有する、交わりであったということがわかります。
具体的にヨナタンはどういう風にダビデを励ましたでしょうか?17節を読んでみます。
「彼はダビデに言った。『恐れることはありません。父、サウルの手が、あなたの身に及ぶことはないからです。あなたこそ、イスラエルの王となり、私はあなたの次に立つものとなるでしょう。父、サウルもそうなることを確かに知っているのです。』」
もし私たちが、この時のダビデの境遇に置かれていたとします。そして友達に、この言葉を以て励まされたとします。私たちはその時どんな気持ちになるでしょう。どんな反応をしてしまうでしょう。自分の事を想像してみました。私だったら非常に複雑な気持ちになるんじゃないかなということを思いました。気休めを言わないでほしい。人の気も知らないでと、そういう声が出てくるんじゃないかなという気がしたんですね。
どうしてかと言うと、ヨナタンというのはサウルの息子です。ヨナタンの立場は絶対に安全なんです。守られています。ところがダビデの状況は危機的な状況です。追い詰められていますね。ヨナタンとダビデの立場は180度違います。
そんなヨナタンから言われた言葉に対して、「 気安く言わないでほしい」と、そんな心境になってしまうんじゃないでしょうか。普通であれば、ちょっとムッとしてしまうようなところかなと思います。どんなに自分が厳しい状況に追い込まれているか、人の気も知らないで、とそうゆう叫びが出てくるような場面じゃないかなと思います。
人が人を励ますっていうのはとても大変なことじゃないかなと思いますね。人間的な関わりは、人の言葉というのには、限界があるように思います。励ましだと思った言葉も、実はあんまり役に立たないということだったり、逆にその人の迷惑になったり、傷つけてしまったり、追い詰めてしまったりすることもあるような気がいたします。こちらは善意で語ってるんですね。励ましだと思って語ってるんですが、受け止めるほうは、決してそうは受け止めないということがあるんじゃないかなと思います。東日本大震災の時に、そのことを経験いたしました。励ますつもりの言葉が、被災された現場の人にとっては、どんなに苦しい言葉になるかということですね。非常に身にしみて感じた経験があります。人間の言葉には限界があるということを改めて感じます。
でもこの場面においてヨナタンは、ダビデに対して気休めを言ったわけではない。確信をもって、この言葉を語っております。「恐れることはありません」というひとことをヨナタンは自信を持って語ることができました。ヨナタンが、そう語ることのできた根拠は何だったんでしょうか?ヨナタンは続けてダビデにこういう風に言っております。
「恐れることはありません。父、サウルの手があなたの身に及ぶことはないからです。あなたこそイスラエルの王となり、私はあなたの次に立つものとなるでしょう。父、サウルもそうなることを確かに知っているのです。」
こういう風にヨナタンは語っております。ヨナタンがここでダビデに提示したことは何でしょうか?それは次の王になるのは、「ダビデ、あなたですよ」ということです。つまりあなたはここで神様のご計画と、御心を提示しているということがわかります。
この時のダビデは、大変危機的な状況の中にありました。ダビデは、もう殺されるかもしれないと怯えてるわけですよね。でもそのダビデに、次の王になるのはあなたですよ、もうそれが決まってるんですよ、そういうことをヨナタンは語りかけています。実はその通りでした。
もうダビデが次の王になることは決まっておりました。そのことをダビデ自身が一番よく知っていた。どうしてかというと、ダビデはもう預言者サムエルから、油を頭に注がれて、次の王になることが示されていたからですね。そのことを彼は経験してるんです。そしてそんなことをサウルも知っている 約束です。その神の約束は決して変わらないということを、ヨナタンは信じてるんですね。
本来はヨナタンが王になるべきじゃないでしょうか。サウルの息子はヨナタンですからね。人間的な考えで言えば、ヨナタンが次の王になるべきじゃないでしょうか。ところが、ヨナタンはそうは言わないですね。
「次の王になるのはあなたです。それが神様の計画です。」これをヨナタンは信じていたからこそ、こう断言できたんです。「恐れることはない」これがヨナタンが、ダビデに助言できる根拠でありました。
この言葉によって、ヨナタンはダビデの思いを、神様の変わらないご計画に向けさせようとしていることがわかります。今は確かに厳しいですね。先が見えない状況です。もう危険が迫ってきています。本当にもう目の前のことしか見えないそういう状況だったと思います。そんなダビデに神様の御心は決して変わらない、神様の愛は変わらない、神様のご計画は変わらない、そして全ての状況の中に神様のご支配があるんだということに思いを向けさせています。ダビデにとっては何とありがたい友達だったことでしょうか。なんとありがたいヨナタンの友情だったでしょう。さすがのダビデも、この時には気落ちして、神様の愛も、み心も、わからない、自信を失いかけていたそういう状態だったんじゃないかなと想像します。
けれどもそんなダビデにとって、ヨナタンは、まさに神が備えてくださった助けでありました。こんな素晴らしい友人を持っているダビデは、本当に幸せだなと思います。
でも神様は、私たちのことも、同じようにして励ましてくださる方ではないでしょうか。同じ信仰を持つ友を通して、兄妹姉妹たちとの交わりを通して、私たちを励まし強めてくださる方ではないかと思います。
私たちも、神様を信じていても、気落ちしてしまう時があります。落胆して、元気を失ってしまうことがあります。先が見えなくなってしまうことがあります。神の愛も、みこころも、わからない、神様の存在が近くに感じられない、遠くに感じてしまうことがあります。
そんな時に神様は、同じ信仰を持つ仲間を通して、兄妹姉妹を通して、神の家族を通して、私たちを励ましてくださることがあるんではないでしょうか。ともに素晴らしい神様を覚え会うことを通して、共に変わらない神様のご計画と約束を確認し合うことを通して、みことばを通して、互いに励ましあったり、支えあったりできるのではないかと思います。ですから同じ信仰を持つ兄妹姉妹との交わりというのは、とっても大事です。
この交わりから離れてしまうことがないように、私たちは注意が必要だと思います。交わりから離れることによって、だんだん神様の恵みが感じられなくなってしまうということがあります。神様がだんだん遠くにいるように感じられてしまうことがあります。そして次第に自分の思いにとらわれやすくなるということがあります。そうならないために、私たちには、やはり同じ信仰を分かち合う仲間が必要です。ダビデのような偉大な信仰者でも、ヨナタンが必要だった。ダビデは素晴らしい信仰の持ち主ですね。本当に神様にまっすぐに向かい合ってた人です。けれども、そんなダビデでもヨナタンが必要だったんですね。そうであるとするならば、私たちにもやっぱり、同じような仲間が必要なんではないかという風に思います。私たちも皆、兄弟姉妹との交わりが必要です。与えられた交わりを大切にしていこうではありませんか。そして共に神様の素晴らしさを覚え合う、そのような交わりとしていきたいと思います。
このように神様は、ダビデをまずヨナタンを通して励ましてくださった。これが最初の内容ということになります。ダビデは本当に強められたと思いますね。
(2)その後の状況の展開と主の守り
それではこのヨナタンの訪問によって、ダビデの向き合っている状況は少しは良くなったでしょうか?その後の展開も見て行きたいという風に思います。
19節から読んで行きたいと思います。その後の展開にご注目ください。
19節「ジフ人たちは、ギブアのサウルのところに登っていって言った。『ダビデは私たちのところに隠れているのではありませんか。エシモンの南、ハキラの丘のホレシュにある要害に。王よ、今、下って行こうとお思いでしたら、下ってきてください。私たちが彼を王の手に引き渡します。」サウルは言った。主の祝福があなたがたにあるように。あなたがたが私のこと思ってくれたからだ。さあ行って、さらに確かめてくれ。彼が足を運ぶ場所と、誰がそこで彼を見たかを、よく調べてくれ。彼は非常に悪賢いとの評判だから。彼が潜んでいる隠れ場所をみなよく調べて、確かな知らせを持って、ここに戻ってきてくれ。その時、私はあなたがたと一緒に行く。彼がこの地にいるなら、ユダのすべての分団のうちから彼を探し出す」
その後の展開についてここに書いてありました。けれどもヨナタンの訪問によって大いに励まされたダビデではありましたけれども、ダビデの置かれている状況は基本的に全く変わっていませんし、ますます厳しくなっていったということがわかります。
今、読んだところより、ダビデのことを、サウルに密告する者達がいたということがわかります。ダビデが隠れていたところのジフ人たちがその事実をサウルに密告している様子が19節と20節の内容であります。ここを見るとジフ人たちがダビデの隠れている場所を詳しくサウルに教えているということがわかります。ダビデの隠れているところは、エシモンの南、ハキラの丘のホレシュにある要害ですと、細かく教えているわけですよね。
それはサウルにとっては実にありがたい情報なわけですね。ダビデがそこに隠れているってちゃんと教えてくれる人がいるということです。しかもその上にジフ人たちは、自分たちでダビデをとらえて、サウルの手に引き渡しますよなどという、提案までしてるわけです。
ここにダビデが置かれていた状況がいかに厳しかったかということが示されております。
当時のイスラエルでは、「密告」が奨励されていたということであります。ダビデが隠れている、その隠れているところを見つけたならば、その通報したものに対しては、おそらく何らかのご褒美が約束されていたと思います。これではもう、ダビデはどこにいても気が休まりませんね。誰を信頼したらいいのかも分かりません。本当にどこに隠れていても、誰かが隠れ家を言ってしまうんじゃないかという不安を、いつも抱えながらですから、ダビデがいかに追い詰められていたかがわかります。ジフ人たちの連絡を受けて大喜びしたのがサウルであります。サウルは20節で「主の祝福があなたがたにあるように」という風に言っております。神様の祝福を祈っていて、あたかも信仰があるかのような言い方をしておりますけれども、でもこのサウルの信仰が極めて自分本意の信仰であるということは、よくわかることだと思います。
いずれにせよサウルは大喜びして、じゃあそこからダビデを捕らえに出て行くのかと思ったら、そうではなくて、さらに綿密な調査をジフ人たちに依頼しています。
22節「さあ行って、さらに確かめてくれ。彼が足を運ぶ場所と、誰がそこで彼を見たかを、よく調べてくれ。彼は非常に悪賢いとの評判だから。」
そんなことを言っておりますけれども、要するにもう絶対に捕まえるという執念なんですね。これはこの言葉から、サウルがもう今度は絶対逃がさない、必ず捕まえてやるという、ものすごい強い執念を感じる言葉であります。ダビデを今まで何度も逃がしているので、今度は必ず捕らえるというそういう、強い思いを持って、ダビデに迫っているということがわかります。そんな準備を十分した上で、サウルは出てくるわけです。ダビデとその部下は、マオンの荒野と呼ばれる所に隠れていたわけですけども、その知らせを受けてサウルもマオンの荒野まで迫ってゆきました。もう逃げ場がないんです。とりあえずそこにあった岩山の影に逃げ込みましたけれども、サウルの一団も、そのダビデが逃げ込んでいたところを、追いかけて、迫ってくるその様子が記されてるのが、26節の言葉であります。
26節「サウルは山の一方の側を進み、ダビデとその部下は、山のもう一方の側を進んだ。ダビデは急いでサウルから逃れようとした。サウルとその部下が、ダビデとその部下をとらえようと迫ってきた時、」
ところがその時に奇跡が起きました。
27節「一人の使者がサウルのもとに来て『急いで来てください。ペリシテ人がこの国に襲いかかってきました』と言った。」
その知らせを受けてサウルはもはやダビデどころの話ではなくなってしまいました。急いで引き返して、ペリシテ人と戦わざるを得ない状況になってしまいました。そんなわけでダビデの近くまで迫ってきたそのサウルたちが、慌てて引き返していたという展開になったことがわかります。その後に残されたのはダビデとその仲間たち、そして今までサウルとダビデを隔てていたところの岩山だけが残っていた。その岩山を見ていた人はどう思ったでしょう。
もう感謝がこみ上げてきたに違いないと思いますね。神様が自分のために奇跡を起こしてくださった。私のことを守ってくださった。そのことを覚えてダビデは神様を崇めたに違いないと思います。
神様を知らない人であれば、このような展開も単なる幸運とみるに違いありません。助かったと喜んで終わってしまうのかなと思います。
ところがダビデは、神様を信じる信仰者でした。ですからこのような事態の展開の中に、神様の見えざる手が働いて、自分のことを守ってくれたと信じることができたわけであります。その場所は、その後、「仕切りの岩山」と呼ばれるようになったと、28節に書いてあります。
「仕切りの岩山」。誰が仕切って下さったんでしょうか?もちろん神様が仕切ってくださったんですね。サウルとダビデの間を仕切ってくださった。ダビデが、この経験を通してはっきりと神様を知るものとされたということは言うまでもないことであります。
今までもいろんなことがありました。もう今までも十分神様のことを知っていたと思いますね。でもこの経験を通して、さらにはっきりと、神様が守ってくれているんだということを確信できた、そういう経験であったということであります。
(3)ダビデの讃歌
そしてこのような体験をもとにして、詩篇18篇のこのような歌が作られたという風に私たちは考えることができます。そこでダビデは、こういう風に歌ってるんですね。
「主は、わが巌、わが砦、わが救い主、身を避けるわが岩、わが神。わが盾、わが救いの角、わがやぐら。褒め称えられるかた。この主を呼び求めると、私は敵から救われる。」
この詩篇18篇を見ていただくと分かるんですけれども、冒頭にに表題がついております。そこに、こういう風に書いてますね。「指揮者のために。主のしもべダビデによる。主がダビデを、全ての敵の手、特にサウルの手から救い出された日に、彼はこの歌の言葉を主に歌った」と、そういう表題がついておりますね。ですからこの詩篇18篇はおそらくこの時に作られた歌ではないかなというに想像されるわけであります。
ダビデにとってこのかたは、我が愛、わが砦、わが救い、などと賛美が止まらないんですね。もう次々と神様を褒め称える言葉が次から次にと溢れ出てくるんです。そういう心理状態になってるということが分かります。しかも全ての言葉に、「わが」という言葉がついてますね。これは「私がよく知っている神様」ということですね。私が個人的によく知っている神様。ダビデにとって、このかたのことを、いかによく知っているか、そしてその知っていることに感動しているかが、豊かに伝わってくる詩篇であります。
そのような詩篇を通して、私達は考えさせられますよね。私たちは果たしてこのかたを本当によく知っているでしょうか?本当に私の個人的なと呼べるくらいこのかたのことをよく知っているんでしょか?知識だけではなくて、経験を通して知っているんでしょうか?主が守ってくださるということを、私たちは経験したでしょうか?そして私たちにとっても、この方は私の巌、私の砦、私の個人的な救い主と、呼べるそのような存在になっているかどうか?そのことを、このような言葉から考えさせられることではないかと思います。
今日の箇所から、私たちは、神様は私たちのことを守ってくださる方であるということを、是非覚えたいと思います。そしてその経験を通して私たちの口にも賛美を与えてくださる方であるということを是非覚えたいという風に思います。
自分の心を絞り出して、どんなに頑張っても、賛美は出てきません。賛美は神様が私たちの口に与えてくださる歌ですね。神様がどんなに素晴らしいかということを、日々の歩みの中で経験する中で、自然と湧き上がってくるのが賛美だと思いますね。
本当に主は守ってくださる、本当に主は羊飼いである、こんな危険な中から自分を守ってくださった、ということが分かるからこそ、賛美が生まれてくる。そのことを私たちは覚えるものでありたいと思います。
3.全てを支配しておられる神様への信頼
今日の箇所を通してもう一つ覚えたいことは、神様が全ての状況を支配しているということです。一体どうして、このタイミングで、ペリシテ人がイスラエルに攻めてきたでしょうか?
考えられないような絶妙なタイミングですよね。ペリシテ人がイスラエルを攻めてくるその状況がちょっとでも遅れたら、少しでも遅れたら、タイミングがずれたら、ダビデは間違いなく捉えられていたでしょう。そしてダビデは殺されていたかもしれないですね。このギリギリのタイミングでイスラエルが攻めてきたという知らせが届いた。
誰がそういう風に導いてるんでしょうか?神様が全てを支配しておられるということを、この箇所から教えられるんではないでしょうか。
ダビデの人生は勿論です。サウルの人生も勿論です。イスラエルのこともしかり、しかもペリシテ人のことまで全部見渡したうえで、一番いいタイミングで、ダビデが神様を知ることができるように、導いてくださった。目に見えないその状況の中で、素晴らしい神様の御手が、背後に働いていることを、是非覚えたいと思います。
4.まとめ
私たちは目の前のことしか見えません。ダビデのように、目の前のことしか見えなくて、とにかく逃げるしかない、そんな日々の連続であります。けれども、私たちの神様は、もっと素晴らしい、もっと偉大な神様ですね。全ての事を支配して自由に導いてくださいます。私たちに最善を成してくださる方です。その方に、私たちは信頼しようではありませんか。
願わくはこの一週間も主の御守りと導きが私たち一人一人に豊かにありますように。そして私たちがこの方をさらに深く、はっきりと知るものとなりますように。そのような一週間んとして歩んでまいりたいと思います。
お祈りをいたします天の父なる神様。私たちの助けは天地を作られた、あなたから来ること覚えて感謝します。この世界と歴史の全てを支配している主権者なるあなたから、わたしたちが助けられるという、その素晴らしいめぐみ覚えて感謝します。この恵を豊かに体験できるように、この一週間もどうぞ私たちを守り導いていてください。あなたの御名をほめたたえます。尊い主イエスキリストの御名によってお祈りをいたします。