イエス・キリストをより良く知るために

神の命ずるままに・・・レビ記8章1~13節

 
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若井 和生師
若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。
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(序)礼拝に参加することと、礼拝者になること

今日の御言葉から「命じられたとおりに」という題でお話をしたいと思います。

今回のコロナの影響で、礼拝休止に追い込まれた教会が沢山あるようです。そしてそれに合わせてインターネット礼拝、インターネットによるオンライン礼拝に切り替えた教会がたくさんあるというふうに聞いております。その話を聞いて聖園教会でも、オンラインで礼拝を始めようかどうか私も考えました。少し祈って考えて、今回はオンラインで礼拝をしないことにしました。一緒に集まって礼拝ができなかったのはとても残念だったんですけれどもでも、この経験を大切にしたいなという風に思いました。礼拝ということについて根本から考える良い機会が神様から与えられたんじゃないかなという風に思ったからであります。

礼拝に「参加する」ということと、私たちが「礼拝者になる」ということは、区別して考えなければいけないことだと思います。日曜日に教会に来れば、礼拝に参加したことになります。あるいはオンラインを通してインターネット礼拝に参加することができます。

でも神様が求めていることは、ただ単に私たちが「礼拝に参加する」ということではなくて、私たち一人一人が「礼拝者になる」っいう事、そのことを主は私たちに願ってるって事を、この機会にともに覚え合いたいなと思いました。そしてそれは実は私たちの普段の歩みの中から始まることであり、家庭の中で始まることであるということを、その時に示されました。アブラムは、いつでもどこでも祭壇を築く人でした。移動していったその場所で、祭壇を築く人でした。彼の日常の歩み中に礼拝があったっていうことを私たちは聖書を通して教えられますけれども、礼拝は家庭の中から始まるっていうことを聖書をとおして教えられます 。

それで今回一緒に集まって礼拝できなくなったのをきっかけに、家庭礼拝を励ますように導かれました。皆さんニヶ月の間、家庭での礼拝、いかがだったでしょうか。1回や2回ならよかったけれども、ニヶ月も続くとやっぱりマンネリ化してきて大変だったっていう方が多いかもしれません。やっぱりみんなで集まって礼拝できたらそれが最高だと思います。そしてそれが聖書的な礼拝ですですから、家庭礼拝で終わってしまってはいけない。ただこの機会に私たちは、大切なことを確認したいなという風に思います。コロナの感染者数がまた増えてきてです、ねもしかしたら一緒に集まって礼拝することは難しくなる可能性が出てきてるかなとちょっと心配しております 。 また一緒に礼拝することこんなに感じるようなことがあるかなと思ってるんですけれども、その時に改めてまたオンラインで礼拝するかどうか考えたいと思うんですけれども、その前に私たちが目指すべきところに確認したいなと思うんですね 。

私たちは単に礼拝に集うということだけではなくて、礼拝者になるということを目指そうではありませんか。神様はそのことを願っているということをぜひ覚えるもので会いたいなと思います。さて礼拝者になるっていう事は、どういうことなのでしょうか。今日割引の発症からここに礼拝者になるということはどういうことなのか、非常に多くのことを教えられる箇所なのかなという風に思いました。八章の一節からもう一度読んでみたいと思います。

(1)アロンの任職

主はモーセにこう告げられた。「アロンと彼とともにいるその子らを連れ、装束、注ぎの油、罪の清めの捧げ物の 雄牛、二匹の雄羊、種なしパンのかごを取り、全会衆を会見の天幕の入り口に集めよ。モーセは主が命じられたとおりにした。会衆は会見の天幕の入り口に集まった。モーセは会衆に言った。「これは、主が行うように命じられたことである。」

このレビ記8章はアロンとその子供達が、祭司として任職される場面を描いております。祭司というのは、会衆を代表して礼拝を導く勤めが与えられた人たちのことです。モーセより三歳年上だったそうですがモーセのお兄さんアロンが、そしてその子供たちが、この特別な任務が与えられたということになります。

今日の聖書を通して最初に教えられるのは、これらはすべて神の発案であり神の命令であったということです。1節、「主はモーセにこう告げられた。」ここから始まる。そしてその告げられた内容というのは、アロンとアロンの子供達を連れてきなさい。しかじかの準備をして、彼らを祭司として任職しなさいというそういう命令なのです。アロンとその子供達の祭司としての任職は、モーセのアイデアではない。神の命令であったということがわかります。しかも神様はモーセに全会衆を、会見の天幕の入り口に集めよと、3節に書いてあります。アロンとアロンの子供達だけではなくて、イスラエルの全会衆、全ての民が、神様の前に来るように求められた。そしてその全ての人々の前で、アロンが任職される、アロンの子供たちが任職される、その姿を、その場面を、イスラエルの全会衆が見なければいけない。

知る必要があるそういう導きだったということがわかります。それはイスラエルの民全員が礼拝者となるためです。選ばれたのはアロンとアロンの子供達だったかもしれません。特別な勤めを彼らに与えられました。でもそれはイスラエル全体が礼拝者となるために必要なことだった。彼らはまさに全体の礼拝を導くために選ばれた、任職されたということであります。

そして皆が集められたところで、モーセは5節で会衆に言いました。

「これは、主が行うように命じられたことである。」

自分から出たことではありません、これは神様の命令ですということを、あらかじめ宣言した上で、そこからアロンとアロンの子供達の任職が始まっていく。その場面を皆、見ている。

そしてそれがずっと続いていくんですね。八章~十章まで続いていくですけれども、ここで強調されていることはモーセは主が命じられたとおりにしたということが何度も、何度も繰り返されていくんですね 。

9節でもそうです。 

「主がモーセに命じられたとおりである。」

13節でも出てきます。

「主がモーセに命じられたとおりである。」

17節でも出てきます。21節にも出てきます。29節にも出てきます。

そして最後の36節でも、

アロンとその子らは、主がモーセを通して命じられたこと全てを行った。

全部神様の発案であり、神様の命令であり、モーセはそれに従って命じてその通りに行ったということが繰り返し繰り返し述べられている、そういう内容になっているということを意識したいなと思います。この箇所から、神様は私たちの礼拝を求めている、望んでおられる、私たちが「礼拝者になる」ことを願っておられるということを、私たち教えられんではないでしょうか。

なぜ神様はイスラエルの民、全員を集めたんでしょうか?そしてその前で、 アロンとその子らは祭司に任命されたでしょうか?

それは主が、イスラエルの民に「礼拝」を望んでいるから。単なる礼拝という行為を望んでるというのではなくて、本当に一人一人が真実の「礼拝者」として神の前に立つ、心からの礼拝をお捧げするということを、神様が語っておられる。

その願いを、私たちはどれだけ意識しているだろうかということを、問いかけたいなという風に思います。私たちが礼拝に来るということはもちろん大切なんですが、それ以前に神様が私たちを礼拝に招いているというその事実が、どれだけ私たちの中に自覚されているのか、それがどんなに大きな恵みであるかということを、私たちはどれだけ意識しているのか?主がわたしたちを招いていてくださる。なんてすごい光栄ではないかなと思うんですね。私たちのような本当に罪深い、罪に汚れた私達の事を、主が招いてくださっている。

なんと幸いなことではないでしょうか。

主の恵みに対する応答としての礼拝があるんだということと、そのことを私たちはもっともっと意識して、自覚していくものでありたいなと思います。 

(2)任職の中身~礼拝者になるために必要なこと

さて私たちは礼拝者となるためには、「招かれている」ということなんですが、招かれたら普通に来ればいいかと言うと、そうではないということが次に教えられることであります。

私たちにはやはりふさわしい方法と、ふさわしい態度が求められている、神の前に集うことにふさわしい方法と態度が求められているということを次に教えられます。

今日の記事を通して、アロンの任職の儀式がこれから始まっていく、その内容がずっと出てくるんですけれども、四つのことから成り立っていたということが分かるんです。

一つ目は、「水による洗い」という言葉が6節に出てきます

二番目に、「祭司の衣服の着衣」、7節から9節まで装束を着せられて行くというそういう儀式が次に続きます。

三番目に油が注がれる、「油注ぎの儀式」が10節~13節に出てきます。

最後四番目に「生贄を捧げる」ということが14節からずっと36節まで続いていくんですね。

以上、任職の儀式の中に四つの内容があったということがわかります。

まず6節、

モーセはアロンとその子らを近づかせ、彼らを水で洗った。

この水による洗いは清めを表しています。

私たちは礼拝に参加する前に、知っておかなければならないことがあります。それは私たちがそのままでは決して神様の御前に出ることができないということなんです。罪深い私たちが神様の前に出てお会いするということは本来あり得ないことです。もしそのまま聖なる神様の前に出てたら、私たちは死んでしまいます。そういう存在なんだということを私たちは覚えておかなければいけません。まず私たちは清められなければいけないんです。清められて初めて神の前に出ることができる。この事実を私たちは忘れたままで、礼拝に来ることがないようにしなければなりません。何か映画を見るかのような感覚で、あるいは劇場でコンサートを聴くような感覚で、神様の前に来るということがないように、自覚する必要があるのじゃないかと思いますね。

2番目に

アロンとその子達は祭司の衣服を着せてもらわなければならなかった。8章7節~9節。

そしてアロンに長服を着せ、飾り帯を締め、その上に青服をまとわせ、さらにその上にエポデを着せた。すなわち、エポデのあや織りの帯で締めて、彼にエポデを着せた。次に、彼に胸当てを着け、その胸当てにウリムとトンミムを入れた。また、彼の頭にかぶり物をかぶらせ、さらに、そのかぶり物の前面に金の札、すなわち聖なる記章を付けた。

まるで着せ替え人形のようにアロンとその子供達は、色々な服を着せられ、その上、帽子まで被らされて、祭司の装束を身につけたということが書かれています。この祭司の装束については、出エジプト記28章に詳しく書かれています。レビ記には書いていない情報が沢山出てきます。例えば祭司の装束に用いられた服の色は何色だったかとか 、模様はどんな模様で、使われる糸の色はどんな色で、飾り物はどんな飾りものだったのかなどについて詳しく書かれています。

これらの祭祀の服装に見られる特徴は、 霊的な意味が表されていたのです。それは全体として神様の栄光と義を表す装束であったということが記されてあります。

ですから、アロンがその装束を身につけた時、アロンの気持ちは本当に引き締まったのではないかと考えられるのですね。 それを身に付けた時に、自分に与えられた務めがどんなに大切な務めであり、神様の前に出るということがどんなに重要なことであるかということを、身にしみて感じる、本当に心から主に仕えてゆかなければならない、そんな自覚が与えられる装束だったのではないでしょうか。

私たちは今、礼拝に来る時に、そういう装束を着る必要はありません。でも私たちは心においては本当にそういう気持ちで、主の前に出るということが求められているのではないでしょうか。聖なる神様は私たちを招いてくださっている、その恵みに感謝しながら、ただ何となく来るということではなくて、本当に心から感謝して、最高のものを身につけて、最高の心の状態で主にお仕えするという気持ちで出席するということが、私たちに求められているのではないかと思います。そのようなことをこのレビ記のメッセージから受けとめる者でありたいと思います。

3番目は油注ぎ

10節から12節、

それから、モーセは注ぎの油を取って、幕屋とその中にあるすべてのものに油注ぎを行った。こうしてそれらを聖別した。さらに、それを祭壇の上に七度振りまき、祭壇とそのすべての用具、また洗盤とその台の油注ぎを行い、それらを聖別した。また、注ぎの油をアロンの頭に注いだ。こうして彼に油注ぎを行い、彼を聖別した。

まず始めに礼拝に用いられる器具の聖別、最後にはアロンの頭の上にも油が注がれて聖別されたということがここで述べられています。聖別というのは、神様のために特別に取り分けられることです。つまり神様のために、この世から分離して特別に取り分けられということ、 聖なるものと俗なるものとが一つに交わることがないということは聖書で教えられております。正義と不法に何の関わりがあるのか光と闇に何の交わりがあるかキリストとベリアルに何の調和があるか信者と不審者は何を共有しているか新約聖書にも教えられています私たちも礼拝者になるためには油注ぎを受けなければならないわけです。御霊の満たしを頂いて、聖別されるということが求められるのです。この世と分離されることがないままに、この世のものを持ち込んで、神の前に出てくることがないように注意しなければいけません。

そして最後に四番目、

生贄を捧げるという儀式が続いています。その内容が14節から最後の36節まで続いています。

ここを詠むと罪の清めの捧げ物がまず捧げられて、その後に全焼の捧げ物が捧げられて、任職のための雄羊と言うものが捧げられて、読んでゆくと実に沢山の牛や羊や家畜たちが屠られ、血が流されて、神様の前に捧げられたんだなという事が分かるそう言う内容になっています。これは祭祀達の罪が完全に取り除かれるために必要なの儀式でありました。最初に清めの水が掛けられたので、もう清められたのかなと思っていたのですが、でもそれでは不十分で、さらに徹底して罪が取り除かれなければならない、そういう儀式が続いていったという事なんですね。祭祀は神の前に出る人です。神の前で奉仕する人です。その人に罪があっては神と交わる事ができないのです。ですから完全に罪が取り除かれるようにたくさんの家畜が屠られていってそれを見るたびに礼拝者達は自分達の罪深さを自覚したのだとおもいます。そういう儀式を経て初めて神様にお会いできる、礼拝者になる事ができた。そういう導きの中にあるということを私達は教えられるのではないでしょうか。

(3)祭司としての教会

新約聖書第一ペテロの2章5節を見ると

“あなたがた自身も生ける石として霊の家に築き上げられ、神に喜ばれる霊のいけにえをイエス・キリストを通して献げる、聖なる祭司となります。”

と教えられていて、私達教会が建て上げられている途中なんですけれども、聖なる祭祀になるんだよと教えられています。教会は聖なる祭祀なんだという事が教えられております。祭祀に委ねられている大切な務めというのは、神と人との間に立って、人々の罪の赦しのために執りなしをする事です。

先に救われた私たちが神の前に立ってまだ救われていない人のために執りなしをするという事、そして先に神のものとされた私達がこの世の祝福を祈るという執りなしの務めが与えられていいるという事が教えられています。今の世にあってこの務めは、どんなに大切な務めでしょうか?

今の病んでいるこの時代にあって私達に与えられている務めはどんなに大きな務めであるでしょうか。

そして神様が私達を礼拝者として求めておられるとしたなら私達はこの大切な務めを心して受け止めていかなければならないのではないでしょうか。

でも私達はどんなに頑張っても罪に汚れた者たちです。どんなにふさわしい者になりたいと思ってもそうはなれない、そういう悩みを抱えている私たちです。神様のの基準には到底達することのできない、しかしそんな私達のためにイエス様が来てくださった。そして私たちが神様と出会う道を開いてくださった。

新約聖書のヘブル人への手紙を読むと教えられることなんですけれども、実はこのアロンの姿というのは大祭祀となられたイエスキリストの姿を表しているのですね。つまりアロンの姿はイエス様の雛形だと言われております。

アロンが油を注がれて、そしてそこで生け贄を捧げたように、イエス様も聖霊の油をいただいてそして自らのからだを生贄として捧げてくださってそして大祭祀として至聖所である十字架にかかって幕を破ってくださった、そのようにして私たちが神様と出逢う道を開いてくださった、その事が新約聖書で教えられている事です。

ですからアロンはイエス様に繋がっていることを是非覚えていただきたいなとおもいます。

(4)まとめ

もし私達が恵みに応えて神さまを礼拝できるとするならば、それは全てイエスキリストの恵みの故なのです。私達はイエス様を通して神様と出会うのです。ですから是非この恵みに感謝して、イエス様を信じ、イエス様に信頼し、またこの方を通して神を礼拝するものになろうではありませんか。目に見えない神様が私達を招いておられる、真実な礼拝者を求めておられる、その願いに少しでも応えて主に礼拝を捧げる者として歩んで行こうではありませんか。

 

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