イエス・キリストをより良く知るために

神の定められたリズムの中で

 
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若井 和生師
若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。

レビ記23章1~15節

きょうは与えられた聖書の箇所から神の定められたリズムの中でという題で説教を形にしたいと思います。

コロナの影響の中にあってこの世界はますます混乱と混迷を深めていくようであります。

その中にあって本当に私たちもこの世と関わっていかなければいけないわけですけれども、教会が健康であるということがどんなに求められているだろうかという風に思います。

私たちはどんなに気持ちがあってもですね、体が健康でなければ良い働きをすることはできません。同じように教会も健康でなければこの世にふさわしくが関わっていくことができません。特に私たちの聖書理解が健康であるということ、そしてもう一つは私たちが、神様が定められたリズムの中で歩んでいるということがどんなに大事なことであるでしょうか。

このリズムから外れてしまう時に、私たちはいろんな問題を抱えるようになっていくんだと思います。

本日は与えられている聖書の箇所は、レビ記の23章ですけども、そこには神様によって定められた主の例祭、お祭りですね、例祭の数々が紹介されています。イスラエルの民はその礼祭を守るようにと定められました。その例祭を守ることを通して、神様はイスラエルの民の中にご自身のリズムを刻んでおられることに私たちは気づかされる。イスラエルの民が神の定められたリズムの中を歩んでいくことができるように、そのように導かれているということを教えられます。

今日は与えられている聖書の箇所から、私たちもこの世のリズムではなくて、神様が定めた定められたリズムの中で、歩んでいくことの大切さを学んできたいと思います。

【1】安息日

1節から3節までお読みいたします。

主はモーセにこう告げられた。「イスラエルの子らに告げよ。あなたがたが聖なる会合として招集する主の例祭、すなわちわたしの例祭は次のとおりである。6日間は仕事をする。しかし7日目は全き休みのための安息日、聖なる会合の日である。あなた方は、いかなる仕事もしてはならない。この日は、あなた方がどこに住んでいても主の安息日である。

このように記されていますけども、ここからいろんな例祭が紹介されていくんですけれども、まず神様がイスラエルのために最初に紹介してくださった例祭は何だったでしょうか?それは安息日であったということがわかります。

皆さんの中には、また安息日が出てきたと思われた方が、もしかするといらっしゃるかもしれません。私達はレビ記をずっと学んできているんですけれども、いままで学んできた中にも安息日を守ることの大切さが教えられていました。何度か繰り返しを教えられてるんですね。そういう繰り返しを私たち学んでいく中で、本当に神様の聖なる民となるためには、この安息日を守るって言うことが、どんなに大事だったかということを教えられます。

 

そしてここでもまた出てくるわけですけれども、安息日に求められたこと二つありました。

一つはいかなる仕事もしないこと、六日間は仕事をします。しかし7日目は全く休みの日として、それまで続けてきた働きや営みを一旦止めるということが求められたということであります。

安息日と日本語に訳されているこの言葉のヘブル語の元々の言葉はシャバットという言葉ですけども、これはやめるという意味ですね。あるいはストップさせるという意味の言葉です。ですからその日には、まずストップするっていうことが求められたということがわかります。

次に2番目、安息日に求められたことの2番目は、聖なる会合に集まるということでした。

2節に「しかし7日目は、全き休みのための安息日、聖なる会合の日である」と教えられております。安息日は「 聖なる会合の日である」と言い直されております。それまでのお仕事をストップして、お休みするためだけの日ではなかったということであります。

この日に求められたこと、それは神の前に集まるということ、そして神の民として心を一つにして、神様を礼拝するということそのことで、イスラエルの民は自分たちの人生の中心は自分たちではなくて、神ご自身であるということを覚えることができました。

さらに神様の恵みによって私達は生かされているということを、毎回確認することができました。

その歩みを彼らは毎週・毎週繰り返すように命じられました。その繰り返しを通して神様のリズムが彼らの生活の中に刻まれ、彼らの体の中にも刻まれていたいうことが分かると思います。そしてこのことがどこにいても、どこに住んでいても、求められていたということが3節の後半を見ると分かります。三節の後半部分に、「この日はあなた方がどこに住んでいても、主の安息日である」という風に教えられております。

このレビ記が書かれた時の段階は、イスラエルの民が未だ旅をしている途中でしたね。約束の地を目指して旅をしている途中でした。でもいずれは約束の地カナンに入ります。そしてその時が来ると、今まで一緒に旅をしていた人たちがみんな、それぞれの場所に散らされて行きます。この部族はこちらの場所、この部族はこちらの場所、この部族はこちらという風に、みんな散らさていくわけですよね。その時のことも想定されていたということが分かるわけですけれども、たとえいろんな地域に散らされたとしても、そしてその時どこに住んでいたとしても、安息日、曜聖なる会合の日として守り続けるということが大事だったということがこの聖書の箇所から教えられております。

私たちのカレンダーも、一週間は7日です。そして7日のうちの1日が日曜日で、お休みの日になっていて、このリズムの中で私達も生きてますね。生かされております。

このリズムは実は聖書から来ています。天地創造の時に、天地万物を作られた創造主なる神様は、その天地そして私たちも含めて、6日間かけて作られたと創世記の1章に出て参ります。そして7日目に、なさっていた全てのワザをやめられたと創世記2章2節に出てきます。

ですからこの分厚い聖書の第1ページ目の最初に書かれている最初のメッセージは何かっていうと、それは神様がこの世界にリズムを刻まれたっていう、そういうメッセージだと思うんですよね。このリズムの中で神様は天地万物を作られて、そして7日目に全ての働きを止められた。このリズムがまず最初に提示されて、このリズムがこの世界に刻まれた。そしてその後の人間も、その神様のリズムに従って生きていくことができるように、神様が導いてくださった。そういうことを教えられるわけであります。

でも私たちは、せっかくこの神様のリズムが用意されているにも関わらず、安息日の本当の意味を知らないで過ごしていることが実に多いんではないだろうかという風に思いますね。せっかくこのリズムが刻まれているのに、このリズムを生かすことができない。そして信仰者であっても時々その意味を忘れてしまうことがあるように思います。安息日なのに、自らの歩みを止めることをしない、ストップさせないで、変わらず働き続ける、走り続ける、止まることができない。そしてさらに聖なる会合に集まって主を礼拝することを疎かにしてしまう。そのために私たちの人生の中心が見えなくなってしまいますね。

私たちの中心が、神ご自身であることを忘れてしまいます。あたかも自分が中心であるかのような勘違いをしてしまうようになる。そのような結果になってしまうのではないでしょうか。

この神様のリズムから外れてしまう時に、この世の世俗のリズムに流されたり、飲み込まれたりしてしまいます。この世にはこの世のリズムが刻まれております。それは非常に強力なリズムかもしれない。そしてこの世のリズムは、神中心の人生ではなくて、自己中心・自分中心の人生を私達に求めさせてしまうものだと思います。そこかだんだん神様の祝福から離されていき、満たしがなく、満足がない、そういう結果になっていくんではないだろうかと思わされます。

神様がせっかく用意してくださったこのリズムが、もうすでに刻まれているわけですから、私たちはその中を歩むということが祝福であるということをもう一度覚えたいという風に思います。

このように私たちは、毎週集まって神様の前に礼拝できることによって、どんなに守られていることかと思うんですよね。このようなリズムが、私たちの生活の中にあることによって本当に私たちは神様が中心の人生になりますね。本当に私達は自分で生きてるんじゃなくて生かされている恵みを味わうようになります。どんなにそれが素晴らしい恵みではないでしょうか。

今なかなかオンラインの礼拝をするようになりまして、本当にこのリズムが刻みづらくなっているかなと思いますね。本当にその戦いだと思います。課題だと思います。一緒に集まりたくても集まれないという場合もありますね。そんな中でだんだんそのリズムを見失ってしまうということも起こりうる。本当に戦いだと思うんですけれども、私たちはそのような神様の導きがあるんだっていうことを、ぜひ聖書からしっかりと学んで、この神様の導きとリズムの中で歩んでいけるように互いに励まし合っていきたいというふうに思います。

【2】過ぎ越しの祭り

次にイスラエルの民が、定期的に祝うように命じられた例祭は何だったでしょうか?

2番目、それは「過ぎ越しの祭り」であったということを覚えたいと思います。4節をお読みいたします。

あなたがたが定期的に招集しなければならない聖なる会合、主の例祭は次のとおりである。第一の月の14日には、夕暮れに過ぎ越しのいけにえを主に献げる。

安息日は毎週毎週繰り返される例祭ということになります。ここから示されるいくつかの例祭があるんですけれども、それは年に1度、定期的にお祝いされる例祭でありました。その最初に出てくる、最初に示されているのが「過ぎ越しの祭り」という祭り、これはイスラエルの民が、エジプトから救い出されたその恵みを、絶対に忘れないようにするため、そしてそのこといつも覚えているために用意されたお祭りであったということであります。

そしてこれは、毎年第一の月の14日の夕暮れに、それをしなさいということがここで教えられております。そのことが毎年毎年繰り返されていく。

でも最初の過ぎ越しの祭りは、あのまさにイスラエルの民が、エジプトで奴隷状態であったその時、そこから救われるその日、その時に、最初の過ぎ越しの祭りが祝われたということを、私達は出エジプト記の12章の記事を通して教えられます。

先ほど交読文の箇所で、出エジプト記の12章を読みました。あの中に「過ぎ越しの祭」ってこういう祭りなんだなーっていうことが書いてあったんですね。イスラエルの民は、あの時にこんなこんなことをして過ぎ越しの祭りを祝っていたんだなということがわかります。まずは、あらかじめ用意をしていた子羊、1歳のオスの子羊ですね、傷のない羊を用意しているんですけれども、それを14日の夕暮れに屠るということをしました。屠ると血が出ますね。。その血を門柱と鴨居に塗りつけるということをしました。これが2番目。

そして三番目にその羊の肉をよく焼いてそして種無しパンと苦菜を添えて食べるということをしました。

この種無しパンとニガナということにも意味があるんですけれども、一緒に食事をしたということがわかります。そして最後に彼らは 帯を固く締め、足に履物を履いて手には杖を持った状態で、急いで食べたということが書いてあるんですね。手に杖を持った状態でどうやって食べたのかなという感じがしますけれども、とにかくそれはもうすぐエジプトを出発できるような状態で、いついつでも出発できるような状態で、急いで食べるということであります。そのようにして彼らは過ぎ越しの祭り、最初の過ぎ越しの祭りをお祝いしたわけですけれども、そのことを毎年毎年繰り返すように、つまりあのエジプトから救い出された時の経験を、追体験するように、そしての時経験したことを決して忘れないように、あの時、神様の御手によって救い出された、あのエジプトの奴隷状態から救われたというその恵みを、絶対に忘れない、そしてそれをいつも覚えるために、そのように用意されていたのがこの過ぎ越しの祭りでありました。

あの日イスラエルの民は大きく二つのことを経験したと思います。

ひとつは自分で経験したこと、もうひとつは神様が与えてくださった経験、二つの経験をしました。

一つ自分達がした事としては、このほふられた羊を食べるという経験をしました。傷のないひつじ、屠られた羊、そしてそのよく焼いた羊、そこに種無しパンと苦菜が添えられていますけれども、その羊を食べるということを急いで食べなければいけませんでしたけどでも、それは朝まで残していてはいけないと命じられて、しっかり食べなければいけなかったんですね。その羊をしっかりと味わうという経験を致しました。

この儀式は今の私たちにとっては何を意味しているでしょうか?

それは救い主イエスキリストを信じて、自分の中にしっかりと受け入れるということを表しております。イエス様は屠られた子羊でした。罪人である私たちのその身代わりとなって屠られて十字架で死んでくださった。そのイエス様をしっかりと味わうということを、しっかりと自分の中に取り込むということ、つまりイエスキリストを信じ受け入れるということが求められているということであります。イエス様もある日、不思議なことを言われました。「私が命のパンです」という風に言われました。

わたしが命のパンです。私のもとに来るものは決して飢えることがなく、私を信じるものはどんな時にも決して渇くことがありません。

ヨハネの福音書6章35節で、そのように語っている場面がありますけれども、私が命のパンだ、つまりそれ私を食べなさいって意味なんですよね。不思議なことを言われましたけれども、これはイエス様を食べるようにして自分の中に受け入れなさいっていうことです。

イエス様をしっかりと信じ、受け入れなさい。その時にその人は決して飢えることはないよ、どんな時にも決して渇くことがないよ、このイエス・キリストは私たちの本当に深いところから満たしてくださる方なんだよ、そういうことを聖書は私たちに教えてくださっている。私たちは私たちのために十字架にかかって死んでくださったイエス様をしっかりと仰いで、そして仰ぐだけではなくてその方をしっかりと受け入れる。信じる、味わう、そういう体験が、求められているのではないでしょうか。

過ぎ越しの時に、神様がもう一つの事をして下さいました。

それはどんなことをしてくださったでしょうか?それは神様が、鴨居に血が塗られている家の前を、過ぎ越されたということ、その事をイスラエルの民はもう一つ体験をいたしました。家の門柱と鴨居に羊の血が塗られている家は、その血を見て、神様が過ぎこされた。

過ぎ越しの祭りということはそこから来ておりますけれども、過ぎこしてくださったっていうこと。ところがその鴨居と門柱に血の塗られていない家もたくさんあったんです。その家には何が起こったか。悲劇が起こった。その家の初子が殺されてしまうんですね。エジプトの王様のパロの息子も、そのようにして命が断たれたということがそこに出てきますよね。

 

この事実は今の私たちにとって何を意味しているんでしょう。それはイエスキリストを信じ受け入れた者の家庭を、そして家族 を、過ぎ越してくださる、つまり救い出してくださるそういうことでありまして、本来わたしたちは裁かれて、滅ぼされなければならない一人一人でした。本来は私たちも罪のために本当に裁きを受けて死ななければならない私たち。

でもその私たちを神様が過ぎてくださったとすれば、それは一体どうしてだったんでしょうか?

それは神様がその印に目を留めてくださったからですね。その家の鴨居・門柱に血が塗られているその印、血の印を見てくださった、目を留めてくださったから、そこを過ぎ越してくださった。何か私たちが一生懸命努力して頑張ったから救われたんじゃないんですよね。

私たちの良い行いによって救われたのではなくて、ただ神様がその血に目を留めてくださったから、そこを過ぎ越してくださった。つまりイエス様の贖いがあったからということです。そのイエスキリストの十字架の贖いの血によって、私たちは滅ぼされなくて済んだ。救われた。その恵みが、私たちにも与えられているということは感謝したいという風に思います。

イスラエルの民は、そのことを毎年毎年追体験をして味わって、「私たちはこういう風に救われたんだ。本当にエジプトの奴隷として本当に苦しい日々を過ごしたけど、神様が驚くべき方法で私たちを救ってくださった」ということを毎年確認していたということであります。

私たちも時々自分が、かつて救われた時の事を追体験することが必要かなという風に思いますね。皆さんそういう習慣があるでしょうか。皆さんも、かつて救われた。本当は滅ぼされなければならない自分だったのに、ただ神の憐れみによって救われた。その福音を追体験する時が必要じゃないかなという風に思います。

先月〇〇兄弟がバプテスマを受けられましたけども、そのバプテスマを見て、皆さんだいぶ励まされたんじゃないでしょうかね。それは言ってみれば、自分が救われた時の事を追体験するようなそんなひとときだったんじゃないでしょうか。かつての自分もそうだった。かつての自分もあの〇〇さんみたいに本当に救われて、本当にかつてイエス様に導かれて、本当に喜んでいた、そういうこと思い出した方がたくさんいたんじゃないかなと思うんですね。そして初心に帰って、本当に励まされるような時だったんじゃないでしょか。ですから教会で毎年洗礼式があるといいなと思いますね。そんなことによって私たちも励ましをいただきます。

でも私たちは聖餐式の時に、この恵みを味わっております。今年はコロナの影響があって聖餐式ができない状態がずっと続いていて、とても残念に思っておりますけれども、でも来年には是非聖餐式を始めようということで、今、役員会で話をして、今どうやったらできるかということを考えているところです。ですから来年になったらこの時を持ちたいなと思ってるんですけれども、私たちは聖餐式の時に、イエスキリストの体を表すパンと、キリストが流された血潮を表しているぶどう液を味わいますね。そしてその事を味わうこを通してイエス様が私のために死んでくださった。このイエスキリストの十字架の恵みの故に私は救われたということ追体験し、味わっていますね。

そのようにして私たちは、本当に神様によって生かされているめぐみを毎回毎回繰り返し味わっている。そのことが私たちに本当に必要なことじゃないかなという風に思います。

是非聖餐式が早くできるように、皆さんに祈っていただきたいなと思います。そしてそのように神様は私たちを導いてくださっているということをぜひ覚えたいという風に思います。私たちが本当に救われた恵みを決して忘れることがないように、本当にいつも神様の命に生かされて歩むことができるように、そのように導いてくださる方であることをぜひ覚えたいという風に思います。

【3】種なしパンの祭り/初穂の祭り

その後、6節から8節までは、「種無しパンの祭り」というそういうお祭りのことが書いてあるんですね。この「過ぎ越しのいけにえ」の時から、その15日の時から、「種無しパンの祭り」が七日間続くっていうことが出てきます。

これは文字通り「パン種の入っていない」パンを一週間食べるという、そういう経験をしました。その経験を通して彼らは何を学んだかと言うと、パン種というのは、パンを内側から 膨らませて、発酵させ、腐らせるものの象徴として、それは「罪」を表していると考えられるんですね。

ですから、この「種無しパン」を救われたイスラエルの民が味わうことによって、救われた者として、神様の前に罪のない聖い生活が求められているんだっていうことを、七日間しっかり味わうという、そういう経験でありました。

 

さらに10節11節から14節のところには、収穫の初穂の束を神様にお捧げするという「初穂の祭り」という祭りが出てきます。ずいぶんいろんな祭りがあったんだなっていうことに私たち気付かされるんですけれども、この時期はちょうど大麦の収穫の時期に重なっておりました。ちょうど大麦の収穫が始まるというときに、その最初の初穂を神様にお捧げするということがここで求められたということであります。

これは神様の与えられた恵に、ちゃんと感謝しなさいということですね。そのようにして神様との生きた交わりの中で生かされるということを、イスラエルの民は学ぶというお祭りであったということであります。

【4】まとめ

このような例祭がその他にも続いていくんですけれども、いろんな例祭を神様が用意してくださって、それを守るようにとイスラエルの民に命じられました。そしてその事を通して、イスラエルの生活の中に、リズムが刻み込まれていったということに私たちは気づかされるわけであります。

それはいつもイスラエルの民が、神様の恵みの中を歩んでいくことができるように、神様を中心として歩んでいくことができるように、神様の前で整えられた聖い者として歩んでいくことができるように、そして感謝のある歩みへと導かれるように、そのように神様が用意し導いてくださっていた。つまり神様のリズムの中でイスラエルの民が歩んで行けるように導いてくださっていたということであります。

 

神様はそのようにして私たちのことも導いてくださっているということをぜひ覚えようではありませんか。わたしたちが毎週このようにして主のみ前に集まって礼拝をおささげすることによって、そしてそこで主の御声を聞いて、そして御言葉によって励まされることを通して、また聖餐式を通して主の恵みを味わうことを通して、そのように私たちが本当に神様を中心とした歩みへと、また神様ご自身を喜ぶ歩みへと導かれているということを是非覚えたい。

この世にはこの世のリズムがあります。そしてそれは本当に自分の満足を求めさせるリズムだと思います。でも私たちの本当の喜びは、神ご自身を喜ぶということに中にあります。そのような神様の導きの中で、私たちは歩んでいくものでありたいと思います。

 

お祈りをしましょう。

愛する神様。あなたが私たちのことをよくご存知で、私たちの弱さもよくご存知で、どのようにしたら本当に喜んで、感謝して歩んでゆくことできるかを、導いてくださっていることを覚えてありがとうございます。神様が用意してくださっているこの導きとまたリズムの中で、私たちが歩んでいくことができますように、この世のリズムから解放されて本当に主を喜び、主に従っていく歩みとなりますように、私たちを御言葉によって導いていてください。み言葉を心から感謝し、尊い救い主、イエス・キリストのみ名によってお祈りをいたします 。

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