イエス・キリストをより良く知るために

イエス・キリストとは誰か?・・・マタイの福音書1章

 
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若井 和生師
若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。

2.ダビデの子孫であるイエスキリスト

マタイは1節で、イエスキリストのことをダビデの子孫であるという風に紹介しております。イエス様はアブラハムの子孫であり、同時にダビデの子孫でもありました。この系図の途中にダビデが出てきますので、当然それはダビデの子孫ということになるわけですが、これもやっぱり特別な意味が込められておりました。ユダヤ人にとってダビデの子という称号は、非常に重要な呼び方でありました。皆さんはイスラエルの国旗を想像することできるでしょうか?イスラエルの国旗ってどんな国旗でしょうか?白地に青の帯が上と下に横線の帯があってですね、真ん中に三角形二つ組み合わせたような星が書いてあるんですね。これがイスラエルの国旗で、この星のことを、ダビデの星と呼びます。そしてこの星はユダヤ人にとっては希望の星ですね。神様はある日、ダビデに次のように約束してくださったことが記されてあります。

「私はあなたの身から出る世継ぎの子をあなたの後に起こし、彼の王国を確立させる。彼は私の名のために一つの家を建て私はその王国の王座をとこしえまでも固く立てる」。

第2サムエル7章12~13節の言葉ですけども、このようにダビデに約束してくださった。そしてあなたの後から出る世継ぎから永遠の王国が確立されるんだっていう約束をしてくださった。

ところがダビデの後に本当にそういう王国が確立されたんでしょうか?その後ソロモンが生まれ、引き継いで、その後どうなったかって言うと、イスラエルが分裂をして、北イスラエル王国、ユダ王国に別れ、それぞれの歴史がありますけれども、北方はアッシリア帝国によって滅ぼされてしまい、ユダ王国もバビロン帝国に滅ぼされてしまって、その後バビロンに捕囚として連れて行かれてしまったんですね 。

ところがその後多くの予言者たちが現れて、予言をしました。やがて救い主がやってくる。神様がダビデに約束してくださったように、そのメシヤという救い主が王国を確立してくれる。必ずその日がやって来るんだっていうことをたくさんの予言者たちが予言しました。その結果ユダヤ人の間にメシヤを待望する信仰が生まれました。今は辛いけど、今は国がないけれど、今は虐げられてるけれど、でも、やがてメシヤがやってくる。やがて救い主がやってくる。そしてその王様がやってきた時には、とこしえの王国を築いてくれる。これがユダヤ人の希望だったんですね。ですからダビデの星っていうのは、そういう希望を表しているのです。そのダビデに与えられた約束を成就するために来られたのがまさに、イエスキリストでありました。マタイがイエス様を、ここでダビデの子孫と紹介する時、そのような意味が込められていたということであります。

つまりイエスキリストこそは、神様がダビデに与えられた約束を実現される方なのです。ダビデに約束してくださった通り、とこしえの王国、一時的な王国じゃない永遠の王国を確立してくださる方、ユダヤの人たちが長い間、待ち望んでいたところのメシヤとして、マタイは、ここでイエス様のことを紹介しているということを私たちは覚えるものでありたいと思います。

ですからまとめますと、この系図の最後にイエス・キリストが出てくるわけですけれども、このイエス・キリストはアブラハムの子孫、ダビデの子孫でありました。神様がイスラエルの歴史の中でアブラハムに与えてくださったアブラハム契約と、ダビデに与えてくださったダビデ契約を成就する方、実現する方として、ここに紹介されているということを覚えたいと思います。

そしてイエスキリストの系図とここに出てきますが一つ注意したいことはイエスと言うのが名前で、キリストという名前は名字ではないということを、私たち注意しておきたいなと思いますね。よくイエス・キリストというのは、名前と苗字だと考える人がいますけれども、そうではないですね。キリストという名前はメシアという意味、つまり救い主という意味です。マタイがここで、アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図と書いている時に、これは救い主イエスの系図だという意味であります。

ですからまさにマタイは、この最初の部分でイエス様が救い主である、救いの主として来られた方である、そういう主張しているということがわかります。まさに旧約聖書の歴史、アブラハムの歴史、ダビデの歴史、そしていろんなことがあります。でもちゃんと約束を果たしてくださいました。その約束の、予言の成就としてイエス様が来てくださったということ、そしてここからまた新しい歴史が始まる、この方を通して、この世界に祝福が届けられていくという新しい歴史、とこしえの王国がここから始まっていくという新しい歴史の分岐点であるということが主張されているのです。この恵みを私たちは味わっていきたいものです。今まさに祝福の中に招かれている、歩んでいるということを感謝するものでありたいと思います。

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