真実な友情・・・第一サムエル記20章
今日は「真実な友情」というテーマで、第一サムエル記の20章の御言葉から説教を語っていきたいと思います。友情ということがテーマですけれども、この世で友情ほど美しいものはないと言えると思いますが、同時に友情ほど儚いものもないと言えるかもしれません。私も人生の中でいろんな機会に友人が与えられて、友情を育む機会があったら与えられて、そのことによって人生がとても豊かにされているという経験をしました。けれども同時に友情によって振り回されたり、人間関係の難しさを教えられたり、悩んだりということもあるかと思います。友情とは時に非常に美しいものですけれども、同時に時にそれは非常に悩ましいものでもあると思います。その中にあって私たちが。もし真実の友情というものを経験できるとすれば、それは本当に神様の恵みではないだろうかというふうに思います。聖書の中に記される代表的な友情と言ったら、もうそれはダビデとヨナタンの友情ということになると思います。今日はこの二人の間に交わされた友情について、皆さんとともに注目し、そこから私たち自身の友人関係、人間関係についても考えていきたいと思います。
1.ダビデとヨナタンの友情のきっかけ
前回はサウロの心の問題、私たち人間の心の問題に注目しました。今日私たちは、人間関係について御言葉を通して共に考えていきたいというふうに思います。ダビデとヨナタンは親友になっていくんですけれども、まずどんな出会いから始まっていたのか、その出会いの場面から確認してみたいと思います。今日は20章読んでいただいたんですが、18章にちょっと戻っていただいて18章1~4節を読んでみたいと思います。ここにダビデがヨナタンとはじめてであう最初の出会いの場面が記されてあります。それがどんな出会いだったのかというところから見ていきたいと思います。
第一サムエル18章1節「ダビデがサウルと語り終えたとき、ヨナタンの心はダビデの心に結びついた。ヨナタンは自分自身のようにダビデを愛した。サウルはその日ダビデを召し抱え、父の家に帰らせなかった。ヨナタンは自分自身のようにダビデを愛したので、ダビデと契約を結んだ。ヨナタンは着ていた上着を脱いで、それをダビデに与え、自分の鎧・兜、さらに剣・弓までも彼に与えた」と、記されてあります。
これはダビデが、敵のゴリアテとの戦いに勝利して、サウル王の前に帰ってきて勝利を報告したその直後の場面ということになります。イスラエルに大勝利をもたらしてくれた若者が、誰なのかということをするも知りたくて、17章58節のところでサウルはダビデに言いました。「若者よお前は誰の息子か?」そうするとダビデは言いました。「あなたのしもべベツレヘム人エッサイの息子です」ということで、そういうやり取りがサウルとダビデの間に交わされていたということが分かる。
そこから今日の話は始まっていくんですけれども、18章1節に、「ダビデがサウルと語り終えたとき、ヨナタンの心はダビデの心に結びついた」という風に書かれてあります。ヨナタンはサウル王の息子であります。同時にサウル王のすぐそばにいて、彼に仕える最も忠実な家来の一人でもありました。ですからダビデとサウルが語り合うその場面に、ヨナタンもいて、その一部始終を見ていた。そしてその時ヨナタンの心がダビデの心に結びついたということがわかります。さらにヨナタンは自分自身のようにダビデを愛したと書いてあります。同じことが3節にも繰り返されています。ヨナタンは自分自身のようにダビデを愛した。ヨナタンが本当にダビデをこころを注いで愛したということが分かる。そして彼はダビデと契約を結ん だと3節に書いてあります。きっとダビデに強く惹かれたんだと思いますけれども、でもそういう個人的な感情を超えて、二人の関係を神様の前の関係にしたということであります。そして4節を見ると、ヨナタンは来ていた上着を脱いでそれダビデに与え、自分の鎧・兜、さらに剣・弓・帯までも彼に与えた。ヨナタンの持っているすべての良いものをダビデに与えたということなんですけれども、これはヨナタンが自分に本来与えられている王位継承権を、ダビデに譲る行為であったというふうに考えられております。あなたはサウル王の息子ですから、王位継承権というのは当然ヨナタンが持ってるわけですね。そういう風に誰もが見ている、認める、そういう存在なわけですけれども、ところが自分に与えられているその王位を引き継ぐ権利を、もうダビデに与えてもいいよ、それでも構わないよというくらい、そういう心境にヨナタンがなっていたということが感じられるわけであります。ヨナタンにとっては、それくらいダビデという存在が大きな存在であったし、本当に大切な存在になったということが分かると思います。ここまでの箇所を通して、二人の間の友情はダビデではなくてヨナタンの主導で育まれたということが言えると思います。主語は全部ヨナタンですね。ヨナタンの心は、ダビデの心に結びついた。ヨナタンは自分自身のようにダビデを愛した。ヨナタンはダビデと契約を結んだ、と全部主語はヨナタンです。ですからヨナタンのダビデに対する積極的な働きかけによって、二人の間の友情が育まれていたということが分かると思います。ダビデにとってみると、本当に身に余る光栄だったということが言えると思いますね。王の息子が、羊飼いであるこの自分にこんなにも心を寄せてくださっているというのは、本当に身に余る光栄だったんじゃないかなと思いますね。しかし二人はそんな立場の違いを超えて親しい友情と信頼関係を少しずつ築き上げていきました。それは2人にとって、とても幸いなこと、嬉しいことだったに違いありません。特にダビデにとってはそうだったと思いますね。ゴリアテに勝利できたことも嬉しかったと思いますが、ヨナタンという親友が与えられたということも、ダビデにとっては本当に嬉しかった、それはもう神様からのプレゼントであるかのように感じられる祝福だったに違いないと思います。
2.サウル王の心の中に沸き起こるダビデへの殺意
そしてダビデはこのような恵みが与えられたことを、それからも何度も何度も神様に感謝していることになる。どうしてかと言うと、このようなヨナタンが、複雑になってしまったサウルと自分の関係の間に入って、そしてダビデの為にサウル王にとりなしをする、そういう存在になってくれたからなんですね。なぜサウルとダビデの関係が複雑になってしまったのかを前回学びましたけれども、その原因はサウロの心が出た妬みに囚われてしまったからでした。ダビデに対する妬みが、サウルの中に起きてしまった。いかに人の心は変わりやすいかということを前回学んだんですけれども、その結果サウルは何と、ダビデに対して殺意さえ抱くようになってしまうということ、そんな難しくなってしまった両者の関係の間に割って入って、父の気持ちをなんとかなだめ、そしてダビデを必死になって守ろうとしたのが、ヨナタンであります。ですからダビデに取ってヨナタンは本当にありがたい存在だったということが分かると思います。その場面も見てみたいと思います。今度19章の1節から6節まで読んでみたいと思います。
「サウルはダビデを殺す」と息子ヨナタンや全ての家来に告げた。しかしサウルの息子ヨナタンはダビデを非常に愛していた。 ヨナタンはダビデに告げた。「父サウルは、あなたを殺そうとしています。明日の朝は注意して下さい。隠れ場に留まり身を隠していてください。私はあなたのいる野に出て行って、父の側に立ち、あなたのことを父に話します。何かわかったらあなたに知らせます。」ヨナタンはダビデを弁護し、父サウルに言った。「王よ、しもべダビデのことで罪を犯さないでください。彼はあなたに対して罪を犯してはいません。むしろ彼のしたことは、あなたにとって大きな益となっています。彼が自分の命をかけてペェリシテ人を打ったので、主は大きな勝利をイスラエル全体にもたらしてくださったのです。あなたはそれを見て喜ばれました。なぜ、何の理由もなくダビデを殺し、咎のない者の血を流して、罪ある者となられるのですか?」サウルはヨナタンの言うことを聞き入れた。サウルは誓った。主は生きておられる。あれは殺されることはない。」
ここの最初の場面で、サウルはもう本気でダビデオ殺す気持ちになってますね。そしてその気持ちをヨナタンと他の家来たちに告げたということが、1節に書いてある。その後に「ヨナタンはダビデを非常に愛していた」とこにもまた出てまいります。そしてその後のヨナタンが取った行動のすべては、このダビデにに対する愛に基づいての行動であったということが言えると思います。まず、ヨナタンはダビデの所に行きました。そしてダビデにその危険を知らせます。隠れ場に行って身を隠すように指示しました。そして父に関し、何か分かったらすぐに知らせるからと語って、ダビデの心を安心させているということはわかりますね。ダビデはもう本当に命を狙われている、そのダビデをなんとか守ろうと必死になって匿っていて、匿っているだけじゃなくて、何かわかったらすぐ知らせるからって、何とありがたい言葉ではないか、配慮ではないかなと思いますね。その後今度はヨナタンはどうしたかっていうと、父サウルの所に行きます。そしてダビデを一生懸命弁護するんですね。その弁護の言葉が、4節5節と書いてありますが、もう一度読みますが、「王よ、しもべダビデのことで罪を犯さないでください。彼はあなたに対して罪を犯してはいません。むしろ彼のしたことはあなたにとって。大きな力となっています。彼が自分の命を賭けてペリシテ人を打ったので、主は大きな勝利をイスラエル全体にもたらしてくださったのです。あなたはそれを見て喜ばれました。なぜ、なんの理由もなくダビデを殺し、咎のない者の血を流して、罪ある者となられるのですか」と必死なってダビデを弁護している非常にに素晴らしい言葉ではないかなと思いますね。ダビデはイスラエルのために命がけで戦ったんだと、そしてイスラエルに大勝利をもたらしたんだと、あなたもそれを喜んだでしょうと、そしてダビデの存在はイスラエルにとって害ではない、あなたにとって害ではない、むしろ祝福なんだということを訴えてますね。説明している。そして同時に、ヨナタンはサウロのことも気にかけています。あなたが罪を犯すことがないように、何の咎のないダビデを殺すことによって、あなた自身が罪に定められてしまうことがありませんようにと、お父さんの心配もして、父に対して心を寄せて、父が罪を犯すことがないように、お父さんのことも守ってるんですよね。本当によくできた息子だなと思います。そんなヨナタンの非常に心を込めて語った説得が功を奏したようで、サウルも一度は正気を取り戻して、そしてもうダビデを殺さないと、殺さないことにしたよと、いうことにしたようですが、ですから一度は危険が取り去られたわけですけれども、でもこのあと読んでいくと、サウルは結局、元に戻ってしまったということがありますね。効果は一時的ではあったんですが、でもヨナタンはサウルとダビデの間に割って入って、ダビデを守ろうと必死になってますし、同時にサウルも守ろうと必死になっている。そういうヨナタンの姿をここに確認することができるということであります。このヨナタンの振る舞いは、実に すばらしい振る舞いではないだろうかというふうに思います。私たちは、今までの人生の中で、どれくらいこのような友情を経験してきたでしょうか?困った時の友こそ真実な友という風に言いますけれども、こんな素晴らしい友情を、もし経験できたらばそれは本当に素晴らしい人生ということになるんじゃないかなというふうに思います。でも同時に、私たちはどれだけこのヨナタンのような振る舞いをしてきたかということも、考えなければいけないというふうに思いますね。どのように、このようなヨナタンの生き方を、自分の生き方としてきたでしょうか?どれだけ誰かの友人になるように努めてきたでしょうか?そしてその友情を育むために、心を寄せ、また祈ってきたでしょうか?私たちに問われているのは、おそらく、こちらの方じゃないかなと思うんですね。誰かが自分の友になってくれるのを待つのではなくて、自分が誰かの友になるということ、そしてその人を、自分自身と同じように愛するということ、そのことが主から期待されているのではないだろうかというふうに思います。イエス様が、まず私たち一人一人の友になってくださいました。イエス様がまさに、私たち弁護して下さったんではないでしょうか。本当に危険の中に置かれている私たちのために、必死になって弁護してくださって、守って下さったんではないでしょうか?そして私たちを守るために、身代わりとなって十字架にかかって死んでくださったんではなかったでしょうか?そのような素晴らしい友情を私たちはもう経験したんではなかったんでしょうか?そのイエス様がおっしゃってますね。「私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」私はあなたを愛したよ、あなたの友になったよ、同じようにあなたがたも互いに愛し合いなさい。これがイエス様が私たちに与えておられる命令であります。今度は私たちが誰かの友になる番ではないでしょうか?皆さんそれぞれに主がが与えてくださっている方が、おられるんじゃないかというふうに思います。主が示してくださった真実な友情を、今度は皆さんが示す、その相手というものがそれぞれに与えられているんではないだろうかというふうに思います。私たちはこのヨナタンの姿からまず、学びたいと思います。誰かに対する、真実な友となってその友情を主によって、育んでいただきたいと思います。
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