どうして怖がるのか
マタイの福音書8章23~27節 ( 聖書本文は最下部)
8章23節をお読みしたいと思います。
という節からこの話が始まっていきますけども、イエス様はこの時カペナウムという街で働きをしていました。その働きを終えて船に乗られました。ガリラヤ湖の対岸の地域に向かって行くためです。それと弟子たちもイエス様に従ったとここに記されてあります。船に乗る順番は、まずイエス様が最初だったっていうこと、そしてその後、弟子たちがそのイエス様に従ったとそういう順番になっているということがわかります。つまり今日の箇所の内容は弟子たちがイエス様に従った結果起こってきたことでした。イエス様に従った結果与えられたものであったということが分かると思います。
1.嵐に遭遇
この前の箇所において、先週の箇所でしたけども、イエス様は、弟子 としてイエス様に従っていくものとしての覚悟、あるいはその心構えを教えておられました。一人の弟子に向かって、「私に従ってきなさい。死人達に彼ら自身の死人たちを葬らせなさい。」という風に話しておられました。父親の葬儀は他の人におまかせをして、あなたは私に従ってきなさい、そういうやりとりがあった。直前の場面でそういうやりとりがあったということを私たちを教えられました。おそらく12弟子は、そのイエス様のやり取りを見ていたと思いますね。そしてその様子を見ながら、本当に身が引き締まるそんな思いだったんじゃないかなと思いますね。イエス様に従っていくっていうのは、こういうことなんだっていうことを教えられたと思います。
その上で彼らはイエスに従った。そこから今日の話が始まっているんですね。 したがってきた結果起こってきたことが 、湖での経験だったということです。イエス様に従っていくと平穏無事な人生が約束されているかというと、そういうことではないということでしょう。信仰者の歩みの中にもやっぱり色々な嵐がやって来るって言う事を、ここから私たち教えられるんではないかと思います。24節の冒頭でマタイは、「すると見よ」と私たちに呼びかけておりますね。この時の状況の劇的な変化、さらにその時の弟子たちの様子、そしてイエス様がそこで取られた対応、それらの一連の出来事に目を向けなさい、ここに注目すべきことが記されていますって、マタイはあえてそういうことを書いてますね。そういう風にして私たちを促した上で、今日の話が始まっているということが分かる。
何が起こったんでしょうか?まず湖は大荒れとなり船は大波をかぶるようになりました。それまで穏やかだった天候が急に変わったということがわかります。ガリラヤ湖は地形の関係で天気が急変するということがよくあるんだそうです。この日も突然強い風が吹いてきました。そして湖が大荒れになってしまった。そしてその水が大波となって船の中に入ってくるくらいの嵐だったということであります。それで弟子たちは大慌てするわけですけれども、驚きなのはこの嵐の中にあってイエス様はお眠りになっていたということであります。弟子たちはイエス様のもとに駆けつけまして、イエス様を起こしました。そして言いました。
このように訴えて彼らは、イエス様に必死になって助けを求めているということがわかります。明らかに弟子たちは自らの死を意識しています。そしてその死の恐怖に心がとらわれてしまいました。それまでの弟子たちの心というのは、おそらくも本当に弟子とされたことの喜びでいっぱいだったんじゃないかなと思いますね。イエス様による深い教えをたくさん聞いて、さらにイエス様によってなされる数々の御業を目撃して、本当にこの方の弟子とされたということを彼らは喜んでいたんではなかったでしょうか。連日のようにたくさんの人々が、イエス様のもとに押しかけてくるその様子を見ながら、このイエス様の弟子とされた事が誇らしくも感じられていたのではなかったかと想像します。
ところがこの状況の急激な変化の中、彼らの心の平穏も一瞬のうちに失われてしまいました。そして彼らは今必死になってイエス様に助けを求めた。
しかしその後、もっと驚くべき事が起こりました。イエス様起き上がりました。そして何をしたでしょうか?何と、「風と湖を叱りつけられた。」と書いてあります。すると嵐は静まり、すっかり静かになりました。それまで風も波もあれに荒れて混乱していたのに、そのことがまるで嘘であったかのように過ぎ去って、あたりは静かになった。そのような状況の大きな変化の中で、弟子たちの驚きも二転三転していったことだろうと思います。
穏やかだった天候が変わって、湖が大荒れになったことにまずは彼ら驚いたと思います。そしてその中にあってイエス様が眠っておられる姿に、また驚いたと思います。そのイエス様が起き上がって、風と湖を叱りつけたら静まったということにさらに驚いたと思います。
もう弟子たちはこの時、驚きの連続を経験しましたね。これは彼らにとっては衝撃的な経験だったということになるんだと思います。この嵐の経験を通して、彼らは一体何を学んだんでしょうか。
2.自らの弱さと主の力強さ
弟子たちはこの経験を通して三つのことを学びました。
まず初めに自分自身の弱さと限界について本当に彼らは教えられたと思います。それまでも弟子たちはおそらく自分自身に自信を持っていたのだと思います。少し自惚れていたんではないかと思います。彼らのうちの何名かは元漁師でした。このガリラヤ湖で漁をしていた漁師たちでした。ですから船の子と湖のことについては自信を持っていたんじゃないかと思いますね。そういうプロ意識をきっと持ってたんじゃないかと思います。
しかしそんな彼らでも、この状況の変化には全く太刀打ちできませんでした。太刀打ちできなかっただけではなく、心が恐怖に捕らわれて慌てふためいてしまいました。恐ろしくなってしまいました。その情けない姿をイエスまの前にさらけ出してしまいました。自分たちがいかに弱いか、いかにもろいか、状況の変化によってこんなにも変わってしまう、自分の不甲斐なさっていうものを、この時に彼らはとことん思い知らされたんじゃないでしょうか。状況の変化によっては、自分の弱さをさらけ出してしまう自分自身のもろさを彼らは本当によく理解できたんではないかなと思うんですね。特に死を前にして、いかに自分が無力であるか、いかに恐ろしくなってしまうのかっていうことを彼らは経験したんじゃなかったかなと思います。ちょっと前、ほんの少し前までは生きていることの充実感にあふれていたこの弟子たちが、たったこれだけの変化によって、もう本当に恐ろしくなってしまう。彼らにはまだ解決できていない問題がある、そういうことを自覚したそういう経験だったんじゃないかなと思うんですよね。ですから彼はまず、自分たちの弱さ、脆さっていうものを本当に教えられる、そういう経験だったと思います。
2番目に彼らはイエス様が本当に信頼できる方なんだということをこの経験を通して教えられたんではないでしょうか。イエス様は、嵐の中で熟睡されていました。何で熟睡されていたのか?その第一の理由はやはりお疲れになっていたからだろうと思いますね。その前の日のイエス様の様子って、次から次にいろんな人たちが朝から晩まで押しかけてきて、対応して、本当におつかれなってたと思いますね。ですから本当に疲れていて休んでいたんだと思うんですけれども、でもそれだけではないと思います。心の中に深い平安があるからこそ、これだけ熟睡しておられた、嵐の中でも熟睡しておられたんではないかなと思いますね。どんなに疲れていても、こんな嵐が来たら普通は目が覚めてしまいものだと思いますけれども、でもそうならないのは、やっぱりどっかに本当に平安があるからだと思うんですよね。そのイエス様が叩き起こされちゃったわけですけれども、その後で風と湖を叱りつけると、嵐はおさまりました。イエス様は自然界さえも治める力を持っているということが、この時証明されました。弟子たち最後に言ったんですね。
自然界すら収めてしまう、イエス様の偉大な力に圧倒されている弟子たちの様子、心の気持ちっていうのがここに表されていると思います。そのようにして弟子たちはそれまで気づかなかったイエス様の本当の姿を知らされて、本当にこの方に信頼できるんだなって、そういうことを学んだんじゃなかったでしょうか。
この方のそばにいれば安心なんだということを、この体験を通して学んだのではなかったでしょうか。
そして3番目に弟子たちはイエス様が自分たちの旅を導いてくださる方であるということをこの経験を通して教えられたと思います。その後弟子たちは無事にガリラヤ湖の対岸にたどり着いたんですね。彼らはこちら側から出発して、あちら側まで、ちゃんと無事にたどり着きました。その途中は大変でした。その途中は大変な混乱がありました。ほんと生きている気持ちもしないような、もうそんな大変な経験でしたけども、結果的に言うとちゃんと最後まで導かれていたっていうことですよね。
あたかも何事もなかったように、旅は守られていたということが分かるわけであります。イエス様が最後までこの船の旅を導いてくださったということがわかります。このように弟子たちこの経験を通して、イエス様に対する信頼をさらに深めることができました。この方について行って、このように弟子たちこの経験を通して、イエス様に対する信頼をさらに深めることができました。この方について行って大丈夫なんだと、心から思うことができました。そのようなさらに大きなイエス様にある確信と、平安を彼らは与えられていったわけであります。
このような経験、私たちも私たちの信仰の旅路の中で与えられていくのではないだろうかと思います。私たちも時々大きな問題に直面して恐ろしくなってしまうこと、恐れおののいてしまうということが、きっとあるんではないかなと思います。その時に、それまでは本当にしがみついてたものがですね、本当に砕かれて、本当に不安になる、恐ろしくなる、そういう自分自身と向き合って、本当に怖くなるっていう、そういう経験することがあるんじゃないかなと思いますね。その時に自分の弱さとか、無力さんとか、もろさんとか、そういうことを思い知らされる経験をすることあるんじゃないでしょうか。そして特に自分の死ということを意識する時に、本当に自分の無力さを思い知らされる、そういう時があるんではないかと思います。でもそんな時に主が守ってくださる。そして助けてくださる。自分ではどうすることもできないできなかった問題に、主が解決を与えてくださる。そして何事もなかったかのように、次のステップに導いてくださるっていうことを、私たちも信仰の旅路の中で時々経験していくんじゃないでしょうか。そのように導かれていくことがあるんじゃないでしょうか。そのようにして実は主は私たちの信仰を養ってくださっているということを覚えるものでありたいと思います。そのような経験を通して、私たちがさらに深く主に信頼し、さらに主にある確信と平和を与えられていくとするならば、それは私たちにとって本当に幸いな経験ではないでしょうか。そのようにし私たちを養ってくださっている、その恵みを忘れないでいるものでありたいと思います。
3.信仰の薄い者たち
同時に今日私たちは、イエス様が嵐の中にあって弟子たちに語りかけた言葉に注目したいと思います。それは26節の言葉です。26節でイエス様はまさにこの嵐のただ中で、恐れおののいている弟子たちに向かって言いました。
今まさに怖がっているその最中、それを経験している弟子たちに向かって言いました。
この言葉を通して、イエス様は、不安になってる、怖がっているその原因は何ですか?と、そういうことを問いかけているのだ思われます。
どうして弟子たちは、ここで怖がっていたんでしょうか?それまでは自信満々だった弟子たちは、何でこんなに怖がっているんでしょうか。
その後でイエス様彼らに言われたんですね.
彼らがその時、恐怖心に心をとらわれてしまったその原因は、イエス様から言うと、それは彼らの信仰が薄かったということになるんではないでしょうか。幸が薄いというのは一体どのような状態を言うんでしょうか。
私たちはよく信仰があるとか、ないとか、あるいは信仰が強いとか弱いとか、そういう言い方をすると思うんですけれども、信仰が濃いとか、薄いとか、あまりそういう言い方はしないかなと思うんですね。
薄い信仰っていったいどんな信仰をいうのでしょうか?
おそらく少しはあるんだと思うんですよね。少しは信仰があるんだと思います。少しは聖書を読みます。時々はイエス様のことを意識します。時々は祈ることもあります。おそらく信仰はあるんだと思うんですよね。ところが何かあった時に、神様に信頼することをしない、その信仰を発揮することができない。本当に信頼すべき方がすぐそばにおられるのに気づこうとしないし。あるいは気付いているかもしれませんがでもその方に入るということをしないでおそらく自分で何とか努力してみるということのほうが大事なのかもしれない。おそらくで子達もそのような状態だったということが考えられるんですね。イエス様のことを信じています、信頼しています。イエス様に従ってる人達ですよね。イエス様は素晴らしいと思ってるんですです。イエス様に従いたい、その気持ちも持ってるんです。でも肝心なところで、彼らはイエス様に頼ることをしていない。
その状態をイエス様は、信仰の薄い者たちと呼ばれた。そこに弟子たちの課題があったということを心に留めたいと思います。
でもそんな弟子たちが、イエス様に向かって「主よ助けてください」と叫びました。嵐の中で自らの死を意識しつつ、主に助けを求めました。そう叫んだ時から状況は劇的に変わったんではなかったでしょうか。イエス様は、彼らの心からの叫びをそのまま受け止めてくださり、その祈りの応えとして、嵐を沈めてくださったのではなかったでしょうか。
この「助けてください。助けて」というこの一言が私たちになかなか言えない。そういう傾向を持ってるんじゃないかなと思いますね。遠慮があるからなのかもしれません。どこかプライドがあるからなのかもしれません。
せっかく主がそばにおられるのに、とても頼りになる方が私たちのすぐそばにおられるのに、この方に信頼しないで終わってしまうということがあるとするならば、それは残念なことではないでしょうか。
そんな私達のことを、きっとイエス様は「信仰の薄い者たち」って呼ばれるんじゃないかなと思うんですよね。
詩篇120篇1節に、このように語られています。
あたかも主が、私たちの叫びを待っているかのような、私たちの祈りを待っているかのようなもうその叫びが聞こえてきたら、もうすぐにも答えてくださる、その用意ができている、そのような主の御姿が表されているんではないかと思います。私たちが困難のうちに自らの弱さを知らされて、主を呼び求めることができるとするならば、それがもう恵ではないでしょうか。私たちの主は、私たちを助けてくださる方です。助けたいと願っておられる方です。そのための力も十分に持っておられる方です。この方に向かって私たちはまっすぐに声を上げていくものであろうではありませんか。
4.結び
キリストの弟子って、どんな人たちなんでしょうか?それはもちろんイエス様に従っていく人達ですけども、でも同時にそれは、イエス様に対する信頼を学んでいく人であるって言うことも言えるのではないでしょうか。主はご自分に従ってくる一人一人を、必ず守ってくださいます。必ず導いてくださいます。そして様々な経験を通して、私たちを、自分にすがるものから、主に信頼する者へと成長させてくださる。そこに弟子とされたものの祝福が溢れているんではないでしょうか。
私たちももしかすると信仰の薄いものたちかもしれませんけれども、でもそんな私たちを忍耐をもって導いてくださいます。ですから私たちもこの方に期待して従っていくものでありたいと思います。そして主に対する信頼を主に養っていただくものとなるのではありませんか。
すると見よ。湖は大荒れとなり、舟は大波をかぶった。
弟子たちは近寄ってイエスを起こして、「主よ、助けてください。
イエスは言われた。「どうして怖がるのか、信仰の薄い者たち。」
人々は驚いて言った。「風や湖までが言うことを聞くとは、
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