イエス・キリストをより良く知るために

わが神 わが神 どうして私をお見捨てになったのですか?

 
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若井 和生師
若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。

 

詩篇22篇1~5節

わが神 わが神
 どうして私をお見捨てになったのですか。
 私を救わず 遠く離れておられるのですか。
 私のうめきのことばにもかかわらず。
 わが神 昼に私はあなたを呼びます。
 しかし あなたは答えてくださいません。
 夜にも私は黙っていられません。

 けれども あなたは聖なる方
 御座に着いておられる方 イスラエルの賛美です。
 あなたに 私たちの先祖は信頼しました。
 彼らは信頼し あなたは彼らを助け出されました。
 あなたに叫び 彼らは助け出されました。
 あなたに信頼し 彼らは恥を見ませんでした。

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 

5月は私たちの礼拝の中で、詩篇22篇の御言葉に耳を傾けていきたいと思っております。きっかけは、今年の受難週に先立つ受難節において、イエスキリストの十字架上の七つの言葉について、水曜日の祈り会で学んだことにあります。十字架上で語られたイエス様の言葉を一つ一つ学んでいったんですけれども、その中でイエス様が語られた言葉の多くは、イエス様のオリジナルではなくて、旧約聖書の御言葉であるということがわかりました。その旧約聖書の箇所を学ぶと、さらにイエス様の十字架上の体験がよく分かるのではないかと思わされました。そのうちの一つの言葉が、今日読んでいただきました、 詩篇 22編1節の言葉であります。「わが神わが神どうして私を、お見捨てになったのですか」と、ここに記される言葉をイエス様は十字架の上で復唱しておられたということが言えると思います。

 

詩篇22編は、全体で読む時に、これが「賛美」であるということがわかります。詩篇22編の表題にも、「指揮者のために暁の雌鹿の調べにのせて、ダビデの讃歌」と記されてあります。これはダビデの賛美の歌です。つまりイエス様は十字架の上で、この詩篇22篇を唱えながら賛美されていたということです。福音書の記事(マタイの福音書27章46節)だけ読むとこのイエス様の言葉は、絶望の叫びのように聞こえると思います。ところが詩篇の記事と合わせて味わう時に、絶望の叫びのように思えるイエス様の言葉の中に、実は賛美があった。そういうことに私たちは気づかされます。それは私達の賛美の理解が根底から問われることではないでしょうか。

私達は普通何か恵を頂いた時、祝福をもらった時に、嬉しくなって神様に賛美を致します。しかし苦しみの中で、しかも神様から見捨てられるような厳しい経験の中で、私達は果たして賛美できるでしょうか。とても賛美の言葉が出てこないという状態ではないかと思います。イエス様の十字架上での叫びって本当に賛美だったんでしょうか?そしてもしそれが賛美だとすると、イエス様はなぜ賛美できたんでしょうか。そして私たちはどんな状況の中にあっても変わらずに賛美することのできる「賛美の心」というものを持っているでしょうか。今月私たちはこの詩篇22篇を順番に味わいながら、私たちの賛美について学んでいきたいと思っております。

1.苦しみ

1節と2節をお読みいたします。

わが神わが神、どうして私をお見捨てになったのですか。私を救わず、遠く離れておられるのですか。私のうめきの言葉にも関わらず。わが神、昼に私はあなたを呼びます。しかしあなたは答えてくださいません。夜にも私は黙っていられません。

これはダビデの歌になりますけれども、この時ダビデは神に見捨てられるという経験を致しました。苦しみに圧倒されて、神様が遠くに感じられます。ダビデではうめいています。そして昼も夜も叫び続けています。神様に助けを求めています。それなのに答えがありません。その神様の沈黙がダビデには本当に苦しかったということがわかります。

この時のダビデが、具体的にどのような苦しみを経験していたのかそのことはわかりません。旧約聖書のサムエル記や歴代誌の記事を読んでいると、イスラエルの王として活躍したダビデが、その人生の中にいろんな苦しみを経験していたということを教えられます。王として活躍したダビデですけども、王になる前は先代の王のサウルに命を狙われて、逃げ回っておりました。どこにいても安心する場所がありませんでした。そしてそのために時には狂人を装ったりですね、あるいは敵国のペェリシテの地に紛れ込んで自分をごまかして生きていかなければいけないようなこともありました。そして王になって、でもその後今度は息子のアブサロムに命を狙われるということもありました。そしてまた逃げ回っているっていうそういうこともありました。そのようなダビデの人生のどの段階でこの詩篇が歌われたのか私たちは分かりません。どのような経験の中でこのような詩篇が生まれてきたのか、私たちは分からない。でもこの時のダビデは神様に見捨てられたと感じるような経験をしておりました。人に見捨てられるって事も悲しいですね。それも本当に苦しい経験です。でも私たちにとって神様に見捨てられるという事くらい、本当に辛い経験はないのではないかと思いますね。私たちが本当に信頼してる神様から見捨てられるということくらい、私たちにとって絶望的な経験はないんじゃないかと思うんですよね。皆さんにはそのような経験をすることがあるでしょうか。耐えられない苦しみの中で、祈っても、願っても、なかなか答えが返ってこないっていう、そういう経験することがあるでしょうか。神様が遠くに感じられてしまうという、そういう時があるでしょうか。

今のウクライナの人々の苦しみは、もしかするとこういう苦しみなのかなという風にも思いました。本当に助けを求めていますよね。昼も夜も助けに来てくれと叫んでますよね。でもどこからも助けがないですね。神様も何も答えてくださらない。そういう苦しみを経験している人がいま、世界にいるっていうことを私たち覚えていなければいけないと思います。そしてイエス様の十字架上の体験っていうのもまさにそういう体験でありました。父なる神さまから見捨てられるという、そういう経験をされた。

この世で生きている限り、そのような苦しみを経験するということが私たちにもあるのではないかと思います。

2.賛美

ところが、この1節2節で本当に呻いている、叫んでいるこのダビデのこの歌が、言葉が、3節で賛美に変わるんですね。3節をお読みいたします。

けれどもあなたは聖なる方。御座についておられる方。イスラエルの賛美です

3節で賛美に変わるんです。この冒頭の「けれども」という言葉を、どうしてダビデは言うことができたのだろうか?この「けれども」という言葉がどうして出てきたんだろうか?そこに信仰の素晴らしさが表されているのではないかと思いました。

ダビデは悩み苦しみに圧倒されていたように私たちには見えました。自分の抱えている深刻な問題に打ちのめされているように私たちには感じられました。普通ならばそこから賛美が生まれてくるということはまずあり得ないことだと思います。

しかしそんな中、ダビデは「けれども」と、声をあげることができた。そして呻きの叫びから賛美の言葉へと切り替えることができた。そのこと自体が驚きだと思います。

これは現実逃避ではないんですよね。ダビデは苦しみを忘れるために神様の方向に向いているというのではない。苦しみの渦中で、まさに今悩み苦しんでいるそのところで、神様を賛美したっていうことであります。

なぜ賛美に変わったんでしょうか?神に見捨てられるという苦しみの中から、なぜ賛美が出てきたんでしょうか?そこが大事なところだと思いますね。今日私たちが注目しなければいけないことだと思います。

今日の聖書の箇所から私たちは四つのことを心に留めていくものでありたいと思います。

まず一番目にダビデは心の深いところで、心の深いところではやっぱり神様のことを信頼していたってことに、私たち気づかされるのではないかと思います。ダビデは神様に向かって、「わが神、わが神」と呼びかけております。ダビデにとっての神様とは、「私の神様」と呼べる存在だったということに、私たち気づかされるんじゃないかと思いますね。ダビデとっての神様は、「私の神様」、「私がよく知っている私の個人的な神様」という意味ですね。この呼びかけの中に、ダビデの神様に対する深い信頼が込められているって言うこと私たち教えられるんではないでしょうか。そしてダビデは神様がおられることを決して疑ってはいないんですね。神様が遠く離れている事実を寂しく感じています。「遠く離れておられるのですか」ってそこで問いかけていますけれども、でも遠く離れたところにおられる神様をけして疑っていないんですよね。そして何よりもこのようにまっすぐに神様に向かって声を上げることができるのは、ダビデが神様に信頼していた証拠です。ダビデは絶望しているように見えながら、実は神様に信頼していたっていうことを、私たちはここで覚えたいと思います。

2番目にダビデは、私から「あなた」に目を向ける事が出来たということであります。自分の問題、私の悩み、私の苦しみに圧倒されていた中から、あなた、神様に、目を向ける事が出来たっていうことです。そして神様がどのような方であるかを思い出しました。そして賛美したっていうことが分かる。3節を読んでみますけれども、

あなたは聖なる方、御座についておられる方、イスラエルの賛美です。

と、このように告白をしております。このダビデの言葉を通して、ダビデはやっぱり神様のことをよく知っているんだなっていうことがわかりますね。「あなたは聖なる方です。御座についておられる方です。イスラエルの賛美です。」と自分の言葉で神様を賛美することができたダビデは、神様を知ってるんですね。だからこそ信頼できたんだと思います。

 

この詩篇の22編は、十字架上で味わいながら唱えておられたイエス様のうちにも、父なる神様に対する信頼があったということです。「わが神わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と絶望の叫びをあげながらも、でも実は深いところで神様に信頼していたイエス様の姿っていうのが、私たち覚えることができるんではないでしょうか。

私達は、苦しみの時に信仰が試されると思います。本当に私たちは神様を知ってるでしょうか?この方に信頼しているでしょうか?この方に目を向けているのでしょうか?ということが、私達の悩み苦しみの時に、試されるのではないかと思いますね。私たちも、自らの悩み苦しみの時、その問題に圧倒されているような時に、ぜひ私たちの目を神様に向けていきたいと思います。そして私たちの心を神様に注ぎ出してきたいと思います。そのようにして私達も賛美するものでありたいと思います 。

3.共同体の賛美

3番目に、ダビデの賛美は、イスラエル全体の賛美によって支えられていたということを私たちは教えられます。3節でダビデは、「けれどもあなたは聖なる方、御座についておられる方、イスラエルの賛美です」と声を上げていますけれども、この言葉を語る時のダビデはイスラエルの民の一部として、さらにイスラエルの民を代表して賛美しているっていう事がわかります。つまりダビデの賛美は、イスラエルの民の共同体によって支えられているそういう賛美であった、そういう信仰であったってことに私たちは気づかされるのではないでしょうか。1節と2節において、ダビデはもうひたすら、自分と神様との個人的な関係ですね、その個人的な関係の中で彼はうめき声をあげています。そしてそこに第三者が入る隙間は全然ないんですね。もう本当にひたすら、自分と神様だけの関係の中で叫び声をあげている。このダビデが、3節に至るとイスラエルの民全体とともに立って、そして神様を賛美している、つまりダビデの信仰がイスラエル共同体の信仰によって支えられているって言う事を、私達はここに教えられるではないでしょうか。

私たちも、一人ではとても賛美できないときがありますね。自分が、個人の力ではとても感謝できないときがあります。自分の抱えている問題に気落ちをしてしまって、とても感謝もできない、賛美の言葉も生まれて来ないって、そういう時があると思います。でもそういう時も、教会に来てオルガンの調べを聞いた時、あるいは教会に来てみんなが神様に向かって賛美してるその声を聞いた時、その姿を見た時に、本当に励まされるっていうそういう経験することあるんじゃないでしょうか。そして自分では決して賛美することができなかった、何の言葉も生まれてこなかった、この唇に自然と賛美の言葉が与えられてくるという、そういう経験をすることがあるんじゃないでしょうか。そういうこと私たち礼拝の度に経験してるんじゃないかなと思うんですよね。私たちの信仰もそうだと思うんですね。それは教会の兄妹姉妹によって支えられてる信仰なんです。私たちの賛美もそうだと思います。教会の交わりの中に支えられそして、主を賛美するものに変えられて行くんではないでしょうか。ダビデの賛美がまさにそうだったように、私たちの賛美も、教会の中で支えられたり、励まされたりしながら、主を賛美するものへと成長していく、そのような私たちの賛美でありたいと思います。

そして4番目ですけども、ダビデは賛美をするためのさらに強力な応援団を得ていたっていうことが、4節5節を読むとわかります。その応援団って誰のことでしょうか。それはダビデの先祖たちの姿であったということを私たち覚えたいと思います。4節と5節を読みたします。

あなたに、私たちの先祖は信頼しました。彼らは信頼し、あなたは彼らを助けだされました。あなたに叫び、彼らは助け出されました。あなたに信頼し、彼らは恥を見ませんでした。

このようにダビデ告白してますけども、この言葉より、ダビデの信仰はダビデの先祖たちの信仰によって支えられていたということがわかります。ここでダビデは、「私たちの先祖」という風に語っています。こう語る時のダビデは具体的には誰のことを思い浮かべていただろうかと考えてみました。もしかしたらアブラハムのことだったかもしれません。イサクやヤコブだったかもしれない。ヨセーフだったかもしれない。モーセ、ヨシア、ギデオン、ダビデに先立ついろんな先輩たち、先祖たちがいました。でこの人たちはみんな苦しみの時に神様に信頼した人達だったんですよね。悩み苦しみの時、いろんな問題を抱えた時に、神様を呼び求めた人達でした。

その時神様どうされたでしょうか?神様答えてくださった。そして彼を助け出してくださった。その先祖たちの姿を、ダビデはここで思い出しながら、それを自らの励みとしているということを私達は教えられる。そしてこの4節と5節は四行詩になっていまして、詩になっている。ここにリズムがうまれているということが分かる。4節の冒頭、「あなたに、私達の先祖は信頼しました。」というこの言葉が導入になっていまして、そのあと「彼らは信頼し、あなたは彼らを助け出されました。あなたに叫び、彼らは助け出されました。あなたに信頼し、彼らは恥を見ませんでした。」少しずつ言葉は変わるんですけれども、同じことを3回繰り返しています。つまり神様に信頼した先祖たちが助け出されたということを、凝り返し繰り返しダビデは味わいながら、自らに語りかけながら賛美していたということが分かる。

そしてさらにダビデはここで、「あなたに」「あなたは」「あなたに」「あなたに」といって、そういうことを繰り返してるんですよね。つまり先祖たちが信頼したっていうこと以上に、「あなた」神様に彼らは信頼しましたっていうことを繰り返し繰り返し強調しながら、ここで賛美してる、歌っているということが分かる。これはあのヘブル語の聖書で読むとよく分かるんですけど、リズムがあるんですね。そして韻を踏んでいるということが分かるんです。つまりダビデは、ここに来て、「乗って来てる」って言い方していいかなと思いますね。今、ノリに乗ってる。あまりふさわしい表現じゃないかもしれませんけれども、リズムを刻んでいるんです。で、それはダビデが、喜びに満たされながら賛美しているって事の一つの表れなんですよね。非常にダビデの気持ちが感じられる、そういうリズムがそこに生まれているって言う事なんですね。その事自体が驚きだと思います。先ほどまダビデはもう自らの悩み、呻きの中で苦しんでいて、「なぜ神様」って叫んでいたあのダビデの言葉が、賛美に変わって、そしてその賛美の言葉にリズムが生まれてきて、そのこと自体がもう本当に驚き、それは賛美の素晴らしさっていうことを私たちに教えているんではないかと思います。そしてダビデにとって本当にこの先祖たちの姿が大きな励ましだったということがわかります。ダビデの先祖たち神様に信頼しました。そしてその先祖たちを、神様は助け出してくださった。救いだしてくださった。それはダビデにとって単なる過去の話ではないんですよね。今のダビデにとっての大きな励ましなんですね。そのダビデの先祖たちの信仰に生かされているダビデの姿を私達はここで教えられる。

そしてイエス様も十字架上で、このダビデの詩篇を思い出しながら神様に信頼したダビデの姿に支えられていたのではなかったでしょうか。

ダビデもイエス様も、信仰の先祖たちという大応援団を得ていたっていうことを、私たちは心ににとめるものでありたいと思います。

私たちは今の時代に生かされていますけれども、それだけではなくて歴史の中に生かされているという自覚を是非持たせていただきたいと思います。そして歴史の中で果たすべき務めが与えられているということを今日覚えたいと思っています。

4.むすび

来年私たちの教会は、創立60周年を迎えますが、それで今年1年はそのための準備の一年になると思います。そしてこの60周年を機会として、私たちが覚えたいのはこのことなんですね。60年という長い時間の中に、私たちの教会の中にたくさんの蓄積があるんではないでしょうか。それは私たちの先輩たちが神様に信頼したという蓄積ですね。悩み苦しみの中で教会が今よりずっと小さかった時、もっと貧しかった時、いろいろな困難の時に、私たちの先輩たちはその中で神様に信頼しました。祈りました。その蓄積がたくさんあるんじゃないでしょうか。そしてそれに対して神様が答えてくださった、助け出してくださったというそういう例が、この60年の歴史の中にたくさんあるんじゃないでしょうか。60年分の蓄積ってのがあるんじゃないかなと思うんですよね。それは過去のお話じゃないんですよね。それ、今の私たちの力なんです。今の私達の力としていかなければいけない神様に信頼したその先輩たちの姿を励みとして、私たちは賛美していかなければいけないと思うんですよね。同時に今私たちが神様に信頼するその姿が、次の世代を励ます力になるということも覚えておきたいと思います。今私たちが抱えている悩み、問題の中で、苦しみの中で、神様を信じ、信頼し、祈るというその姿が結果的にはこれからの世代の人たちの信仰の励ましになるって事なんですよね。その信頼する中で神様が答えてくださったというその蓄積が、私たちの姿が、これからやってくる子供たち、孫たちに対するエールになるっていう事を私達は覚えておきたい。そのような歴史における勤めっていうものも、私達は神様から与えられているのではないでしょうか。

ちょうど先週からハレルヤコーラスの練習が始まって良かったなと思います。今までの教会の歴史の中でも何とか歌われてきた歌だと思います。その歌をもう一度、来年どうなってるかちょっと分かりませんし、コロナの状況も色々考えながらですけど、みんなで一緒に賛美できたら幸いだなと思ってるんですよね。

昔も今も変わらない神様。昔いまして、今います神様が、今私達と共にいる、これからも共にいてくださる。昔の先祖たち、先輩たちを助けてくださった神様が、今も私たちを助けて下さる。進行に答えて下さる。そして未来の子供達の信仰にも必ず答えてくださる。そのような変わらない主が、私たちを導いてくださっていること、教会の主であるということを、来年是非皆と一緒に賛美できたら、それ本当に素晴らしい幸いな時ではないかなと思ってるんですね。今日の御言葉振り返って私達の賛美っていうのは私たちの神様に対する信頼から生まれてくるということを覚えたいと思います。そしてその信頼というのは1日2日で養われるものではないと思います。日々にあゆみの中で、神様との交わりの中で、少しずつ養われていくものだと思います。皆さん是非日々の歩みの中で聖書を開き、神様の声を聞く時、またそこで神様に祈る時、神様と語る時を大切にしていただきたい。そしてそこで語って、そこに主が答えてくださる、そのような経験を通して、私たちの信仰は養われていきます。そしてその私たちの信仰は、教会の中でも養われていきます 。

私たちは、自分ひとりで、とても祈ることができないって時がありますね。でもそういう時にも祈ってくれる人がいます。代わりに祈ってくれる人がいます。代わりに賛美してくれる人がいます。そのような兄弟姉妹の交わりの中で、私たちの信仰は養われていくんですよね。そのようにして私たちは日々の歩みの中でも、そして教会の中でも、イエス様・神様に対する信頼を養っていきたい。そこに生まれてくる賛美こそは本当の賛美であるということ、どんな状況の中にも変わらずに主をほめたたえることのできる賛美の心っていうものを、私たちは豊かに養っていくものでありたいと思います。そのようにして共に主を賛美するものとして成長していこうではありませんか。

 

お祈りをいたします。愛する神様。御言葉を通し私達を励まし導いてくださることを感謝します。私たちの日々の歩みの中で、また教会の交わりの中で、あなたを深く知り、あなたに対する信頼を日々養っていくことができるように、そしていつも、どんな状況の中にあっても、変わらずにあなたを賛美することができるように、そのような賛美の心を私たちにお与えください。御言葉に感謝し、主イエスキリストのみ名によってお祈りをいたします 。

 

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