教会を建て上げるために必要なこと?・・・エペソ書4章11~12節
かつて初代の牧師先生はこの教会が、人でいっぱいになるようにと祈っておられたということを伺っております。その祈りが叶えられて、いまや沢山の人が集っていますが、それは本当に感謝なことではないかと思います。
と同時に私たちは今、一つの訓練の時を与えられているんではないだろうかというふうに思っております。
たくさんの人が集まるということは、つまりそれだけいろんな方がいらっしゃるということであります。考え方、好み、立場、いろんな違いがあります。もし私たちが神様を中心にし、みことばを中心にしないで、自分の気持ちを優先していたら、途端に教会はバラバラになってしまうんではないかなと思いますね。ですから今、私たちは個人としてはもちろんですけれども、教会として成長していくための、とても良い訓練の時を与えられているということではないかと思います。そして、それにふさわしい御言葉が毎回与えられていることに、感謝したいと思います。今日も私たちにとって、必要な御言葉が与えられています。その御言葉に耳を傾けていきたいと思います。
今日は結論から先にお話したいと思いますけれども、教会にとって、大切なものが三つあるというお話をしたいと思います。一つは指導者が大切です。2番目に信徒たちが大切です。そして3番目に指導者たちと信徒たちがよく協力し合っているということが大切です。その時に教会が建てあげられていくということですね。
そのことを、御言葉を通して確認をしていきたいというふうに思います。
1.第一に教会には指導者が大事である。
11節の御言葉をお読みいたします。
「こうしてキリストご自身が、ある人たちを使徒、ある人たちを予言者、ある人たちを伝道者、ある人たちを牧師また教師として、お立てになりました。」
このように記されてあります。パウロはここで、教会の中の役職のことを説明しているわけではありません。あるいは組織の説明をしているわけでもありません。もし教会の役職の事を言うのであれば、監督、長老、執事というそういう言葉になっただろうと思います。ここでパウロが教えているのは教会の役職ではなくて、務めについてであります。教会が教会であるために必要な務めについてここで教えている。しかもその務めというのは、単なるお仕事ではなくて、人であるという事です。
ある人たちを使徒、ある人たちを予言者、ある人たちを伝道者という具合に、ある人達が特別に立てられて、その人たちに大切な務めが、キリストご自身から与えられているんだよ、ということを、ここで私達は覚えることができます。
ここに記されているいろんな人たちが出てまいりますけれども、この人たちは当時の教会の指導的立場に置かれていた人たちであると考えることができます。当時の教会に使徒と呼ばれる人たち、預言者、伝道者、牧師、教師、そう呼ばれる指導者たちがいたということが、聖書のいろんな箇所をとおして確認することができます。この箇所を読んで私は少し羨ましいなという風にちょっと思いました。当時の教会は牧師だけではないですね。牧師の他に、預言者も伝道者も教師も色々いらっしゃったんだなと思いました。今の時代は多くの場合、牧師が全部やってるんじゃないかなというふうに思いますね。牧師が、あるときは予言書となり、ある時には伝道者であり、ある時は牧者であり、ある時は教師である、と一人で3役4役ぐらい、やってるのかなと思います。大きな教会に行きますと、牧師の他に、伝道者がいたり、あるいはカウンセリング専門のスタッフがいたり、そういう教会もありますけれども、日本のほとんどの教会は、牧師が全部やっているというところが多いんではないかなというふうに思います。ただここに出てくるいろんな人たち、いろんな勤めがありますけれども、共通点があります。それはどの勤めも、どの指導者達も、御言葉を伝え、御言葉を教える務めであるということであります。使徒たちも、予言者も伝道者も、牧師も、教師も、務めの内容は少しずつ違うけれども、皆、御言葉を伝え、御言葉を教える指導者たちであるということ、それはつまり教会の基礎は、御言葉であるということであります。
パウロもエペソ書2章20節で、「教会は使徒達や預言者達という土台の上に建てられていて、キリスト・イエスご自身が、その要の石です。」と、もうすでに、教えていました。この使徒達や預言者達が教えるところの、御言葉が教会の土台であり、その御言葉の上に教会が建てられていくということが、もうすでに教えられていたことであります。教会の土台は、御言葉であり、今にちの牧師に与えられている務めも、まさに御言葉を伝え、御言葉を教えるのが務めであるということを、ここから私たちは覚えたいというふうに思います。ここから私たちが覚えたいことは、教会の指導者というのは、キリストによって立てられているということであります。キリストご自身が立てられた器であると書いていますね。そのことのゆえに、大切にされなければならないという働きであるということを、私たちはともに覚えあいたいと思います。どうでしょうか?私たちの中には、もしかすると、牧師の持っている人柄であったり、魅力であったり、個人的なつながりのゆえに、その牧師を尊敬したくなったり、あるいは逆に、軽んじてしまいたくなったり、そんな傾向が時々見られることがあるんではないかなと思いますね。前任の牧師が、誰からも尊敬される、非常に立派な人格者だった場合、その後に来る牧師が大変苦労するということが時々あるようですが、どうしても比較されてしまいますね。前の先生と比べて、あーだ、こーだと、いろんなことを言う人が出てきたりしますね。私たちの牧師に対する尊敬を決めてしまうのは、牧師の持っている人格とか、私たちの好みであっていいんでしょうか?その点において私たちは、注意が必要かなと思いますね。もし牧師が尊敬されなければならないのであるとするならば、それはキリストが、その人を立てているというその事実にあるということであります。
キリストご自身が、ここに書いていますように、キリスト自らが、その人を選ばれたということです。そこにはキリストの思いが込められています。 この人でなければならないという、どうしてもこの人を立てたいという思いが、キリストの思いが込められている。そのようにして立てられている器であるからこそ、私たちはその指導者たちを相応しく敬っていくということが、求められているということですね。人柄とか、自分自身の好みとか、そういうことで評価が決まってしまうようなことがないように、そのことのために重んじられたり、軽んじられたりすることがないように、キリストが立てられているということの尊さというものを、私たちは共に共通理解として持っておきたいというふうに思います。
そしてもう一つ、ここから教えられることは、牧師の第一の務めは、御言葉を伝えるということ、御言葉を教えるということであります。牧師の仕事っていうのは実はたくさんあるんですね。日曜日こうやって皆さんの前でお話しするだけではなくて、普段の生活の中では訪問もしますし、相談にものります。週報を作ったり、諭したり、買い物に出かけたり、手紙を書いたり、記録を取ったり、近所に挨拶に出かけたり、お客様の接待をしたり、雪が降れば雪掻きもします。いろんな仕事があります。それで牧師も時々忘れてしまうことがありますね。あまりにもやるべきことが色々あって、一番大切な努めを、牧師自身が見失ってしまうということがあるんですね。そして教会もそのことに気づかないで終わってしまうということがあります。
でも今日、私たちはこの箇所から覚えたいと思います。牧師に委ねられている一番大切な働きは、御言葉を語るというその勤めですね。そのためにキリストがその人を立てておられるということであります。ですから牧師はその勤めに一番忠実でなければいけないということです。なぜならば御言葉が教会の土台だからです。土台作りをおろそかにしたら、教会は建っていかないですね。特に説教が大事です。教会が教会であるために必要なものが、説教であるということを、最近の信仰問答でも学べましたけれども、その務め、その大切な勤めのために牧師が立てられているということを、ぜひ覚えたいと思います。是非皆さん、牧師がちゃんと御言葉を語っているかどうか、見張っててください。与えられた務めをきちんと果たしてるかどうかちゃんと見張っててください。もし牧師がちゃんと御言葉を話してないとするならば、是非そこを突っ込んで欲しいなと思いますね。是非忠告して欲しいと思います。そして是非祈って欲しいと思います。本当に毎回毎回、御言葉を、神の言葉を、大胆にまっすぐに語ることができるように、それが教会の土台ですから、その上に皆さんが建てられていくわけですから、本当にその務めに忠実に励むことができるように、皆さんの祈りも求められております。そのようにして教会の指導者たちを、重んじていくことができたならばと思います。まず教会には、指導者が大事であるということを覚えたいと思います。
2.二番目に教会にとって、信徒が大事です。
そのことを次に覚えたいと思います。
なぜキリストは、何の目的のために、教会に指導者をお立てになったんでしょうか。次の12節を読んでみたいと思いますが、こういう風に書いてあります。
「それは聖徒たちを整えて、奉仕の働きをさせ、キリストの体を建て上げるためです。」
なんのためにキリストが、指導者たちを立てられたのか、その目的がここに書いてあります。
二つの目的がありますが、1番目の目的は聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせるためである。そのために立てられている指導者であるということが分かると思います。
聖徒達と書いてますが、これは信徒たちのことです。信徒たちのことを聖徒と呼んでくださる恵みがそこに表されておりますけれども、いずれにせよその聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせるということが目的なんだということがここで教えられております。
ここで皆さん気づくと思うんですね。それは信徒たち、つまり私たちは、まだ実は整えられていないということです。私達はまだ十分には整えられていないんです。
教会に集められた時は、整っているから集められたわけじゃないんですね。実は整えられていないから集められた。昔、「ふぞろいの林檎たち」というドラマがあったと思いますけれども、教会は実は「不揃いの聖徒たち」ですね。集まった時にはいろいろ揃ってないです。十分に整えられていない状態です。どこかにとんがっている、どこかに凸凹なところが残ってるんじゃないでしょうか。どこか自己中心だったり、強情だったり、傲慢だったり、冷淡だったりするんじゃないでしょうか。そのことの故に、一つに集められても、なかなか上手く組み合うことができないということが実際に起こるんじゃないかなと思います。その結果、教会の中に冷たいすきま風が吹いてしまうことがあります。聖霊の熱い風ではないです。極めて人間的な冷たいすきま風が、時々教会の中に吹いてきてしまうことがあるんじゃないかなと思いますね。
そうなると、教会の結束がだんだん弱くなっていって、最後にはバラバラになってしまうということが、本当に起こるんですね。気をつけてないと、本当にそういうことになるわけです。何が原因なんでしょうか?どうしてそういうことが起きるんでしょうか?それは私たち一人ひとりが、十分に整えられていないというところに原因があります。その自覚もないままに、互いにさばきあったりしてしまうことも、私たちに多いかなと思いますね。自分があたかも整っているものであるかのような、自分をあたかも立派なものであるかのような振る舞いをしてしまうとしたら、それは非常に愚かなことであります。私たち、みんな一人一人、でこぼこです。とんがってるところがあります。頑ななところが残ってます。整えられていないんです。その私たちは皆、整えられなければならない。何によって整えられるんでしょうか。
御言葉によって整えられていきます。そして御言葉によって働かれる聖霊を通して整えられていきます。御言葉が語られる時、聖霊がそこに働かれる時に、私たちは自分の姿を示されるんではないでしょうか。そして砕かれます。悔い改めに導かれます。へりくだらされます。そのようにして私たちは、少しずつ少しずつ、聖められ、整えられて、そして互いに組み合うものにさせられていくという、神様の導きがあるんではないでしょうか。私たちは、整えられなければならない一人一人であるということを、ぜひ自覚するものでありたいと思います。そして整えられていくときに、私たちは奉仕するものに変えられていきます。
今までの私たちは、基本的に自分のために生きてきたと思います。自分の幸せのために、自分の満足のために、自己実現のために、私たちは基本的に生きてきた一人一人だと思います。けれどもしかし、整えられて行く時に、御言葉によって、聖霊によって、私たちが整えられて行く時に、私たちは少しずつ神のために、キリストのために生きるものに、変えられていきます。自分の栄光よりも、神様の栄光をあらわす、そのような願いが与えられていきます。主のために奉仕するものに自分の生き方が変えられていく、それもまたみことばと聖霊の働きであるということを、私たちは覚えあうことができると思います。そのために私たちにとって必要な理解は、神様の恵みが、一人ひとりに注がれているということであります。これは先週学んだことでした。7節に「私たち一人ひとり、キリストの賜物のはかりに従って恵みを与えられました」そう書いてありました。私たち一人ひとりに恵みが与えられたんです。教会全体に恵みが与えられたと、パウロは言っているんではないんですね。私たち一人ひとり、つまり皆さん一人一人に恵みが与えられましたと言うことが前提なんです。どんな恵みが与えられたでしょうか?私たちにはそれぞれにふさわしい賜物が、ふさわしい分、与えられている。それぞれ皆さんに与えられています。賜物が与えられている、そしてイエス様がこの地上に降ってくださったことによって、罪に対する勝利を与えてくださった。これも恵として与えられています。そして天に帰られたイエス様が、なんと天から私たちに聖霊を送ってくださった。私たちは聖霊によって満たされる。これは全部賜物です。全部ただで与えられた恵みです。無条件に与えられた恵みです。本当に弱さを覚える、また罪深い、頑なな、与えられる価値が何もないような私達の事を、キリストは本当に心にかけて覚えてくださって、なんと溢れるばかりの恵みを一人一人に与えてくださっていることでしょうか 。そのことが分ればわかるほど、私達はこの方のために歩んでゆきたい、奉仕したいという気持ちが与えられてゆくんではないかなと思います。ですから私達にとって大事なことは、一人一人にキリストが恵みを注いでくださっているということであります。この教会も多くの方々の、多くの奉仕によって、教会が支えられていることを感謝しております。神様との関係の中でどんな賜物を与えてくださったんだろうか?どんな恵みを注いで下さっていたんだろうか?そしてどのような形で今年は主にご奉仕できるだろうか、是非祈ってみてほしいなと思いますね。その時に是非与えられてる恵みを味わうところから始めていただきたいと思います。その時に私たちは本当に感謝して、主に奉仕するものに変えられていくということを心にとめたいと思います。そのようにして主にお仕えできたならば幸いなことだなあと思います。
3.指導者と信徒たちが、御言葉を通してしっかりと組み合って行く
このように教会には指導者が大事であり、そして信徒たちが大事であります。指導者たちが、御言葉を教えるということ、御言葉を語るということ、そして信徒たちがその御言葉によって整えられるということ、つまり指導者と信徒たちが、御言葉を通してしっかりと組み合って行く時に、そこに一体何が起こるんでしょうか。
3番目にそのことを見ていきたいと思いますが、その時に教会が建てられていくっていうことが、ここで教えられていることであります。
12節もう一度読みますが、「それは聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建ち上げるためです。」
このように教えられております。指導者たちが立てられた、キリストによってたてられたのは、信徒たちを、聖徒たちを整えて、ふさわしく整えて、奉仕の働きをさせるということ、そして最終的にはその結果として教会が建てあげられてゆくこと、それが目的であるということがここからわかることであります。
パウロはここで教会のことを、「キリストのからだ」という言葉で表しております。キリストのからだを建て上げるためですと、ここに記してあります。
皆さんこの言葉は、なんか変だなと思った方はいないでしょうか。少し言葉の使い方がおかしいんじゃないだろうかと感じた人が、もしかしたらいたかもしれません。「からだ」という言葉を使う時は、普通は「体を鍛える」という言い方をします。あるいは「体を強める」とか「体を丈夫にする」っていう言い方をしますね。「体を建てあげる」と言い方はあまりしないんじゃないかなと思いますね。少し日本語の使い方が変な感じがするんじゃないでしょうか。この点、ギリシャ語でも全く同じでして、ここで「建てる」と訳されているギリシャ語の言葉も、基本的には建物や家を建てるという時に使われる言葉です。ですから体を建て上げるという時には使わない、そういう言葉が使われています。
でもパウロはあえて意識して、この「建てる」という言葉を使っております。この言葉にこだわりがあるんですね。どうしてパウロはこの「建てる」という言葉を使ったのか?
この「建てる」という言葉は、実は聖書の中で常に大事な言葉です。何度も何度も繰り返し出てくる大切な言葉です。例えば預言者エレミアはエレミヤ書31章4節にてこのように語っております。
「乙女イスラエルよ。再び私はあなたを建て直し、あなたは建て直される」
預言者エレミアの時代というのは、北王国イスラエルはもうすでに滅んでおりました。そして南王国ユダも、もう間もなくバビロンという帝国に攻められて滅ぼされてしまうというそういう緊迫した時代状況の中にありました。あのダビデとソロモンによって建てられたところの、そしてあの繁栄したイスラエル王国は、もう間もなく滅んでしまうというそういうタイミングであります。そしてその王国は完全に滅ぼされてなくなろうとしている。それはもちろんイスラエルの民の、神様に対する不従順と、罪の結果でありました。そのようなイスラエルにとって極めて深刻な状況の中にあって、神様は預言者エレミアの口を通して、イスラエルに約束をしてくださった。
それは、今は滅びる、今はなくなるけれどもしかし、再び私はあなたを建て直す、あなたを建て上げる、そしてあなたは建て直される。そういう約束がきちんとなされていたわけであります。そしてそれから数百年して、イエス様がやってきました。メシアの到来、イエス・キリストが来てくださって、そしてイエス様はある日、ペテロに言ったんですね。「あなたはペテロです。私はこの岩の上に、私の教会を建てます。」このようにペテロに語りかけました。その前の場面で、ペテロは立派に信仰告白をしました。「あなたは生ける神の子、キリストです」とイエス様に向かって立派な信仰告白をした。その後にイエス様は、そのペテロに向かって、「あなたが今告白したその信仰の告白の上に、教会を建てる。」という風に約束してくださった、そういう言葉であります。この同じ、「建てる」という言葉をパウロは、ここであえて使ったと考えることができる。つまりこの「建てる」という言葉を使うことによって、教会が建てられるということはすごいことなんだよということを、伝えようとしてるわけです。これは神様の永遠のご計画の中にある、大切な働きの前進なんだよということ、これは神様の約束の成就なんだよと、神様はもうずっと前に計画されていたその秘められた計画が、今ここに実現したんだよ、ということをこの「建てる」という言葉で伝えようとしている。教会というのはそれだけの尊い働きであるということを、私たちはここから教えられるんではないかなと思いますね。
教会が建てられるために、神様もずっと前から準備をしてくださっていた、そしてイエス様も、イエス様の時代には教会は建ち上がりませんでしたけれども、でもいずれ教会が建つための準備をしっかりしてくださっていた。そして時が叶って、教会が建った今、まさにそれが建っているというその事を、今ここで教えている。そのことを通して私たちは、教会というものが、如何に神様の期待を担った大切な働きであるか、大切な存在であるかということを、私たちは教えられるわけであります。
それではどうして「教会が」、建てられるとパウロは言わなかったんだろうか。ここでパウロは教会のことを、「キリストのからだ」という言葉で表しておりますけれども、どうして教会という言葉は使わなかったんでしょうか?「キリストのからだ」という言葉を使ったんでしょうか。そこにもパウロの気持ちが込められております。そのことも覚えたいと思います。
「からだ」という言葉を使っております。「からだ」にとって大事なことは何でしょうか。それはその「からだ」が健康であるということだと思います。皆さん時々病院に行かれるかと思います。膝が痛かったり、腰が痛かったり、肩が痛かったり、頭痛がしたりして、病院に行って診てもらうことがあると思います。悪いところはちゃんと直してもらうと思います。それは私たちの健康が保たれるためです。つまり体にとって大事なのは健康であるということです。教会も同じです。教会にとって一番大事なのは教会の中身です。教会にとって最も大事なのは、この建物ではないんです。あるいは組織でもないんです。教会の中身です。教会の中身が、本当に健康であるかどうか、健康が保たれているかどうかが、大事なことであります。一つ一つの機関、一つ一つの部分が、ちゃんとキリストと繋がっているでしょうか。キリストが頭でありますが、その頭であるキリストに、ちゃんと繋がって全体でひとつに統一されているでしょうか。一つ一つの器官が、与えられた役割を十分に果たしながら、全体として一つの体を構成しているでしょうか。そしてそこに命があるでしょうか。命がみなぎっているでしょうか。それが教会にとって一番大事なことです。そのことをパウロはここで「キリストのからだ」という言葉をあえて使うことで教えようとしているということが分かるんではないでしょうか。皆さんも時々健康診断してもらうと思います。血液検査をしたり、尿検査をしたり、心電図撮ってもらったり、内臓のエコー検査、視力検査、聴力検査、いろんな検査がありましたけれども、いろんな検査をしてもらって、それらの器官がちゃんと健全に機能しているか、働いてるかどうか、チェックしてもらうことが、時々私たちに必要ですけれども、教会も年に1回ぐらい健康診断をしてもらった方がいいんじゃないかなというふうに思いますね。
私たちの内部の、一つ一つの器官が、与えられた神様からの務めを果たしながら、ちゃんと機能しているでしょうか。すべての器官が、本当に頭なるキリストに繋がっているでしょうか。全体でひとつに統一されているでしょうか。そして私たちは本当に頭なるキリストの命令に従って動いてるでしょうか。
私たちの体は全部、脳の指令に従って動いておりますね。そのように私たちは本当に頭であるキリストの指示通りに動いているんだろうか、そして全体として一つにされているのかどうか、そういう健康診断が必要なんじゃないかなというふうに思うんですね。そして大事なことは本当に私たちはここに命があるでしょうか。生きているでしょうか。生命力があるでしょうか。私達は本当に健康な教会かどうか?そのこといつも御言葉を通して点検していく必要があるということを覚えたいと思います。是非私たちは健康な教会を目指していきたいと思います。そして生き生きとした教会、生命力に溢れる教会、ここに命があるというそういう教会を目指していきたいなというふうに思います。そのために立てられた指導者たちが、ますます御言葉を生き生きと語ることができますように、そして信徒たちがその御言葉によって、本当に整えられて、養われて、奉仕することができますように、そのような両者の働きによって教会がキリストの体として建てられていくということを、ぜひ今日の御言葉から覚え会いたいというふうに思います。是非私たちがそのような教会としての成長を経験することができますように。そしてそのようにして神様の栄光を現していくことができるように、み心に従っていくことができるように、共に祈りあっていきたいと思います。
お祈りをいたします。恵み深き私たちの父なる神様。本当に私たちを恵の故に、この所に集めてくださって、あなたの尊いお働きのために用いてくださることを覚えて感謝します。まだまだ整えられていない、不十分な私たちですけれども、しかし、あなたはここにおいて、みことばを語り、私たちを養い整えてくださることを覚えて、感謝します。どうぞ牧師が、これからもはっきりとみことばを語ることができるように助けてください。そしてどうか信徒たちが、その御言葉によって、よくよく整えられて、そして成長していくことができるように、あなたに喜んで奉仕することができるように、さらに豊かな恵みを一人一人に示して下さいますようにお願い致します。そのようにして教会として、あなたの御心を表して行くことができるように続けて導いてください。み言葉を心から感謝し、イエスキリストのみなによってお祈りをいたします 。どうなんだろうなんだこれ