まず私達が求むべきこと、それは「神の国と神の義」・・・マタイ伝6章33~34節
2.何を求めるべきか—-「神の国とその義を、まず第一に求めなさい」
さていったい何を求めたらいいんでしょうか?
私たちが求めるものは何でしょうか?
「神の国とその義を、まず第一に求めなさい」と、命じられています。
まず私たちが求めるべきものは「神の国」ということです。
私たちはイエス様を信じ、救い主として信じ受け入れた時に、救われました。救いの恵みにあずかり、そして実は神の国という神様が支配する国の民になりました。この世から、あがない出されて、神の国の住民とされました。それが救われたということの意味であります。
神の国というのは神様が中心の国です。神の国の王様というのは神様ご自身です。そこ生きるのは神の力によって生きます。神の御言葉に従って生きます。それが神の国の民です。
でも私たちどうでしょうか?
救われた後もこの「神の国」を求めないままで時を過ごしてしまうことが多くあるんではないでしょうか?
そしてむしろ神の国を求めるよりは、自分の国の中で生きてしまっているということが多くあるのではないでしょうか?
自分の国という狭い国の中に、閉じこもって生きていることがあるんではないでしょうか?
その自分の国の王様はもちろん自分ですね。そこでは自分の人生、自分の価値観、自分の判断、自分の計画、自分の目的が全てです。そしてそんな自分の国の成功と繁栄を求めて、時々神様に祈ったりするかもしれません。そのような祈りをも、もちろん神様は聞いてくださいます。
でも神様には、もっと願っておられることが別にあるんです。それは神様には神様のご計画があり、目的が、みこころが、あるんです。神の国をこの地上にもたらすという、神様ご自身の目的がある。その目的に沿って私たちが歩んでいくことを、神様は私たちに願っておられる。そのために私たちは、贖いだされ、救われて、神の子供とされたんではなかったでしょうか?
旧約聖書の箴言16章4節にはこう書かれています。「主は全てのものを、ご自分の目的のために作り、悪者さえも災いの日のために作られた」。神様は全てのものを、ご自分の目的のために作られたのです。
私たちは、もともと神様の目的のために作られていたんですね。創造主なる神様の目的に沿って生きることができるように作られたはずなんです。 ですから私達は、その目的に沿って生きている時が一番幸せなんです。
しかし私達はそんな神様に背を向けて、神の御心を無視して、自分勝手な道に向かって行ったと、聖書にそう記されてあります。イザヤ書53章6節「私たちは皆、羊のようにさまよい、各々自分勝手な道に向かって行った」。
でもそんな、さまよってる私たちをイエス様が追いかけてきて、羊飼いであるイエス様が、探し出して見つけ出して、そして私たちは神様を中心とする新しい世界、神の国へと導いてくださったのではなかったでしょうか。それが私たちに与えられた恵みだったはずです。
それなのに、そんな恵みを与えられた私たちであるのに、その後も神の国の民として生きることを拒んで、結局は自分という狭い国の中にしがみついて、その中に閉じこもって生きてしまっているということが、往々にしてあるのではないでしょうか?
自分の夢、自分の計画、自分の目的の方が優先であり、神様のみことばや、みこころが、二の次になってしまう。その結果私たちは、神を求めるということ、神の国を求めるという事に関して、あまり真剣ではない、あまり積極的ではない、そういう状態のままやり過ごしてしまうことが多いのではないでしょうか。
イエス様は、私たちに、「求めること」に積極的になることを願ってますね。そして私たちの心の内に、神様が与えたいと願っておられる良いもので一杯にしてほしいと願っておられるんです。それは神の国を求めて欲しいんです。それがイエス様の願いなんです。神様を中心とする生き方、神様を王として、その方に支えていくその生き方、その歩み、「神の国」を求めていくことが私たちの使命です。その求めるということにおいて、もっともっと積極的でありたいと思います。