マタイの福音書21章18~32節

それは、最初に枯れたイチジクの木の話、次に最初と長老たちとの問答の話、そして最後にイエス様がぶどう園の例えを話されたという、大きく三つの内容に分かれているかなと思います。
それで、イチジクの木をイエス様が枯らすという不思議な出来事が最初に出てきますけれども、18節でしょうかね。
18節には、「さて、朝早く都に帰る途中、イエスは空腹を覚えられた」とあります。その前の晩はベタニアで泊まられたと書かれていますね。イエス様はエルサレムに入場された後、一度エルサレムからベタニアに戻られました。
ベタニアというのは、マルタ、マリア、ラザロの兄弟が住んでいる家がある町ですよね。そこに滞在されたことが分かります。そして、次の日の朝になり、エルサレムへ向かわれる途中の出来事が書かれています。
イエス様はエルサレムの宮に行き、人々に教え、福音を伝える働きをするために向かわれる途中でした。その途中で空腹を覚えられ、道端に一本のイチジクの木が見えた、という展開になります。
そこでイエス様が見た光景が19節に書かれています。「道端に一本のイチジクの木が見えたので、そこに行ってみると、葉があるだけで他には何もなかった。それで、イエスはその木に『今後、いつまでもお前の実はならないように』と言われた。すると、たちまちイチジクの木は枯れた」とあります。
葉はあるけれども実がないイチジクの木がありました。それを見て、イエス様が「今後、いつまでもお前の実はならないように」と言われたら、たちまちその木が枯れてしまったのです。これは非常に興味深い記事であり、イエス様がなぜこのような態度を取られたのか、私たちにとって疑問に感じるところだと思います。
これを理解するのに助けとなる旧約聖書の記事がいくつかあります。例えば、イザヤ書の5章2節には、次のような言葉が出てきます。
「彼はそこを掘り起こし、石を除き、そこに良いぶどうを植え、その中にやぐらを建て、その中にぶどうの踏み場まで掘り、ぶどうがなるのを心待ちにしていた。ところが、できたのは酸っぱいぶどうだった。」
これは、ぶどう園の主人が、ぶどう畑を作るために一生懸命努力しているという記事です。そのぶどう園を本当に楽しみにして、一生懸命掘り起こし、石を除き、ぶどうを植え、やぐらを立て、踏み場まで掘りました。そして、ぶどうが実るのを心待ちにしていました。しかし、できたのは酸っぱいぶどうだったのです。
これは、神様がイスラエルの民を愛し、養い育ててきたのに、結果として甘く美味しいぶどうではなく、酸っぱいぶどうができてしまったという例えです。神様が非常に期待していたにもかかわらず、期待通りにならないという現実に直面し、とても残念に思われたという記事です。
また、エレミヤ書の8章13節にも、次のような言葉が出てきます。
ちょっと読みいたします。
「私は彼らを刈り入れたい。──主の言葉。しかし、ぶどうの木にはぶどうがなく、イチジクの木にはイチジクがなく、葉はしおれている。私はそれらをそのままにしておく。」
こちらは少し場面が違いますが、イスラエルの民に対する神様の期待が表されています。神様はぶどうの木やイチジクの木を植え、育てているのですが、結果として実がならず、神様がとても落胆している心が示されている記事だと思います。
このような記事が旧約聖書の中にいくつか出てきます。場面ごとに少し違いはありますが、「ぶどうを植えたのに酸っぱいぶどうができてしまった」「ぶどうの木にぶどうの実がならない」「イチジクの木にイチジクの実がならない」といったことが語られています。これらは、今回の出来事を理解する助けになると思います。
この場面では、イチジクの木に葉っぱが生えていますよね。葉っぱが生えているということは、当然、そこに実がなることが期待されるわけです。成長しているように見えるのですから、葉っぱがあれば実もなるだろうと考えられます。
ところが、葉っぱはあるのに実がない。その状態を見たとき、イエス様は、見せかけだけで中身のないイスラエルの民の信仰をそこに感じたのではないかと考えられます。
葉っぱが生い茂っていて、一見立派なイチジクの木のように見えますが、よく見ると実がならない。それは、見せかけだけで実を結ぶことのない信仰を表しているのです。当時のイスラエルの民の状態に対する、イエス様の残念なお気持ちが表されているのではないでしょうか。
弟子たちは、この現象を見て驚きます。しかし、イエス様の思いを深く理解していたわけではなく、ただ驚いて問いかけます。
20節には、弟子たちが「イチジクの木が枯れたのでしょうか?」と言ったとあります。
すると、イエス様は21節で答えられました。
「まことに、あなたがたに言います。もしあなたがたが信じて疑わないなら、イチジクの木に起こったことを起こせるだけでなく、この山に向かい『立ち上がって海に入れ』と言えば、その通りになります。あなたがたが信じて祈り求めるものは、何でも受けることになります。」
ここでは、「なぜイチジクの木が枯れたのか」という問いに対して、直接的な答えは示されていません。しかし、語られている内容からはっきり分かるのは、当時のイスラエルの民にとって大きな問題があったということです。それは、「信じて祈り求めることがない」ということです。
彼らは神により頼むことがなく、信仰の形はあっても、そこに神様との生きた交わりはありませんでした。本当に信じて祈り求めるなら、必ずその通りになるのに、それがなかったのです。
「山に向かって『海に入れ』と言えばその通りになる」というのは、たしかに大げさに聞こえます。実際にそういうことを言う人はいません。しかし、ここで語られているのは、「それほど信じることが大切だ」という励ましの言葉なのです。
しかし、当時のイスラエルの民には、そうした信仰が見られなかった。だからこそ、イチジクの木が枯れたという出来事を通して、その状態が象徴的に示されたのではないかと思います。
でも、私たちはどうでしょうか。イチジクの木のような信仰になっていないか、ということですね。
葉っぱが茂っていて、外から見ると立派な木のように見える。しかし、よく近づいて見てみると、実がない、実が結ばれていない。そういう信仰の形態、信仰者になってしまうこともあり得るのです。そうなっていないか、ということがここで問われているのだと思います。
では、私たちが実を結ぶためには何が必要なのでしょうか。
私たちは信仰者としてイエス様に従って歩んでいますが、よく考えてみると、どれだけの実を結んでいるでしょうか。それは目に見えるものでもありますし、人々を豊かにし、神様の祝福を届けていくものでもあります。また、「御霊の実」として、ガラテヤ書の中にも出てくるように、愛、喜び、平安などの実が結ばれているかどうかを考えさせられます。
では、どうすれば本当に実を結ぶ信仰者になれるのでしょうか。
それは、ぶどうの木の例えによってよく表されています。ヨハネの福音書15章に、このように書かれています。
「私はぶどうの木、あなたがたは枝です。人が私にとどまり、私もその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。私を離れては、あなたがたは何もすることができないのです。」
ここで大切なのは、「その人は多くの実を結びます」ということです。では、どうすれば多くの実を結ぶことができるのでしょうか。それは、ぶどうの木であるイエス様に、私たちがとどまることです。
イエス様にとどまるなら、イエス様もその人にとどまると書かれています。つまり、私たちがまずイエス様にとどまること。その結果として、イエス様が私たちにとどまってくださるのです。この生きた交わりの中で、多くの実を結び、それが祝福へとつながっていくのですね。
私たちがイエス様にとどまるということ。それは、私たちのほうからイエス様に近づいていき、しっかりととどまることを意味します。そして、イエス様も私たちにとどまってくださる。この順番も、ここで確認できることだと思います。
このことを教えられていますので、私たちも葉っぱだけの信仰者にならないように気をつけなければなりません。本当にイエス様の中にとどまり続け、イエス様の教え、御心の中にしっかりと立ち続けること。それを大切にしていきたいと思います。
さて、この場面が終わり、次に最司祭や長老たちがやってくる場面へとつながっていきます。
23節以降
「それから、イエスが宮に入って教えておられると、最司祭たちや民の長老たちがイエスのもとに来て言った。
『何の権威によってこれらのことをしているのですか? 誰があなたにその権威を授けたのですか?』」
ここでも、また最司祭たちや長老たち、つまりユダヤ教の指導者たちがイエス様のもとに近づき、論争を挑んだ場面になります。
そして、15節でしょうか。彼らが腹を立てた、という場面が出てきます。
これは、その前の日の出来事になりますが、イエス様が宮に入り、そこで商売をしていた人々や両替人を追い出した、という場面がありました。そして、その後のことですが、子どもたちがイエス様を見て賛美していました。
「ダビデの子にホサナ!」と叫んでいる子供たちが、イエス様を賛美している。その姿を見て、最司祭や立法学者たちは腹を立てた、とあります。
子供たちがイエス様を賛美していることが、彼らにとっては非常に気に食わなかったのです。その気持ちがよく分かります。そして、この出来事は福音書の11章18節に記されています。
この宮清めの場面の後に、最司祭たちはイエス様を殺す相談を始めた、という記事があります。商売人たちを追い出し、両替人の腰掛けを倒したといった出来事は、エルサレムの最司祭、立法学者、長老たちを非常に怒らせるものだったのです。
それまでも、彼らはイエス様に対して不満を持っていましたが、イエス様がエルサレムに入ってこられたことで、その怒りはますます激しくなっていきました。そして、ついには「何としてもイエスを始末しなければならない」と、殺害の相談まで始めるに至ったのです。彼らにとって、イエス様は邪魔で仕方がない存在になってしまったのです。
このような怒りに駆られて、彼らはイエス様のもとへやって来て論争を挑みます。それが、23節からの場面です。
この時、イエス様は宮の中で教えておられました。福音を伝えておられたのでしょう。そこへ彼らは、まるで邪魔をするかのように入ってきて、こう問いかけました。
「何の権威によって、これらのことをしているのですか? 誰があなたにその権威を授けたのですか?」
彼らにとって、最も気に食わないのはこの点でした。イエス様が、まるで王のように振る舞い、人々に教えているということが、どうしても許せなかったのです。
これまでのイエス様の言動を見ても、罪を赦す権威を示し、死人を蘇らせる権威を表し、権威ある教えを語っておられました。さらに、数々の奇跡を行い、人々を癒してこられたのです。イエス様はまさに神の子としての権威を現されていました。
しかし、ユダヤ教の指導者たちにとっては、それがどうしても許せなかったのです。彼らは、それを神に対する冒涜のように感じたのでしょう。
当時、何かを教える者には正式な資格が必要とされていました。そのため、イエス様が正式な手続きを経ずに自由に教えていることも、彼らには気に食わなかったのでしょう。とにかく彼らは、イエス様を冒涜罪で有罪にし、早く片付けてしまいたいと考えていたのです。その思いから、イエス様に問いかけたのでした。
それに対し、イエス様はどのように答えられたでしょうか。
24節「イエスは彼らに答えられた。
『私も一言尋ねましょう。それにあなたがたが答えるなら、私も何の権威によってこれらのことをしているのかを言いましょう。ヨハネのバプテスマはどこから来たものですか? 天からですか? それとも人からですか?』」
すると、彼らは互いに論じ合いました。
「もし『天から』と言えば、『ではなぜヨハネを信じなかったのか』と言われるだろう。もし『人から』と言えば、群衆が怖い。彼らは皆ヨハネを預言者だと思っているのだから……」
イエス様は、彼らの問いかけに対して直接答えず、逆に問いかけをされました。
「ヨハネのバプテスマは、天からのものか? それとも人からのものか?」
この問いかけは、最司祭や長老たちにとって、非常に答えにくいものでした。彼らの隙を突く、鋭い問いだったのです。その証拠に、彼らはすぐに答えず、相談を始めました。
彼らにしてみると、どう答えればいいのかわからないという、曖昧な状況だったわけです。
彼らは話し合い、「もし『天から』と言えば、『ではなぜヨハネを信じなかったのか』と言われるだろう。しかし、『人から』と言えば、群衆が怖い」と考え、どちらの答えも選べない状況に陥りました。
それで、彼らが答えたのは、「分かりません」というものでした。
彼らは、イエス様に対して論争を挑みましたが、結局、自分たちの矛盾を突かれ、曖昧な返答しかできなかったのです。イエス様は、彼らの心の矛盾を見事に指摘されたと言えるでしょう。
この出来事を通して、当時のユダヤ人たちの信仰が「見せかけの信仰」になってしまっている理由が見えてきます。
まるで葉が生い茂っているのに、実がなっていないいちじくの木のように、彼らの信仰は外側だけ立派に見えて、中身が伴っていませんでした。その理由は何かというと、彼らが神を恐れるのではなく、人を恐れていたからです。
彼らは、自分では神の前に立派に生きているつもりだったでしょう。義務を果たし、神の前を歩んでいると思っていたかもしれません。しかし、実際には、人の目を気にして生きていました。
人にどう見られるか。人がどう反応するか。そればかりを気にしていたのです。
そのため、信仰が形だけのものになり、神様との生きた交わりを経験できなくなっていたのです。イエス様は、そんな彼らの矛盾を見抜き、見事に指摘されたのです。
そして、イエス様はこう言われました。
「私も、何の権威によってこれらのことをするのか、あなたがたには言いません」
イエス様は、彼らに真理を伝えても、どうせ受け入れないと判断されたのかもしれません。また、彼らが抱える矛盾をはっきりと示すことが、何よりも重要だったのでしょう。
人は、自分に問題があると気づかなければ、求めようとしません。自分の中に解決できない課題や足りない部分、矛盾があると気づかない限り、私たちは真剣に神を求めようとしないものです。
ですから、イエス様は真理を語ることよりも、まず**「今のあなたたちはどんな状態なのか」**を示すことを選ばれたのだと思います。それによって、彼らが自分の問題に気づき、悔い改めることを願われたのでしょう。
これは、私たちにとっても大切なことです。
「見せかけの信仰になってはいけない」と思いながらも、どうしても形ばかりを求めてしまうことがあります。それは、多くの場合、人の目を恐れることから来ているのではないでしょうか。
「人にどう見られているか?」「人の声はどうか?」
そればかりが気になり、一生懸命頑張ってしまう。立派に振る舞おうとする。
しかし、よく考えてみると、「祈っていない」「神様に信頼していない」「神様に頼っていない」
そんな状態になってしまっていることがあります。
神様との交わりよりも、人の評価を気にしてしまう。そうなると、いくら奉仕を頑張っていても、だんだんと疲れてしまうのです。なんとなく一生懸命、信仰生活に励んでいるつもりでも、喜びや感謝がないと感じることがあるのではないでしょうか。
ですから、この話を、私たち自身への指摘として受け止めることが大切です。自分の中に矛盾がある、本当に足りない点があると気づいたときに、悔い改めて神様に祈ることが、とても重要なのではないかと思います。
さて、その後の話に移りましょう。
今日の最後の場面ですが、28節から、イエス様が長老たちや祭司長たちに問いかける場面が続きます。
28節:「ところで、あなたがたはどう思いますか?」
イエス様は、逆に問いかける形で、一つの例え話を語られました。それは、ある父親と二人の息子の話です。
「ある人に息子が二人いた。その人は、まず兄のところに来て、『今日、ぶどう園に行って働いてくれ』と言った。兄は『行きたくありません』と答えたが、後になって思い直し、出かけて行った。次に、父親は弟のところに行き、同じように頼んだ。弟は『行きます、お父さん』と答えたが、結局、行かなかった。」
これは、ぶどう園での出来事ですが、実は父親と二人の息子を通して、重要な教訓が示されています。
父親は、ぶどう園を管理しており、息子たちにそこで働いてほしいと願っています。兄の方は最初、「行きたくない」と拒みました。しかし、後になって「悪かったな」と思い直し、結局ぶどう園で働きました。
一方、弟の方は、「行きます!」と素晴らしい返事をしましたが、実際には行きませんでした。
ここで、兄と弟の明暗が分かれています。
イエス様は、この話を語った後、問いかけました。
「二人のうち、どちらが父の願いどおりに行動したでしょうか?」
すると、彼らは「兄です」と答えました。
それを受けて、イエス様は言われました。
「誠に、あなたがたに言います。取税人や遊女たちは、あなたがたより先に神の国に入ります。なぜなら、ヨハネがあなたがたのところに来て義の道を示したのに、あなたがたは信じなかった。しかし、取税人たちや遊女たちは信じたのです。あなたがたはそれを見ても、後で思い直して信じることをしませんでした。」
この解説を読めば明らかですが、イエス様が例え話で語られた「兄」は、取税人や遊女たちのことを指しています。
彼らは最初、神の道を拒んでいました。しかし、後になって悔い改め、神のもとに戻りました。一方で、ユダヤ人の指導者たち、つまり祭司長や長老たち、律法学者たちは、口では信仰を持っているように見えましたが、実際には神の御心に従っていませんでした。
イエス様は、ぶどう園の例えを通して、単に口先だけで従うのではなく、実際の行いが大切であることを示されたのです。そのつもりでいるのに、結果的には行かない。そういうことなのですよね。
取税人や遊女たちは先に神の国に入りました。しかし、ユダヤ人の指導者たちは、せっかくヨハネが来て義の道を示してくださったのにもかかわらず、結局それを受け入れず、信じることもしませんでした。そのために、彼らは神の国に入ることができなかったのです。
イエス様は、この例えを通して、彼らが抱えている問題を見事に指摘しています。しかし、それだけではなく、イエス様は彼らに悔い改めてほしかったのだと思います。
28節の最初のところで、イエス様は問いかけています。
「あなたがたはどう思いますか?」
イエス様は、論争を挑んできた彼らに対して問いかけられました。彼らは、憎しみと怒り、憤りに満ち、何としてもイエス様を訴えようとしていました。そんな彼らに対して、問いを投げかけながら語られたのです。
イエス様は、彼らに気づいてほしかったのです。この例えから本当に学んでほしいと願っておられました。
「今、あなたと神様との関係はどうなっていますか? 神様は何を願っておられますか? 御心はどこにあるのでしょうか?」
そうした思いが、「どう思いますか?」というイエス様の問いかけの中に込められているのではないでしょうか。
このようにして、イエス様はさまざまな人々に対して問いかけ、招いておられます。イエス様は、私たちの救いを願っておられるのです。
この例えを読むと、二人の息子の明暗がはっきりと分かれていることが分かります。
「行く」と言って行かない人。「行かない」と言って、最終的には行く人。
順番は前後しますが、ここではっきりとした対比が描かれています。
この世では罪人とみなされ、汚れた存在とされていた取税人や遊女たちは、神様の国に入ることができました。しかし、本来ならば神に選ばれ、救われていると信じられていたユダヤ人の指導者たちは、実は救いから除外されているのです。
私たちは、果たしてどちらに属しているのでしょうか?
ここで、もう一つの明暗が示されています。それは、神様の招きに対する人間の応答です。
「神様は惜しみなく与えてくださるお方です。祈れば必ず答えてくださるお方です。」
しかし、人間はその期待にちっとも応えようとしません。求めようとしないのです。
神様は気前のよい父なる神であり、すでに答える準備をしておられます。それにもかかわらず、人間は祈らず、頼ろうとしない。ここにも、はっきりとした対比が表れています。
イエス様は言われました。
「疑わずに信じて祈れば、必ずそうなる。」
本当に祈ることが大事なのです。本当に神様に信頼することが何よりも大切なのです。
見かけや形ではなく、神様と真に繋がっていることが大事なのです。
神様は答える準備をしておられるのに、私たちは祈ることや信頼することがいかに乏しいことでしょうか。そのために、私たちの信仰が生きたものとならず、形だけになってしまうことがあるのです。
イエス様が示してくださっているこのメッセージを、今日、私たちはしっかりと受け止め、心を開いて祈る者でありたいと思います。
疑わずに信じ、御心に信頼して祈り続ける者でありたいと思います。
この後、皆さんで心を合わせて、一生懸命祈っていきたいと思います。一言、お祈りいたします。
〈祈り〉
愛する天の父なる神様、あなたの導きに感謝いたします。
私たちは、あなたを信じると告白しながらも、いつの間にか自分の力に頼り、人の目を気にしたり、恐れたりして、中身のない見せかけの信仰に陥りやすい者です。どうか、そのような傾向から私たちを守り、真実にあなたにより頼むことができますように。
あなたは、いつも私たちの祈りを待っていてくださるお方であることを覚え、心から感謝いたします。
この後も、私たちを一つにし、心を開いてあなたにより頼み、信じて祈ることができるようにしてください。そして、あなたが私たちの祈りを聞いてくださる恵みを、深く味わうことができますように、どうか助け、導いてください。
御言葉によって、いつも励ましてくださることを感謝します。
イエス様のお名前によって、お祈りいたします。
アーメン。