イエス・キリストをより良く知るために

わたしが、あなた方の神「主」である!

 
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若井 和生師
若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。

今日はレビ記の18章の御言葉から「私があなた方の神、主である」という題で説教をお語りいたします。レビ記も18章に入りますけれども、18章、19章、20章は、清潔律法とよばれ、道徳的な禁令や命令によって構成されている内容になっております。具体的な人間関係や実際の日常生活の中で、イスラエルの民が守らなければならない多くの掟が、その中に記されてあります。信仰者たちは礼拝の時はもちろんですけれども、礼拝の時だけではなく普段の生活の中でも聖なるものとしてあゆむことが求められていたということがわかります。

この世にもたくさんのルール、掟、決まりがあります。決まりごとがあります。私たちはどうしてそれらの掟を守るんでしょうか?

それはおそらく人に迷惑をかけないためであったり、それぞれの安全と安心のためであったり、そして私たちの健やかな生活の為ということではないかという風に思います。

【1】 主の掟(おきて)をなぜ守るのか

それでは私たち信仰者は、なぜ聖書に定められている掟を守るんでしょうか?その理由はどこにあるんでしょうか?

その理由は、神様が私たちの主であるというその事実にあるということをまず覚えたいと思います。

18章の1節と2節をお読みたします。

主はモーセに行こうを告げられた。「イスラエルの子らに告げよ。私はあなた方の神、主である」。

このように神様は、まずはじめに神様が、イスラエルの神、主であることを宣言され、その宣言をイスラエルの民全体に伝えるようにと、モーセにここで命じております。

そして同じ宣言が4節、5節でも繰り返されています。4節の最後にも、「私があなた方の神、主である」。さらに5節の最後でも、「私は主である」と、繰り返し繰り返し、「私はあなた方の神、主なんだということが宣言されているということが確認できると思います。

そして実はこの後ずっと読み進めていくとですね、18章、19章、20章にもこの宣言が繰り返し、繰り返し語られるんですね。

さまざまな、掟や命令が語られる合間、合間に、「私はあなた方の神、主である」という宣言が繰り返し出てまいります。つまりイスラエルの民が、主の掟を守る理由はまさにここにあったということです。神様が彼らの主であるという事実にあったということがわかります。

神様はイスラエルの民を選んでくださいました。そしてエジプトから救い出してくださいました。契約を結んでくださいました。イスラエルは神様にとって、宝の民であるとそう呼ばれました。神様との特別な関係の中に加えられたということです。

同じように私たちも神様によって選ばれ召し出され救われました。そして今、私たちは神の子供としての特権が与えられました。そのような神様との特別な関係の中に今生かされております。私たちを愛してくださっていて、私たちに期待しているからこそ、神様は私たちのことを選んでくださったんではないでしょうか。そのこと、皆さん知っているでしょうか?もちろん知ってると思います。頭ではよく理解してると思いますけれども、そのことを、よく恵みを味わいながら、日々生活の中でそのことを感謝しながら歩んでいるでしょうか?

神様によって選ばれたということなんですよね。それはやっぱり神様が、私たちを通して、何かなさりたいことがあるからこそ、選ばれたんではないでしょうか。

そのことを知っていることと、知らないでいることの違いは大きいんじゃないかなと思うんですね。そんなことを知らないで歩んでいるとすると、それは信仰者にとっては大きな損失だと思います。それを知っていることは、本当に与えられた人生を、生き生きと生きるために、神様の期待に応えて生きるために、本当に大切なことではないでしょうか。

ですから改めて私たちはこんなことを確認したいと思います。

神様は私たちの「主」なのです。この特別な関係の中に私達は生かされているっていう事なんです。この関係を意識するからこそ私たちは、喜んでこの方の掟に従うんではないでしょうか。

でも私たち、時々この特権を忘れてしまったり、見失ってしまったりすることが、あるのかなという風に思います。イエス様の弟子の一人にトマスという人がいました。トマスはある時家に戻ってみると、他の弟子たちがみんな喜んでいたんですね。彼らは「私たちは主を見た」と言って喜んでおりました。復活のイエス様が彼らの中に立ってくださって、現れてくださった。そのイエス様と出会った復活のイエス様を見たと言って、みんなおそらく興奮状態だったと思うんですけれども、トマスはそこなかった。それで戻ってきた時に、みんなが喜んでるの見て、一人だけその喜びの輪の中に入れなかったことが寂しかったのかなと思うんですが、言ってしまうんですね。

「私はその手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ決して信じません。」

みんなイエス様に出会った、見たと言って喜んでる時に、私は信じないって言ってしまう。心がちょっと硬くなりなってしまったのかなという感じがいたします。ところがそれからしばらく経った後、イエス様はもう一度、弟子たちの家の中に現れてくださいました。

そしてトマスに向かって言うんですね。

「あなたの指をここに当てて、私の手を見なさい。手を伸ばして私の脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」

このイエス様の言葉というのは、その前にトマスが言ってしまった不信仰な言葉の一つ一つに対応した、実に丁寧なお答えの言葉になってるんですね。
そのイエス様の言葉を聞いた時にトマスはもう、本当にイエス様は自分のことを良く分かっている、自分が信じることができないで、こんな精神状態になっていることも全部わかってくださって、その上で本当に丁寧に接してくださった。そのことが嬉しかったのかなと思うんですね。おもわず、そして言うんですね。「私の主、私の神よ」。そのような信仰告白に導かれました。

あのトマスも復活の主と出会えなかったことで一時は不信仰になってしまって、イエス様との関係を一瞬忘れてしまうようなことがあったようですけれども、でも復活のイエス様がトマスと個人的に出会ってくださった時に、トマトは「私の主、私の神よ」という告白に導かれた。そのやり取りがヨハネの福音書20章に出てまいります。

これは「私の主」と言っていますよね。これは「私のよく知っている主」という意味です。私が心からお仕えしている、「私のことを本当によく知ってくださっている主」っていうそういう意味です。

つまりトマスにとってイエス様との関係は、個人的な関係なんです。自分のことを本当によく知ってくださっている「主」なんですね。「私たちの主」じゃないんです。「私の主」なんです。私たちはこのイエスキリストとの個人的な関わりの中に生かされる時に、そのような告白に導かれていくんではないでしょうか。そして本当に心からこの方にお仕えしていきたいと、そういう気持ちにさせられていくんではないでしょうか。

イエス様はいつも私たちと共にいてくださると約束されております。私達のそばにいてくださいます。復活の主が共におられることを覚え、この方に心からお仕えしてゆくものでありたいという風に思います。

【2】 どんな掟を守るのか

 さて、イスラエルの民に与えられた掟の数々が、18章19章20章に出てくるんです。その中身に注目をしていきたいと思います。イスラエルの民が守らなければならない掟として、最初に命じられていたことは何だったでしょうか?3節を見ていただきたいと思います。3節をお読みいたします。

あなた方は自分たちが住んでいたエジプトの地の風習を真似てはならない。また私があなたがたを導き入れようとしているカナンの地の風習を真似てはならない。彼らの掟に従って歩んではならない。

イスラエルの民がまず初めに守るように求められたこと、それはかつて彼らが住んでいたエジプトの風習を真似てはならないという事が一つ、そしてもう一つはこれから導き入れられるカナンの地の風習をも真似てはならない、彼らの掟に従って歩んではならないということがもう一つ、この二つのことがここで命じられているということがわかります。

ここに風習という言葉が出てきますけれども、これはどのような風習だったんでしょうか?その内容が18章、19章、20章を読んでゆくと分かるんですけれども、最初に告げられた内容は、読むこともためらわれるような、恥ずかしく、みだらな行為の数々であります。

それが6節から始まって18の終わりまでずっと続いていくんですけれども、その内容は言ってみれば近親相姦、重婚、性的放縦、つまり性的な不道徳の罪が数々ここに出てくるんですね。そのことが警告されているということがわかります。

読み進めていくと、「動物と寝て動物によって身を汚してはならない」ということなども出てくる。非常にみだらな行為の数々ということになるわけですけれども、実はエジプトやカナンにおいてこのような風習が一般的に執り行われていたという風に言われております。

イスラエルの民はエジプトから救い出されて、今、約束の地のカナンに向かっている途中です。そして今日の聖書の箇所を通して、今これから向かおうとしているカナンの地も、かって彼らが居たエジプトと同じように汚れた地であったということがわかります。
カナンの地というのは約束の地でして、まさにイスラエルの民が今、目指している目標なわけですけれども、そしてそれは乳と蜜の流れる地と呼ばれまして、農業的には非常に豊かで豊穣の地であるという風に言われるわけですけれども、しかしその地は同時に、退廃的なモラルに満ちた非常に汚れた地であったということが分かる。その地に入った時に、これから入るわけですけれども、その入った時に、その土地の風習を真似ることがないようにと、神様があらかじめ警告を発しておられたのがこの3節の言葉であるということが分かる。そしてその後の展開は皆さんよくご存知だと思います。聖書読み進めていくと、イスラエルの民は約束の地に到着をして約束の地に定住します。それとイスラエルの民は残念なことに、神様があれほど警告してくださっていたのにも関わらず、最終的にはその土地の風習をまねてしまう。そして堕落していたっていうことが士師記という聖書の箇所を読むと書いてあります。その結果、神さまの祝福から切り離されていくっていう、そういう残念な結果になったということが聖書読み進めていくと分かると思います。

今の私たちのこの世の中はどうでしょうか?やっぱりこの世においても、性的な乱れが非常に満ちている状況ではないかと思います。以前であれば歌舞伎町などの限られていた地域に限定されていた誘惑が、インターネットやスマホなどを通して日々私たちの 中に入ってきているんではないでしょうか。しかもこの世では、それらがあまり異常ではなくむしろ普通のこととして受け止められている面があるんではないだろうか。眉をひそめる大人達はいても、をそれらの罪の深刻さと危険と警告する人はほとんどいないのではないでしょうか。人間の欲望がそのまま肯定されてしまっている世の中になっているように思います。

その中にあって私たちは信仰者として歩んでいるわけですが、しかし信仰者であってもその誘惑は非常に大きいということを認めなければいけないのではないかという風に思います。

でも聖書はその結果もはっきりと伝えております。18章の29節を読みたいと思います。

「誰であれ、これらの忌み嫌うべきことの一つでも行う者、それを行う者は、自分の民の間から断ち切られる。」

これが聖書の警告であります。私たちはこの警告の言葉を恐れをもって受け止めなければいけないという風に思います。

18章19章20章と清潔立法と呼ばれる律法、様々の掟が紹介されていきます。そしてこの後読み進めていくと、例えば来週学ぼうと思っていますけども、あなた方の両親を大切にしなさいとか、偶像礼拝してはいけないとか、貧しい人々に対して親切にしなさいとか、不正な裁判してはいけないとか、色々な掟が出てくるんですね。

 

しかしそれらに先立って、まず神様によって語られた掟は、この性的関係の乱れについての規定であったということを私たちはここで教えられる。まず神様がイスラエルの民に最初に伝えたかったメッセージは、この点にあったということに私たちは注目しなければいけない。それはこの問題がそれだけ人間の欲望と結びついている、私たちの心の深いところにある願望と結びついているということを表わしているのではないでしょうか。そしてイスラエルの霊的な堕落というのは、まずここから始まるということ、そのことも教えられます。

私たちにとって、男女の関係や結婚や性的なことというのは、私達の欲望や願望としっかり結びついている病気だと思います。それゆえに一番誘惑されやすいところでもあるし、サタンの攻撃が非常に激しいところでもあるかなと思います。そして一番清められづらい領域ではないだろうかという風にも考えられる。ですから私たちはその深いところを本当に本当にしっかりと神様によって守ってもらうということ、神様の御言葉によってしっかり守ってもらうということが、大事なんだっていうことをこの聖書の箇所から受け止めるものでありたいという風に思います。

私たちはイエス様を信じた時に、新しいものにされました。

「誰でもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られたものです。古いものは過ぎ去って、見よすべてが新しくなりました」
第2コリントの5章17節にそのように教えられています。

ですから私たちはイエス様を信じましたから、本当に新しいものに作り変えられて、新しい 性質を与えられました。しかしそんな私達であったとしても、この罪に汚れた世の中にあって、信仰の見事な綺麗な花を咲かせるというのはなかなか大変なことではないだろうかなという風に思います。この世に浸っていると、この世の中で歩んでいると、この世で当たり前になっていることが、だんだん私たちにとっても当たり前のように感じられてしまう現実があるんではないかなと思います。聖書が教えていることよりも、周りがしていること、みんながしていることが、私たちの基準になってしまうということがあるんではないだろうかと思いますね。そして最終的には、神さまのみ心に従ってということではなくて、むしろ自分の願望や欲望に従って生きていくということが、信仰者にも起こりうるんではないだろうかという風に思います。ですから信仰者であってもこの世における戦いは激しいんだっていうことを、私たちはよく自覚しなければいけないという風に思います。

【3】 まとめ

 どうすれば私たちはこの世にあって、勝利者になれるんでしょうか?

パウロは「イエスキリストによって私たちは圧倒的な勝利者になる」って宣言しました。告白しました。どうすれば私たちは圧倒的勝利者になることができるんでしょうか?

二つのことを今日の聖書の箇所から確認したいという風に思います。

1.み言葉の中に

一つは、み言葉の中に私達の身をしっかりと置くていうこと、そしてしっかりと、み言葉によって守ってもらうっていうこと、これがどんなに大事なことでしょうか。そのこと覚えたいなと思います。4節と5節をお読みいたします。

私の定めを行い、私の掟を守り、それらの中にあって歩まなければならない。私があなたがたの神、主である。あなた方は私の掟と私の定めを守りなさい。人がそれらを行うなら、それらによって生きる。わたしは主である。

こういうふうに教えられていますけども、この中で4節の中に、「それらの中にあって歩まなければならない」と教えられている点に注目したいなと思うんですね。

「それら」っていうのは、私の定め、私の掟、つまり神様の御言葉ということですが、この神のみ言葉の中にあって歩みなさいと教えられている、「この中にあって」というのはつまり、つまり私たちはこの神様のみ言葉の中に浸るって言うこと、聖書がそこで表している世界があります。そしてそこで教えられている価値観、聖書の価値観がある。その中に私達が浸る、その中に自らの身を置くっていうこと、そのことによって御言葉によってしっかり守ってもらうっていうこと、そのことを私たち大切にしたいなという風に思うんですね。

聖書が開かれた時に、そこに世界があるんですね。そこに価値観が示されて、その中に私達が入っていく、その中に浸っていくときに、本当に御言葉によって守られるし、これが自分の価値観、自分の考え方になっていく。そしてその時に私たちは、喜んで御言葉を行う人に変えられて行きます。5節に、「人がそれらを行うなら、それらによって生きる」と教えられております。もし私たちがそのようにして、みことばを行うなら、私たちは、み言葉によって生きる、生きる者にされる。み言葉によって生きるものにされていく、生き生きとした命あるキリスト者に変えられていくっていうこと。ですから私たちは本当にみ言葉によってしっかりと守られたい。み言葉にしっかりと入っていく、そういうクリスチャンとしての歩みを大切にしていくものでありたいという風に思います。

2.神様が私たちの主であることを覚え続ける。

もうひとつのことですけども、二番目に神様が私たちの主であることを覚え続けたいという風に思います。これは今日の聖書の箇所で何度も何度も繰り返し出てくることです。そして最後、30節にも出てきます。

あなたがたは、わたしへの務めを果たし、あなたがたより前に行われていた忌み嫌うべき掟を決して行わないように、またそれによって身を汚さないようにしなさい。わたしはあなた方の神、主である。

最後にもう一度、「わたしはあなた方の神、主である」という宣言が繰り返しなされております。

これほど何度も何度も繰り返されるのはどうしてなんだろうかっていうことを考える時に、やっぱりそれは私たちが忘れやすいからではないかなと思うんですよね。何度も何度も繰り返して語っていただかない限り、すぐに忘れてしまいやすい私達ではないでしょうか。このことを私たちすぐ忘れてしまうんです。神様が私たちにとってどういう方であって、私たちが神様の前でどういう存在であるかということを、すぐに忘れてしまう。この特別な関係が与えられ、この特別の関係の中で生かされてるめぐみを見失ってしまう。そして神様が主であることを忘れてしまうということが、なんと日々繰り返されていることではないでしょうか。そして知らず知らずのうちに、私たちが自分の「主」になってしまうことが多いんではないだろうかと思うんですよね。神さまのみ心に従って生きるということよりは、自分の願いや、自分の願望や、自分の欲望に従って、支配されて生きてしまうということが多い私達ではないかというふうに思うんです。

ですから私たちも何度も何度も、繰り返し繰り返し、このことを確認しなければいけないんです。神様は、私の主なのです。私たちはこの方との関係中に生かされてるんです。そんなことを繰り返し繰り返し私たちは覚える必要があるんではないでしょうか。

その時に私たちは守られるんですね。本当にこの方に喜んで従っていきたいという気持ちが与えられていくんです。そしてもし失敗をしても、もし罪を犯しても、私たちは悔い改めて180度方向転換をして、この方のもとに帰ることができるんです。この方は、いつでも私たちを待っているんです。そして私たちを許して下さるんです。

この方との関係は、もう一生失われません。一度与えられたこの関係はいつまでも続いていきます。放蕩息子は大変な問題児でしたけれども、でも父との関係は決して失われなかった。戻ってきた時にちゃんと待っていた。むこうから迎えに来てくれた。そういう父なる神様との交わりの中に生かされてる恵を、私たちは決して見失ってはいけない。このこと覚えながら、日々感謝しながらあゆむものでありたいと思います。どうか私たちが自分の願望や欲望に支配されて生きることがないように、そこから解き放たれて、主である神様に喜んで心からお仕えしていくことができるように、御言葉により頼みつつ、御言葉に守られて、信仰を持って歩んでいくものでありたいと思います。

 

お祈りをいたします。

恵み深き私たちの父なる神様。あなたとの特別な交わりの中に加えられ、神の子供とされているめぐみ覚えて心から感謝いたします。あなたは私たちの主であり、私の主であります。この関係は一生市失われることがありません。この中に私達が生かされていることを覚えてありがとうございます。その主に心からお仕えしていくことができますように、その御言葉に従って歩んでいくことができるように、励ましてください。またこの世には本当に様々な誘惑が満ちております。様々な戦いがあります。それに負けてしまうこともあります。でも神様、その度に悔い改めて、あなたのもともとに帰ることができるように、そしてどうか守って下さい。私たちの歩みを守ってください。心を守って下さい。御言葉によって守って下さい。そしてこの世の歩みを主によって歩み続けていくことができるように今週も来週も続けて導いてくださるようにお願い致します。み言葉を心から感謝し、イエスキリストの名によってお祈りをいたします 。

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