白髪の老人の前では起立せよ
(序)
コロナ禍の中にあり、人との距離を取らなければならない中にあって、神様のことを考えたり、神様とともに過ごしたりする時間は増えたでしょうか。人間は自分勝手な生き物です。何でも自分の思った通りにいかないと満足できないところがあります。しかし、様々な痛みと苦しみの中で神様を意識すると、深い慰めを感じます。そして神様が自分のために関わって下さり、導いて下さる祝福の人生が開かれていることに目が開かれていきます。
イスラエルの民は約束の地を目指して旅をしていました。彼らを導いていたのはもちろん神様です。神様が彼らを約束の地・カナンまで確実に導き、その地を祝福したいと考えていました。つまり、神様のご計画の中で歩む者として彼らを導いて下さっていたのです。信仰者の歩みが幸いなのは神様のご計画の中を歩ませていただけることです。自分の計画の中に神様を引き寄せようとするところから、様々な苦しみが生まれてくるように思います。
【1】 異教世界の中にあって守られるように
前回はレビ記19章19節から25節までのところを取り上げました。そこに書いてあったことは「2種類の異質のものを混じり合わせてはいけない」と言うことだったり、あるいは「約束の地に入って果樹を植えた際に、実がなっても最初の3年間はそれは禁断の実であって食べてはいけない。そして四年目に初めてそれは聖なるものとなって神様に捧げられるものです」ということでした。そしてイスラエルの民がその実を食べることができたのは実に5年目からだったというそういう内容の展開でした。
そういう箇所を通して私たちが教えられたことは、神の国と神の義を第一に求めるということ、そしてまさに私たちのペースで生きるのではなく、神様の定められたペースに合わせて生きる、つまり主を恐れて生きるということが大切だということを教えられました。
今日はその続きの箇所ということになります。今日の箇所においてもやはり、イスラエルの民が約束の地カナンに入った時の事が想定された上で、今日の内容があるということが分かります。この時イスラエルの民は、エジプトから解放されて約束の地カナンに向けて旅をしている途中です。それは40年間かかったということなんですけれども、だいぶ時間がかかるんですけども、でも必ず約束の地に到着出来るという約束でした。ですからイスラの民はカナンの地に入植するわけですけれども、その時のことが想定されているということが分かる。そしてそこで生活が始まった時に、やがてそこに入ることができる、それは確実ですけれども、そこに入った時に気を付けなければいけない事があるんだよと、あらかじめ想定された上で語られた掟であるということがわかります。
今日先ほど読んだところに様々な掟が出てくるんですけれども、これを一言でまとめて言うならば、異教世界の風習をマネしてはいけませんということです。特に偶像礼拝の禁止がここで教えられていることであるということがわかります。
約束の地カナンの地は、乳と蜜の流れる地と呼ばれるくらい、農業の面においては本当に豊かな豊穣の地ということで、実り豊かな地であったけれども、でも同時にその地は様々な神々が崇められる偶像に満ちた場所でありました。そしていろんな習慣があるわけですが、その習慣が偶像礼拝と結びつけられているそういう地域でありました。イスラエルの民はやがてその地に入っていくわけですけれども、入っていった際にそんな異教的習慣に影響されることがないようにと、神様がここで予め命じられているのがこの掟の数々ということになります。ここではやはりそのような環境の中であっても、そのような状況の中にあっても、主を恐れなさい、主を恐れることの大切さをここで教えられているということがわかります。
具体的にどんな掟であったかと言うのを見てみますと、まず初めに出てくるのが、26節で「まじないや占いの禁止」が1番目。二番目は27節で「異教的な風貌を真似ることの禁止」、3番目は28節で「死人のために体を傷つけることの禁止」4番目に29節で「娘に淫行をさせることの禁止」、最後五番目に31節で「霊媒や口寄せを頼りにすることの禁止 」、以上の五つの掟がここで語られているということがわかります。26節では、
と、まずイスラエルの民は命じられております。
血がついたままで食べてはならない。血というのは命を象徴的に表すものでした。血がついたままで食べるという行為が、何らかの宗教的な意味合いを持つ宗教儀式であったと考えられます。そして「まじない、占い」と出てきますが、これは異教世界に典型的に見られる習慣でありました。
27節では、
と命じられております。
頭のもみあげを剃り落としてはならないとありますが、おそらく当時そういうヘアスタイル、あるいは髭のスタイルがあったと考えられます。そしてこれは、私たちから見ると非常に些細なことに見えるかもしれませんが、当時の異教徒の中で見られる一つのスタイル、風貌であった、ヘアスタイルであったということがわかります。それを真似してはいけないとあって、そこにも危険があったとかんがえられます。
28節では、
と命じられております。
死人のために、死者と交流するために、自分の体を傷つけるという宗教行事がそこにあったということが考えられます。刺青も、そういうことを表していたという事が想定されます。死者と交流する時のしきたりだったということであります。29節では、
と命じられております。
それは地が淫行に走り、地がみだらな行為で満ちる事がないいようするためであるということがここに教えられています。親が自分の娘に淫行をさせるという恐るべき習慣が、ここにはあったということが分かるわけですけども、これは一般的な事を言ってるのか、もしくは当時の異教の神々の神殿には神殿娼婦と呼ばれる女性たちがおりまして、そのような女性と性的関係を持つことが宗教儀式として礼拝の中に含まれていたと言われております。ですから、そういうことが禁じられていたのかもしれません。いずれにせよそのような習慣が、非常に破壊的な影響をその地域にもたらすものであり、その地全体を汚してしまうということがここで警告されているということが分かります。さらに31節では、
と、ここでも汚されてしまうということが警告されておりますけれども、これもやっぱり死者と交流するための一つの宗教の儀式であったということがわかります。
被災地支援のために岩手の沿岸の方に行くと、被災者の中には突然津波によって亡くなった人が沢山おりまして、その亡くなった家族の方とお話がしたいという方が結構い羅っしゃったんですよね。青森の恐山という所にやはり口寄せと呼ばれる人たちがいて死者と交流するというそういう習慣があるんですね。結構そういうところに行っている人が多いんだなと思わされましたけれども、その当時のイスラエルのカナンの地においても、そういう習慣があったということが分かるかと思います。
ここに出てくる色々な習慣があります。それは全て カナンの地に住む人々の間で行われていた習慣で、その多くが偶像礼拝や宗教儀式と結びついていたということが考えられます。
神によって選ばれた、そして聖なる民とされたイスラエルが、やがてこの地に入ります。このカナンの地の住民になります。たとえ神に選ばれた聖なる国民としてのイスラエルであったとしても、その地に入った後は、これらの誘惑は非常に大きいものでありました。どうしてかと言うと、人はすぐに周りの環境に影響されやすい存在だからであります。
今に生きる私たちも同じではないかと思われます。信仰者もその影響を避けられないんじゃないかと思いますね。私たちの行しばしば聖書が言っているからということではなくて、この世で当然とされていることだから、周りの人達がしていることだから、そういうことが行動の基準になってしまうことが結構あるんじゃないかなと思います。周りで当然と思われるということは、いずれ私たちにも当然となってしまうことがあるのではないでしょうか。信仰者といえども、このような価値観から自由であるというのはとても大変なことだと感じます。そしてこの世には本当に様々な神々が満ちております。神々の影響がこの地にもたらされております。そして私たちもそんな神々にすぐに心を奪われやすい弱さ抱えているのではないかと思います。でも私たちはその中にあって、主を恐れるということを忘れてはいけない。そういう環境の中にあっても、そんな時代の中にあっても、私たちは絶えず神様を神としていくこと、この方を主であると告白し続けることが求められているということを今日の聖書箇所から覚えたいという風に思います。
今のこの世の中にとっての偶像って何でしょうか?
黙示録の中に、「終わりの日はどんな日になるのか?」っていうことが予言されている聖書の個所があります。黙示録17章には、「大バビロンと大淫婦」という呼ばれる存在が現れて、そしてその時代の人々の心を虜にする様子が描かれています。例えば黙示録の17章の2節に、
「地の王達は、この女と淫らな事を行い、地に住む人々は、この女の淫行のぶどう酒に酔いました」
そういう言葉が出てくるんですね。地の王様達も、また当時の人々も皆この女とみだらな行為をしてぶどう酒に酔っていた、そういう記述があります。いかにこの大バビロン・大淫婦の存在が大きな存在であったかということが分かる。これはと富と快楽の象徴であるというふうに考えられます。
現代の私たちの生きているこの時代の価値観も、多くはこの富と快楽の影響に汚染されているんではないでしょうか。そしてこれからの時代はますますそうなっていくんではないでしょうか。
その中にあって私たちは何と影響されやすいことでしょうか。そのような異教世界の強大な力が強力に働いている中にあって、私たちはクリスチャンとして信仰を持って歩んでいかなければなりません。私達はとても誘惑されやすい面を持っています。
でもその中にあって、私たちは主を畏れていくことを大切にしていく者でありたいと思います。
【2】 安息日を守る
さてそれでは私達はどうしたらいいんでしょうか?このような異教世界の中にあって、私たちはどのようにして神を恐れ続けることができるんでしょうか?その点を次に注目していきたいと思います。
このような中にあって神様はちゃんと私達を守ってくださることを感謝したいと思います。
私たちはこのような環境の中にあってどのようにして神を畏れることができるんでしょうか?
まず第一になすべきことは、安息日を守るということです。
30節のみ言葉に注目しましょう。30節でこのように語られています。
あなたがたは、わたしの安息日を守りなさい、そして私の聖所を恐れなければならないと命じられております。また安息日が出てきたと思われた方もいるかもしれません。ちょっと前の19章の3節でもやっぱり私たちは学んだばかりでした。あの箇所においても、「私の安息日を守らなければならない」と教えられていました。そして4節を見ると、あなたがたは偶像の神々に心を移してはならないと命じられております。ですからやはり偶像礼拝の危険の中にあって、私たちは安息日を守るということは、本当に大事だということが、あの箇所においても教えられておりました。そしてこの箇所においてもまた同じことが繰り返されている。
しかも今度の箇所においてはカナンの地、やがてイスラエルの民が入植するカナンの地が、どいういう地であって、どういう誘惑がそこにあって、どういう価値観がそこに根付いていて、そういうことを意識させた上で、その中にあって安息日を守るということの大切さがここで教えられているわけであります。
私たちもこの世の中にあって、この世の様々な考え方、価値観の中にあって、その影響から守られ、神様を第一とするためにまずしなければいけないことはなんでしょうか?
それは安息日を守るということ、このことをぜひ私たちは覚え、心がけていく者でありたいと思います。
週のはじめの日を、特別に神様のために聖別して、主にお捧げをするということを私たちは求められております。そして今日の箇所においては、私の安息日を守り、私の聖所を恐れなければならない」と書いてありますね。私の聖所を恐れなければならない。
聖所ってどんな場所なんでしょうか?それは神様がそこにおられる場所ですね。神様が御臨在しているその場所、そしてこの聖所はイスラエルの民の中心に置かれておりました。自分たちの只中にともに生きておられる、そして確かにそこにおられる神様の聖所を恐れる、つまり神様を恐れるということですけれども、それを決して忘れてはいけない。そういうことがここで教えられていることが分かります。そのことがイスラエルの民を異教的な習慣から守るということがわかります。ですから私たちも安息日を大切にしていくものでありたいと思います。
いろいろな動機というものが私たちの中に働くわけですけれども、でもそれによって、結果的には私たちは一番大事なものを失っていくんではないであろうかと思いますね。神様が共におられるのにそのことが、わからなくなっていくんではないでしょうか。主が私たちと共に歩んでくださって、今私たちの生活を支えてくださり、導いてくださっている方がおられるのに、その方を意識することがだんだん出来なくなっていくんではないでしょうか。
そして私たちの生活の中に神がいない、神が御臨在しない、そして自分の想いの中で全てが回っていく。そういう中でどんどん この世の価値観に影響されて支配されていく、そんな生活に流されていくのではないかということですね。
ですから私たちまず、安息日を守るということ、時間を神様に聖別するということが、どんなに求められていることでしょうか。それは私たちの祝福のために必要なことです。是非心に留めて、これからも安息日を守り続けていきたいと思います。
【3】 高齢者を敬う
神を恐れるためにもう一つの事が今日の箇所で命じられておりますおでそちらも注目したいと思います。
それは高齢者を敬いなさいということであります。32節のみ言葉に注目しましょう。32節にこのように語られています。
「あなた方は」ではなく、「あなたは」と書いてありますね。「あなたは白髪の老人の前で・・・」。それは私たち一人ひとりが神様の前に問われていることであります。
高齢者を敬いなさいということ、そして今日の箇所を通して気付かされることは、そのことが神を恐れることに繋がっていくということですね。老人を敬うということが神を恐れるということにつながっていきます。なぜそうなっていくんでしょうか?非常に不思議なところだなと思いますけれども、なぜ老人を敬うことを通して神様を恐れることになるんでしょうか?ここに、
「白髪の老人の前では起立しなさい。」と書かれて「白髪」という言葉がここで出てきています。これは尊敬されるためには白髪でなければいけないという意味ではないんですね。髪の毛が薄くなってしまう場合もありますし、かつらを使うということもあります。そういう人は尊敬に値しないということではなくて、白髪ということは、私たちにとっては「老い」と「弱さ」の象徴であると考えられます。
でもそういう弱さを、仮に抱えていたとしても、仮に白髪であったとしても、そういう老いと弱さを抱えていたとしても、それにもかかわらず若い人たちは老人の前に起立しなければいけない、高齢者を敬わなければいけない、そして神を恐れなければいけないということが、ここで命じられております。この世では白髪というのは老いと弱さの象徴かもしれません。
でも聖書では、白髪というのは「栄の冠」であると教えられております。箴言16章31節の中に
と書かれてあります。私たち人間の目から見ると白髪というのは、老いて行くことの象徴、人間が弱っていくことの象徴かもしれません。しかし神様の目から見ると、それは栄の冠であると聖書で教えられており、それは神様にとって素晴らしいものなんだということがそこに教えられています。聖書では、この世とは全く別の価値観が教えられているという事に私達は気づかされるのではないかと思います。
現在の日本の社会を見ていて本当に寂しいなと思うことは、高齢者の人達が本当に粗末に扱われているんではないかということですね。今高齢者を狙った詐欺事件が各地で頻発しております。そしてその手口も年々巧妙になり、悪質になっていくんじゃないかなと思いますね。本当に年配者に対する尊敬が感じられないような時代になってきた。そしておそらくそれは戦後の日本、あるいはもっと前からかもしれませんが、この国は強い人、社会に貢献できる人、活躍できる人のための社会を築いてきてしまったということに関係あるのじゃないかなと思います。弱い人、社会の役に立たない人、活躍できない人、貢献できない人は価値を見出せないという、そういう状況にあるんではないでしょうか。それはつまり、人間そのものに価値があるのではなくて、人間にくっついている力とか、能力とか、技術とか、そこに価値があるという価値観に基づいて、この国は動いているということになるんではないでしょうか。そうなってしまうと力や能力、技術が衰えると価値がないということになってしまう。
でも聖書は何て教えてるんでしょうか?聖書は私たち一人ひとりが、神の形として創造されたと教えられております。私たち一人ひとりが神様の御手によって作られた一人一人であるということが教えられております。そしてイエスキリストはそんな一人一人のために十字架にかかって死んでくださった。それは私たち一人ひとりがどんなに価値があって尊い存在であるかということを証明しているんですね。神様もそのことを証明して下さったんです。
ですから仮に辛さを、弱さを抱えていたとしても、能力がないとしても、その人には栄光の冠が被らされている、そういう一人ひとりであるということを私たちは覚えたいと思います。私たちは高齢者を尊敬することで、それを証明するできるんですね。私たちは白髪の老人の前では起立しなければいけない。背筋をしゃんと伸ばしてそして尊敬と愛情をもって高齢者を敬う。そのことによって私たちは神を恐れることができるんです。
そしてその生き方、その証が、今の世の中にどんなに求められていることでしょうか。人間ということを考えるだけでも、聖書に基づいた価値観が本当に今のこの国に、この世に求められている。そのために私たちが本当にこの世の様々な影響の中にあって、しっかりと神を神として崇めていきたいと思います。この方を恐れ続けたいと思います。そのまわりの影響の中から私たちが守られますように、安息日を守り続けていこうではありませんか。本当に神様を神様として崇め続けていきたいと思います。そして高齢者の一人ひとりを本当に尊敬していくものでありたい、そのようにして神を恐れる者として生きていきたいと思います。
【祈り】
お祈りをいたします。恵み深き私たちの父なる神様、そしてこの邪悪な世の中、また混乱し戸惑うことの多い世の中にあって、私たちはどのように歩んでいったらいいのか、み言葉によって指し示してくださっていることを覚えて感謝します。私たちは、すぐ目の前のことに誘惑され惑わされますが、しかし私たちはしっかりとあなたを、あなたとして 礼拝者できる様に、崇めることができる様に、み言葉を通して守ってくださる方である事をありがとうございます。どうぞ私たちの歩みが、この世の価値観に流されるのではなくて、聖書を土台とした歩みができます様に、安息日を大切にしその日を聖別し、あなたを礼拝し続けることができますように。その様にしてあなたを恐れ続ける事ができる様に励ましてください。み言葉を心から感謝します。イエスキリストによってお祈りをします。アーメン