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真実な友情・・・第一サムエル記20章

 
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若井 和生師
若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。

3.二人の友情のピンチ

さてここからが今日読んでいただいた箇所の場面ということになります。非常に素晴らしいヨナタンとダビデの友情でありますけれども、20章にくると、この二人の友情がピンチにさらされていると言ったらいいでしょうか、危機に瀕しているということが言えると思います。でもこの二人は、その危機を見事に乗り越えていったということであります。
それは一体どのような危機であり、ピンチであり、しかし二人はどのようにその危機を乗り越えていったのかということを、私達はこの聖書の箇所に注目をしていきたいと思います。
まず、20章の1~4節と読んでみますのでご注目ください。
「ダビデはラマのナヨテから逃げて、ヨナタンのもとに来て言った。『私があなたの父上に前に何をし、私にどんな咎があり、どんな罪があるというのですか。父上がわたしのいのちを求めておられるとは。』ヨナタンは彼に言った。『とんでもないことです。あなたが死ぬはずはありません。父は事の大小を問わず、私の耳に入れずに何かをするようなことはありません。どうして父がこのこのことを私に隠さなければならないでしょうか。そんなことはありません。』

ダビデはなおも誓って言った。『父上は、私があなたのご好意を受けていることを、よくご存知です。–ヨナタンがが悲しまないように—、この事を知らせないでおこうと思っておられるのです。けれども主は生きておられます。あなたのたましいも生きておられます。私と死の間には、ほんの一歩の隔たりしかありません。』

ヨナタンはダビデに言った。『あなたの言われることは、何でもあなたのためにします』
ここにヨナタンとダビデの会話が、記されてありますけども、この時ダビデは死の恐怖を味わっておりました。サウロ王から命を狙われていたからです 。そしてラマのナヨテというところからヨナタンのもとに逃げてきて、そしてヨナタンと会って、そしてヨナタンに言ったのが、その言葉ですけれども、言ってますね、「私があなたの父親の前に何をし、私にどんなとかがあり、どんな罪があるというのですか?父上が私の命を求めておられるとは。」ダビデはどうしてかわかんないんですねなんですね。なぜ自分が命を狙われなければいけないのかわかんないんですね。なにを私はサウロにしたというんでしょうか・その理由がわからなくて戸惑ってるんです。そしてただ怖くて逃げ回ってる。わけもわからなくて逃げ回ってる。そういうダビデの心境というものが切々とここで訴えられているのがこの1節の言葉であります。それに対してヨナタンの言葉が、2節ですけれども、こういう風に言いました。「とんでもないことです。あなたが死ぬはずがありません。父は事の大小問わず、私の耳に入れずに何かをするようなことはありません。どうして父がこのことを私に隠さなければならないでしょうか。そんなことはありません。」そんなことないよって言ってるんですね。これはあなた死ぬことないよっていう風にこう言ってるわけですよね。要するに、大丈夫だって言ってるわけです。父は事の大小を問わず何でも自分に教えてくれるから、だから絶対大丈夫だよという風に、励ましているつもりなんだと思いますけれども、ところがダビデにとっては、サウルとヨナタンの親子としての、その親しい関係こそが脅威でありました。サウロがその親子の関係を利用して自分を殺すかもしれないということを非常に恐れている。ですからダビデはヨナタンに向かって、さらに訴えますね。3節「父上は、私があなたのご厚意を受けていることをよくご存知です。ヨナタンが悲しまないように、この事を知らせないでおこうと思っておられるのです。けれども主は生きておられます。あなたのたましいも生きておられます。私と死の間にはほんの一歩の隔たりしかありません。私と死の間にはほんの一歩の隔たりしかありません。ダビデが死を強く意識している、もう死がそこまで迫っている、それくらい恐ろしい死に怯えている、そういう心境を切々と訴える訴えてますよね。同時にその危機感をヨナタンがわかってくれない、ヨナタンがが受け止めてくれないということにも、心を痛めて、共感してもらえないということを非常に訴えているという気持ちが、ここに表されているということが感じられるんではないでしょうか、ヨナタンは大丈夫だよって言うんですけれども、ダビデにとっては大丈夫なわけないんですね。とても大丈夫な状況ではないんです。両者の間に食い違いが生じているということが分かる。わたしたちはよく「大丈夫」って言葉を口にするかと思いますけれども、注意する必要あるかもしれませんね。相手はともちっとも大丈夫じゃないのに、こちらの勝手な判断によって大丈夫だって言ってしまうことがあるかもしれませんね。その言葉がますますその人を苦しめていくっていうことが、もしかするとあるかもしれません。ヨナタンの友情にダビデは本当に感謝していたと思うんですけども、この時だけはダビデは本当に孤独だったということが言えるというふうに思います。これがダビデの苦しみでありますけども、でも私たちはヨナタンのこともちょっと考えてみたいと思いますね。ヨナタンもこの時苦しんでいたというふうに考えられる。ヨナタンの苦しみというのはどういう苦しみかと言うと、父サウルとダビデの狭間に立っているところの苦しみということが言えるというふうに思います。ヨナタンはお父さんのサウルからとっても信頼されてるんですね。サウルは事の大小問わず、何でもヨナタンにだけは相談すると、ここに書いてありますけれども、自分に対して父は、何でも相談してくれる、何でも話してくれるんです。それは父がヨナタンを信頼してるからなんですね。父の気持ちを本当によく受け止める息子でありました。素晴らしい息子でありました。そしてそんな父から寄せられる期待を、ヨナタンも裏切りたくなかったと思います。

4.ヨナタンの選択=人間的つながりを取るのか、それとも神様の前に真実に生きるのか。

ヨナタンにとって、ダビデはとっても大事な友人です。けれどもサウルも大事な父親なんですね。両方大事なんです。でもその両者が非常に複雑な関係になってしまっていることが、ヨナタンにとっては大きな心の痛みなんです。ですから両者の間に 入って、なんとかその両者の関係を取りもちたい、なんとか元に戻ってほしい、これがのヨナたんの願いなんですね。その努力をしてきて、それがうまくいったこともありました。でも、もうこの時には、もう限界に来てるんですね。どんなに努力しても状況は変わらない。一時は良くなったなと思うけれども、また変わってしまって、サウルはダビデに対する敵意をむき出しにして、そしてダビデは逃げ回っ回るという、そういう状況が変わっていかない、どんどんひどくなっていく、その中にあってヨナタンもまた悩み、苦しんでいるということを、私たちはここから感じるんじゃないだろうかというふうに思います。サウルにしてみれば、息子ヨナタンに自分の王位を継承させたいと思ってると思いますね。ところがそのことを考える時に、ダビデは本当に邪魔な存在でしたね。しかもヨナタンはダビデに心を許して、自分の王位をダビデに譲ってもいいと、そういう心境になっている。これが最後には許せなかったと思いますね。またダビデが現れて、そしてヨナタンの心を惑わしてるように見えたんじゃないでしょうかね。ダビデが現れてから、ヨナタンが変になったっていう風に見えたんじゃないでしょうかね。邪魔で邪魔でしょうがない。自分が息子に譲りたいと思っている王位をダビデは横取りしようとしている。そういう存在に見えて仕方がない。だからヨナタンとダビデが親しくなればなるほど、サウルはダビデに対して敵意を募らせてしまうというそういう構造になった。このように3人の思いが複雑に絡み合って、もはや人間の努力ではとても解決することができない状況になってしまっているということが分かるんではないだろうかと思います。ここに私たちは人間関係の難しさというものを教えられるんではないだろうかと思いますね。わたしたちでも、こういうこと時々経験することがあるんじゃないかなと思います。みんなそれぞれの思いがありますね。で、その想いの中でいろいろ動くんですけれども、うまくいくかと言うとそうではないんですね。それがどんどんどんどんか絡まっていって、もう努力すればするほどそれが絡まってしまうという、そういうことを、私たちも日々の経験の中で味わうことがあるんじゃないかなと思いますけど、やっぱり基本的に自己中心ですので、そして非常に自分の思いや、拘りというのが強いですから、それが複雑に絡み合ってしまう時に、とても人間では、人間の努力では修復できないような、それくらい事態が深刻になってしまうということもあります。その中にあってなんとか事態を改善に導きたい人は、その中に入って努力するけれども、努力すればするほど事態を悪くしてしまうということもあります。本当に人間関係というのは難しいものだと思いますね。いろんな利害関係が絡んできますので、そしてそれが発展することによって、本当に殺傷事件のような恐ろしい結果に発展していくということも起こり得る。人間の罪の性質というのは、この人間関係の中で、よりはっきりと露骨に表わされていくし、その中で人間の醜さというものも表されていくということを私たちは覚えたいというふうに思います。このように、ダビデとヨナタンの関係は、本当に麗しい関係は、今、この時にピンチを迎えた。ダビデも苦しんでいますね。ヨナタンも苦しんでいます。それぞれの立場を、それぞれの気持ちを、お互いに主張し合っていたら、それこそ二人の関係は、どんどんどんどんスレ違って、二人の関係は破綻してしまったという風に思います。

4.危機を乗り越えて

でも二人は、そのピンチを危機を見事に乗り越えていったということを今日の箇所から教えられます。どのようにして乗り越えて行ったんでしょうか。
4節、「ヨナタンはダビデに言った『あなたの言われることは、何でもあなたのためにします。』ヨナタンはきっと、ダビデのその訴えを聞いて、本当に深刻な訴えを聞いて、ハッとさせられたんだと思います。そしてその時に、ダビデの苦しみを十分に理解してあげられなかった自分の足りなさというものを意識したんじゃないだろうかという風に想像しますけれども、でもここで、「あなたの言われることは何でもあなたにします」という風に言って 、ヨナタンにとっては、もう一度ダビデに対する友情を確認させられる機会であったということがわかります。ヨナタンがこの時、問われたことはどちらを選ぶのかということだったという風に思います。それまでのヨナタンにとっては、サウルも大事、ダビデも大事、両方大事、そしてその両者の間をなんとか取り持つということは、彼の一大事でしたね。それが彼にとっての一番大事なことでした。でもこの時にヨナタンは、選択を迫られたんですね。どちらを選ぶかというそういう選択というよりは、人間的なつながりを取るのか、それとも神様の前に真実に生きるというその生き方を取るのか、どっちを選択するのか、その選択であったということが言えるんじゃないでしょうか?お父さんとの関係も大事なんですね。お父さんとの関係を軽んじるわけではないんです。でもそのような肉親の情であったり、人間的なつながりを超えて、神の前に誓った、その誓いの通りに生きるということが、この時にヨナタンがこの時問われたことだったという風に思いますね。そしてその所にヨナタンは立った。そのことがここの4節でわかることだと思います。そしてこのようなヨナタンに対して、ダビデもいいますね。
5節6節7節、「ダビデはヨナタンに言った。『明日はちょうど新月祭で、私は王と一緒に食事の席に着かなければなりません。でも私を行かせて、三日目の夕方まで野に隠れさせてください。もし父上が私のことを咎めたら、おっしゃってください。『ダビデでは自分の町ベツレヘム急いで行きたいと、しきりに頼みました。そこで彼の種族全体のために、年ごとの生贄を捧げることになっているからです』と。もし父上が『良し』とおっしゃれば、あなたのしもべは安全です。もし激しくお怒りになれば、私に害を加える決心をしておられると思ってください。」
と、ここに切々と、色々と話していることがありますけれども、これは要するに、サウルの態度をよく見極めて、サウルの真意はどこにあるか、よく探ってくださいということですね。そして8節でダビデはヨナタンにお願いをしています。
「どうかこのしもべに真実を尽くしてください。主に誓って下僕と契約を結んでくださったのですから。もし私に咎があれば、あなたが私を殺してください。どうして父上の所にまで私を連れ出す必要があるでしょうか。」
と8節でお願いをしている。ダビデはヨナタンが、かつて主の前で自分のために契約を結んでくれたあの契約を思い起こさせているということが分かる。そしてその契約に立ってほしい、そしてその契約に立って自分に真実を尽くしてほしいと、お願いしている。それが8節の言葉です。今までの友情は、ヨナタンの方がリードしてきたということが言えるかもしれませんが、この場面はむしろダビデがリードを取って、そしてヨナタンに立つべきところに立って下さいと、そして真実私に尽くして下さいとお願いしている、そういうダビデの信仰がここに見られるということが分かるかというふうに思います。このように二人は難しい状況だったですね。本当に難しい人間関係の色々なしがらみの中に置かれて、非常に難しい立場に置かれていたんですけれども、共にそこで神様を意識しました。この関係が、そもそも神様から与えられた関係であるということを確認しました。そして神の前でともに誠実でありたいと、その願いを共に確認しました。二人の関係はそれぞれの思惑の中にあって、一時的には非常に危機的な状況だったと思います。けれどもしかし、そんな中にあって、ともに神様を見上げ、神を意識することによって、その関係が守られて、むしろ強されていったということを、私たちはここで覚えることができると思います。

5.まとめ

今日のこの聖書の話から、私たちは一体何を学ぶでしょう。二つのことを共に覚えたいと思います。
まず、私たちの人間関係は、全て神の前にある関係であるということを覚えたいというふうに思います。神によって与えられ、神によって導かれ、神の前でその中身が問われる関係であるということであります。私たちは基本的にみんな自己中心ですからですから、私たちの人間関係も多くの場合は、相手が自分にとってどれだけ得であるか、損であるか、便利であるか、不便であるか、ためになるか、ためにならないか、そんな基準で人間関係が築かれてしまうことがありますね。そういうことが多いんじゃないかなというふうに思います。ですからうまくいってるように見えても、何かトラブルが起きたとたんに、「もう、この人は自分に対しては全然有益ではない」と分かった瞬間に、その関係は壊れてしまう、破綻してしまう。ですから私たちの関係というのは、本当に脆い関係ではないかなというふうに思います。でもその関係をもし神様によって備えられた関係とし意識し、ともに神様を意識し、神の前に誠実でありたいと願ったら、どうでしょうか?それは全く違うものになっていく。私たちはキリストに仕えるように、その人に仕えなければいけません。イエス様も仰っています。
「あなたが、これら私の兄弟たち、しかも最も小さい者たちにしたのは、私にしたのです。」
人に仕えることが結局は、イエス様に仕える事と同じなんだよ、ということを教えられます。私たちに与えられた日々の人間関係の中にあって、その中に埋没してしまうことがなく、それを主にある関係として、主の前で生きていくことを大切にしていこうではありませんか。その時に主がその関係を豊かに祝福してくださるということを覚えたいというふうに思います。
もう一つのことを覚えて終わりにしたいと思いますが、今日の箇所を通してもう一つ教えられることは、それは神様は主にある私たちの小さな人間関係を通して、御業をなされるということであります。ダビデとヨナタンの友情は、これは個人的な関係だったと思いますけれども、神様のご計画の中にあっては、この二人の友情というのは非常に大事な1ページでしたね。
非常に大事な要素でありました。ヨナタンの友情と犠牲がなければ、その後のダビデの人生はありえなかったんです。この後ダビデは、長い厳しい逃亡生活に入ってきますけれども、そんな時にもヨナタンの友情が彼の支えでありました。二人の友情が、神様のご計画の進展のために豊かに用いられていくということを、私たちは聖書を通して教えられることであります。私たちの日々の出会い、あるいは個人的な関係というのは、非常にささやかな、小さな関係であるかのように見えるかもしれません。でもそんな関係であっても、両者が共に主を仰ぎ、主の前の関係として行く時に、その関係を通して神様がその働きを進めてくださるんではないでしょうか。たとえ小さな関係であったとしても、両者がともに神を意識し、共に主の前で誠実に歩んでいくときに、神様はその関係を祝福してくださいます。そしてその関係を通して、この祝福を、この地にもたらしてくださる。神様の御心を成してくださる。そのような日々の関係を私たちはぜひ味わっていきたい。与えられているいろんな人々との関わりを、大切にしていこうではありませんか。そして主の前で共に歩んでいこうではありませんか。そのような幸いな人生へと導いて いただきたいと思います。

お祈りをいたします。愛する神様。今日はダビデとヨナタンの友情から教えていただいたことを感謝いたします。私たちも日々の歩みの中でいろんな人との出会いがあり、関わりが与えられていることを感謝いたします。偶然であるかのように思えるようなひとつひとつの事柄の中に、主の導きがあります。どうぞひとつひとつを主の前にお捧げにし、そして主にあって与えられた関係を大事にしていくことができますように。どうぞ私たちを導き御言葉によって助けてくださるようにお願い致します。与えられた御言葉を心から感謝し、主イエスキリストのみなによってお祈りをいたします。

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