イエス・キリストをより良く知るために

過去に振り返り、未来に向かう!

 
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若井 和生師
若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。

レビ記23章33~44節。

今日はレビ記の23章の箇所から、「過去に振り返り、未来に向かう」という題で、説教をお語りしたいと思います。

私たちは信仰者としていつも神様を信じ、主と共に歩んでいたいと願っていると思いますが、でもいつもいつも必ずしもそうであるとは限らないかと思います。悩みと苦しみの中で神様のことを見失ってしまうということもあります。忙しさの中にまみれて祈ることをすっかり忘れてしまっているということもあると思います。信仰者であるのに、つまずいたり挫折や失敗を経験して落ち込んでしまうということもあります。

でもそんな私達であっても、一旦歩みを止めて今までの歩みを振り返ってみたときに、私たちの気づかないところで、神様が実は守っていてくださっていた、導いてくださっていたということに気づかされることがあると思います。その時には分からなかった苦しみや試練の意味も、後で振り返ってみた時に全て必要な経験であったと、振り返って感謝することがあるんではないかと思います。

最近水曜日の「祈り会」では創世記からヤコブの生涯について学んでおりますけれども先日も学んだばかりでした。

ヤコブは叔父のラバンに20年仕えました。ラバンの娘であるラケルと結婚するために7年間働きましたけれども、結果として叔父ラバンに騙されて、与えられたのはラケルではなくて、姉のレアのほうでした。それでラケルと結婚したいということで、もう7年彼はラバンに仕えました。14年間仕えました。

さて、ヤコブの二人の妻は姉妹同士であったんですけれども、それぞれの出産を巡って壮絶な戦いを繰り広げるということになりました。その間にあってヤコブも大変苦しんだわけであります。

そして14年間終わっていよいよ父の家に帰りたいと申し出ましたところ、またラバンの策略に会ってしまいまして、もう6年間働かざるを得なくなってしまいました。20年働かざるを得なくなる。

その間ラバンに何回も騙されたり、欺かれたり、報酬を変えられたり、いろんなことがあったようですけれども、普通そんな経験をしてしまったならば心の中は、怒り、恨み、不満でいっぱいになってしまって、性格もだんだん歪んできてしまうんじゃないかなというふうに考えられるんですけれども、ところがヤコブは20年を振り返ってみて、神様はどんな時もいつも共にいてくださったと告白をしました。

あの20年前にベテルで現れて、共にいてくださると約束してくださった神様が、本当にともにいてくれた。20年苦しい日々の連続でしたけども、でもその苦しみを全部ご覧になっていた、共にいてくださったということを告白しました。人間関係のわずらわしさに悩まされる日々でしたけれども、それを遥かに勝る恵の日々だったと、ヤコブは感謝とともに振り返ることができた。20年はヤコブにとって全然無駄ではなくてむしろそれは本当に大切な20年だったっていうことを、こないだ皆さんと学びあったところでありました。

 

私達もそういうことあるんではないかなと思うんですね。一旦立ち止まって振り返って見た時に、神様が共にてくださったと気づかされることがあるんじゃないかなと思うんですね。その時には気づいていなかったけれども、実はあの時も、この時も、主はともにいてくださって、そしていろんなことを教えてくださった、養ってくださった。

それは全部必要な経験だったと、後で振り返って感謝することがあるんではないでしょうか。そのようにして私たちも、神の恵みに気づかされて、本当に神ご自身を知るものに変えられていくんだと思います。

1.過去を振り返る

神様が、イスラエルに守るように定めた主の例祭の中に、「仮庵(かりいお)の祭り」という祭りがありました。今日の聖書の箇所は、仮庵の祭りが記されている場面です。

これは第7の月の15日から七日間祝うように定められたということが23章の34節に書いてあります。先週は「過ぎ越しの祭り」について聖書から学びました。あの「過ぎ越しの祭り」は第一の月の14日の夕方に祝うように定められていた。ですから過ぎ越しの祭りから数えると、約半年後に、この「仮庵の祭り」が祝われるということになったということがわかります。それで季節的に言いますとそれは、ちょうど収穫が終わったときでありました。

39節に「特にあなたがたがその土地の収穫をし終える第7の月の15日には、・・・」と書いてありまして、このタイミングがちょうど収穫が終わった時期に重なっているということがわかります。つまりこの「仮庵の祭り」というのは収穫が終わった収穫完了を喜ぶ収穫感謝祭であったということであります。そしてこのお祭りにおいて、イスラエルの民に求められた事が一つあります。それはとにかく喜ぶこと、大いに喜ぶこと、そのことが神様から命じられたことでありました。

「仮庵の祭り」について申命記にも出てくるんですが、そちらの記事も今日は開きたいと思います。申命記の16章13節から15節までも読んでみたいと思います。

あなたの打ち場とあなたの踏み場から取り入れが済んだ時、七日間「仮庵の祭り」をしなければならない。この祭りの時には、あなたも、あなたの息子、娘、男女の奴隷、あなたの町囲みの中にいるレビ人、寄留者、孤児、やもめも共に喜び楽しみなさい。あなたの神、主のために、主が選ばれる場所で7日間、祭りをしなければならない。あなたの神、主があなたの全ての収穫、あなたの手の全てのわざを祝福されるからである。あなたは大いに喜びなさい。

ここに大いに喜びなさいって命じられています。ですからこの「仮庵の祭り」の七日間は本当に喜びのお祭りなんだったんですね。本当に楽しい祭りだったと思います。収穫が与えられてその祝福を、みんなここに出てくる息子も、娘も、奴隷も、寄留者も、ありとあらゆる人たち、家族も、いろんな社会的な立場にある人たち、いろんな違いあるけれどもとにかくみんなで一緒にこの7日間楽しみましょう喜びましょうっていう、そういう祭りだったんですね。ですから本当に楽しい一週間だったと思います。

この「仮庵の祭り」は今でもユダヤ社会では祝われているんだそうです。この時になると実際に、自分の庭あるいは自分の家には、そのベランダに「仮庵」を作ってですね、その枝を切ってきて、そしてその仮庵の中で一週間過ごしたり、あるいはの敬虔なユダヤ教徒であれば一週間そこで過ごしますし、そうでなくてもお食事だけはその仮庵の中でそこ食事をするという風にしています。今でも祝っている。ですからユダヤの人たちは、そのようにして自分たちの歴史をとっても大切にしているということが分かるかという風に思います。

 

この祭りは実は収穫の感謝祭というだけではなくて、実はこれはイスラエルの民がかつて40年エジプトから救われた後に、荒野での生活を歩んだ。そしてその時に「仮庵」の生活を歩んだということを忘れないため、覚えるための祭りでありました。 そのために彼らは美しい木の実、ナツメヤシの葉、茂った木の大枝、川辺の柳などを集めて「仮庵」を作って、そして一週間その「仮庵」の中で生活するように、その一週間の仮庵の生活を体験するように、ここに定められているということが、今日の聖書の箇所を読むとわかることであります。これを今でもユダヤ社会は繰り返しているということなんですね。

ですから先祖たちが経験した荒野での40年間の生活を、いまだに追体験しているユダヤ人達は、本当に歴史を大切にしている民族であるということが分かるかという風に思います。

 

荒野で過ごした40年の日々はイスラエルにとっては実に厳しい40年であったということが、出エジプト記や民数記の記事を読むとわかると思います。先週は「過ぎ越しの祭り」を学びましたけれども、あれはエジプトから救い出された恵みを絶対忘れないために、毎年毎年覚えあうための祭りでありました。

でもその「救われた恵み」をすっかり忘れてしまうくらい、荒野の40年は厳しい生活の連続であったということが分かる。イスラエルの民は時々、水や食べ物がないと言ってはモーセやアロンに文句を言い、ある時はエジプトに帰りたいと言い出し、またある時は、金の子牛像を作って偶像礼拝を始め、またモーセやアロンにあからさまに反逆することもありましたし、それは本当にひたすら忍耐が強いられるような厳しい日々だったということが聖書を通して、私たちに伝わることであります。

でもそんな厳しい日々ではありましたけれども、イスラエルの神様はイスラエルの民をやっぱり守ってくれていた。そしてあらゆる敵から守って下さっていましたし、時間はかかったけれども色んな経験を与えながら、養い、訓練し、導いてくださっていた。

そして時が経って、40年経って、ちゃんと約束の地に導いてくださっていた。確かに神様はイスラエルの主であった。間違いなく主は共にいてくださった。その恵みを何度も何度も覚えるために定められていたのが、この「仮庵の祭り」であったということであります。

イスラエルの民はその恵みを、毎年この祭りをお祝いすることによって、繰り返し覚えあったということであります。

 

私たちにも、こんな「仮庵の祭り」のようなひと時が必要ではないだろうかという風に思います。時には私たちの歩みを一旦止めて、そして過去を振り返って、今までの主の守りと導きに感謝する時が必要なんではないでしょうか。今までの歩みを振り返ってみた時に気づかされることがたくさんあるんではないでしょうか。なんとなく歩んできたような歩みだったかもしれませんし、またその間に経験したいろんな試練や苦しみや悩みがたくさんあったと思います。そしてその時には神様がどこにいるのかと、神様が感じられなくなってしまったような時もあるかもしれません。でも振り返ってみたときに、ちゃんとここまで導かれていた、神様が全て守って下さっていた、そしてこの体験も全部必要な体験だった、全部自分に必要な経験だった、そういう中で自分を訓練してくれたんだ、主はいつも私のそばにいて導いてくださっていた、そういうことに気づかされて、感謝に導かれていくんではないでしょうか。私たちの経験した苦しみに遥かに勝る主の恵みがあったということを教えられて、私たちは本当に感謝に満たされるんではないかと思います。

 

そのような経験が私たちにも時々必要ではないでしょうか。私たちにとっても「仮庵の祭り」は、とっても大事なことだと思います。そのような経験を与えられていく中で、私たちも本当に神様ご自身を知る者に変えられていきたいなという風に思います。

2.未来に向かう

「仮庵の祭り」というのは、このように過去を振り返るための祭りでありました。

でも同時にこれは未来に向かっていくため 祭りでもあったということを次に覚えたいと思います。

イスラエルの民は荒野での仮庵での生活を続けましたけども、でも実は約束の地を目指しておりました。貧しい仮庵の生活です。もうそれは本当に手で作った、もう粗末な粗末な仮の住まいなんですけれども、貧しい生活なんですけども、その仮庵の生活が永遠に続くわけではないということを彼らは知っていました。必ず約束の地に到着できるということを、彼らは待ち望んでいた。待ち望みながら仮庵の生活を続けていた。

 

聖書読んでいるとこの「仮庵の祭り」がいろんなとこに出てくるんですけれども、ある箇所においてはこの「仮庵の祭り」は未来に約束されている希望を表す言葉であるということが分かるんですね。今日はその箇所を一つ、見たいと思うんですけれども、ゼカリヤ書という聖書の箇所があります。ゼカリヤ書14章16節から読んでみたいと思います。ここに「仮庵の祭り」が出てまいります。

エルサレムに攻めてきたすべての民のうち、生き残った者は皆、毎年万軍の主である王を礼拝し、「仮庵の祭り」を祝うために登ってくる。地上の諸氏族のうち、万軍の主である王を礼拝しにエルサレムに上ってこない氏族の上には、雨が降らない。もしエジプトの氏族が登ってこないなら、雨は彼らの上に降らず、疫病が彼らに下る。これは「仮庵の祭り」を祝いに登ってこない諸国の民を主が打つ疫病である。これがエジプトの罪への刑罰となり、「仮庵の祭り」を祝いに上ってこないすべての国々の罪への刑罰となる。

と、ここに預言者ゼカリヤに示された神様の幻が描かれておりますが、その中に「仮庵の祭り」が出てきます。

16節に、「エルサレムに攻めてきた全ての民のうち、生き残った者はみな、毎年、万軍の主である王を礼拝し、仮庵の祭りを祝うために上ってくる」って書いてありまして、この「仮庵の祭り」のために、エルサレムに上ってきた人たちがいたって、ここに書いてあるんですね。この人たちはこの「仮庵の祭り」を祝うために、主を礼拝するために集まってきた。その祝福の中に招かれていくわけですけれども、ところが「仮庵の祭り」に上ってこない人もいたと。その人々の上には、雨が降らないし、疫病に打たれるし、それは罪に対する刑罰であるということがここに示されています。

 

ここに描かれているのは、未来に約束されている救いの完成の姿について描かれていると考えられる。神の厳しい裁きが下される時が来ます。しかしその中にあって、エルサレムに上ってきた人々は守られる。それらの人々は神様の前に集められて「仮庵の祭り」をお祝いするっていうことがここに出てくる。

このように「仮庵の祭り」は彼らの未来に約束されている希望を象徴的に表す言葉であったということを、聖書を通して教えられる。

またレビ記の記事に戻りたいと思うんですけれども、今日レビ記の23章の33節から読んでもらってるんですけれども、実はこのレビ記23章全体を読む時に、「仮庵の祭り」に三つの祭りがあって、その祭りの連続の中で3番目に祝われているのが「仮庵の祭り」であるって事が分かるんですね。

それでまず第7の月の1日に「ラッパの祭り」と呼ばれる祭りが祝われるということが24節に出てきます。この24節に出てくるこの「ラッパの祭り」の最大の特徴は、角笛を吹き鳴らすっていうとこにあった。角笛を吹き鳴らす、そこから始まるんです。これは神の時を示す角笛の音なんですね。これが吹き鳴らされると「神の時」が来たっていう宣言なんです。

そしてその後に、第7の月の10日、27節から出てくるんですけど、「宥(なだ)めの日」というそういうお祭りが次に祝われる。これはイスラエルの罪が完全に取り除かれるための祭りであったということが言われております。そしてそれに続いて「仮庵の祭り」が祝われていくという、第7の月というのはそういう意味で、イスラエルの民にとってとても大きな大切な季節だったわけですけれども、そういう連続の中で「仮庵の祭り」が祝われていたということが分かる。

これを新約聖書と合わせて読む時に、「ラッパの祭り」というのは死者の復活を現し、「宥めの日」というのは救いの完成を表し、そして「仮庵の祭り」はそれに続く大祝宴を表しているということが分かるんですね。イスラエルの民はこのようにして「仮庵の祭り」を祝うことをとおして、過去を振り返るだけではなくて、未来に向かっていったということに、私たちは気付かされる。やがて未来に待っている「救いの完成の日」、そしてその喜びの日、祝宴を待ち望むという風に、未来に向かって希望を待ち望むためのお祝いであったということを私たちは教えられるわけであります。

私たちにもそのような希望が必要ではないかなと思うんですね。今のこの世のわたし達の歩みと言うのは、実は「仮の宿」であります。今私たちは仮庵生活をしているようなものです。この生活が永遠に続くわけではないんです。いつまでもこの生活が続くわけではないんです。私たちの故郷は天にあります。やがて私たちは天に帰ります。ラッパの音が響き渡る時が来ます。その時に死者の復活が起きます。そして私たちの救いが完成します。その時に私たちは主のみ前に招かれる。天のエルサレムに上って行って、そこで大祝宴が祝われる。そういう未来に私たちは向かっているという希望を覚えるということが私たちにも必要ではないでしょうか。

その時に私たちは、本当に先に召された人たちもみんな復活をして、再会をして、そして一緒になって再会を喜んで、そしてともに主を礼拝できるという、約束されている未来を待ち望むことができるということを、私たちは共に覚えたいと思います。

先週の午後に〇〇ひろし兄弟の納骨式が行われた時にも、私たちはその希望を確認することができました。今はしばしの別れの時で寂しいですけれども、でもこれが永遠に続くわけで会します。そして共に一緒になって、「よかった」と、共に神様を賛美する時が来る、そういう希望に生かされているんだということを先週私たちは確認しました。私たちの主なる神様は、過去もずっと私たちを導いてくださっていた神様。今も私たちの主。これからもずっと変わらずに主です。そして死んでいる者の主であり、生きている者の主であり、その関係は、生きてる時も、死んだ時も、全然変わらないんですね。永遠に変わらないこの神様との関係の中に生かされているということは、本当に幸せなことではないでしょうか。その主が伴ってくださる恵みに、私達は本当に感謝し、この方の導きの中で歩んでいくものでありたいという風に思います。

3.次世代に恵みを伝える

このように「仮庵の祭り」は、イスラエルとっては過去を振り返る祭りであり、さらに未来に向かっていくその両方のお祭りであったということなんですが 、もうひとつの目的があったということを最後に覚えて終わりにしたいと思います。

そのもう一つの目的というのは、この神様がイスラエルの民に与えてくださった恵みを、次の世代に語り継ぐというそういう目的のためであったということであります。

43節の言葉を読みしたいと思います。レビ記23章43節。

これはあなた方の後の世代が、わたしがエジプトの地からイスラエルの子らを導き出したとき、彼らを仮庵に住まわせたことを知るためである。私はあなた方の神、主である。

と書いてあります。仮庵の祭りにはもう一つの目的があったってこと分かるんですよね。

過去に振り返るということ、未来の希望に生かされるって言うこと、そしてもう一つそれは後の世代が、わたしがエジプトの地からイスラエルの子を導き出したとき、彼らを仮庵に住まわせたことを知るためであると、かつてイスラエルの民を神様がエジプトから救い出して、その後、仮庵に住まわせた、そのことを次の世代の人たちが知らなければいけない。そしてそれを知らせなければいけない。そのために「仮庵の祭り」が定められていたっていうことを、ここで私たちは教えられることであります。

「過ぎ越しの祭り」も同じでした。「過ぎ越しの祭り」にも、小羊の血を屠った血を鴨居と文書に塗りつけたり、あるいは苦菜と種無しパンを添えて羊の肉を食べるという不思議な景色がそこで行われていたわけですけど、もその一つの目的は、子供たちにその恵みを知らせるって事にあったんですね。出エジプト記の12章26節27節にこんな言葉があります。

あなたの子供達が、この儀式にはどういう意味があるのですかと尋ねるとき、あなたがたはこう答えなさい。「それは主の過ぎ越しのいけにえだ。主がジプトを打たれた時、主はエジプトにいたイスラエルの子らの家を過ぎ越して、私たちの家々を救ってくださったのだ」

という言葉があります。この言葉を読むとこの過ぎ越しの不思議な儀式を通して、子どもたちが大人達に質問してくることが想定されていたということが分かる。子供達がこれはどういう意味ですかって質問してくるのを親たちは待っていたってことがわかる。そしてその質問が来た時にふさわしく答えることを通して、神様は私たちを救ってくれた。過越してくれた、その救いの恵みを子供たちに語り伝えるということ、そのために「過ぎ越しの祭り」があったということ教えられる。

そして今日の「仮庵の祭り」もそうですね。先ほど朗読した申命記の記事の中にも、みんなで一緒に喜ぶんですけども、その喜ぶ人々の最初に出てくるのは、自分たちの息子たち、娘たちが出てくるんです。でからこの日は、老いも若きももう全ての人たちが、共にこの恵みを覚えて喜ぶ、そして共に喜ぶことによってその恵みが、次の世代にちゃんと継承されていくように、そのことを神様が願っていたということを、私たちは教えられるわけであります。

これも私たちに与えられている大切な務めではないでないでしょうか。神様の働きというのは、一つの時代や世代を超えて継続的に行われていく働きであります。一つの時代や世代の中で細切れになってしまうそういう働きではない。必ずそれは引き継がれていく働きであります。過去に与えられた主の恵みを慶び、未来への希望に生かされ、そのような恵みをまず私たちが豊かに味わい、そしてその味わったことを次の世代に引き継いでいくということを、私たちが求められていることであることを覚えたいという風に思います。

 

まず私たちが本当にこの恵みにいかされるものでありたいなと思います。まず過去に振り返りたいと思いますね。神様今までどのように私たちを導いてくださったでしょうか。どんなことをしてくださったでしょうか。あの時も、この時も、本当にともにいてくださって助けてくださった、たくさんの恵みがあるんじゃないでしょうか。それを共に喜び合いたいと思うんですね 。しかもこれから先も私たちは希望がいっぱいですね。この世は本当に厳しいですね。本当に仮庵の生活が続いていきますけれども、でもちゃんと未来には素晴らしい祝福が待っております。その希望から目を離してはいけない。これも本当に私たちに与えられているめぐみです。その恵みを喜びたいと思うんです。その恵みを本当に自分達だけではなくて、次に育っていく子供達、次の世代と共に分かち合っていきたい。そのようにして主の働きが確実に次の時代に引き継がれていくことを私たちは祈り求めていくものでありたいという風に思います。神様のご計画は、その様になっています。神様が私たちを導いて下さいます。その導きの中で私達は信仰をもって、1日1日神様に従って歩んでいくものとなるようではありませんか。

お祈り

恵み深き私たちの父なる神様。とこしえに変わらない神様。昔も今もこれからも、後もすべて主が共にいて私達を導き祝福してくださること覚えてありがとうございます。この恵みに私たちが本当にいかされて、喜んで歩むことができるように。そしてその恵みを次の世代の子供たちと分かち合っていくことができますように。そのようにして私たちの働きが、主の働きとして力強く展開されていきますように、どうぞこれからも私たちの教会を祝福し導いてください。み言葉を心から感謝し、イエスキリストの御名によってお祈りをいたします。

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