イエス・キリストとは誰か?・・・マタイの福音書1章
4.恥ずかしさと惨めさに満ちたイスラエルの歴史
2節にアブラハムにイサク生まれ、イサクにヤコブが生まれヤコブに、ユダとその兄弟たちが生まれたという風に記されてあります。そして11節を見ると、ヨシュアにバビロン移住の頃、エコニヤとその兄弟たちが生まれた、とこの2箇所だけその兄弟たちという事実が書き加えられていることがわかります。
おそらく兄弟がいたのはこの二人だけでではなかったと思います。あなたにもご兄弟がいらっしゃったんじゃないでしょうか。けれどもこの二人だけ兄弟たちという言葉が付け加えられているのはどうしてだったんでしょうか?そこにもまたマタイの気持ちが、主張が、表されております。
ヤコブの息子たちというのはエジプトに移住した兄弟達でした。エジプトでの生活を経験した兄弟たちがいました。また11節に出てくるヨシュアに与えられたエコニヤとその兄弟たちは、ここにも出てきますが、バビロン捕囚を経験した兄弟達でありました。
つまり約束の地から引き離されて、異邦人の地での生活を経験した、そういう兄弟たちであったということが分かって、これはイスラエルの歴史の中でも非常に大事な部分でありました。ユダヤ民族にとって約束の地から離れて、そして異国の地での生活を経験するということは悲しい歴史であります。それは彼らが味わった苦しみ、決して忘れることのできない悲しみの日々でありました。そしてそれはイスラエルの民の神様に対する不従順の結果でもありました。
そのような悲しみの歴史というものをマタイはここであえて書き留めて意識させているということがわかるのです。そして最後にマタイはあるひとつの視点を持って、このイスラエルの歴史をまとめているということがわかります。それが17節の言葉です。「それでアブラハムからダビデまでの代が全部で14代、ダビデからバビロン移住までが14代、バビロン移住からキリストまでが14代になる」ということで、三つの時代に区分しているということがわかります。そしてそれぞれ14代、14代、14代、ときっちり整理して提示しているということが分かる。これ、実は、詳しく調べて行くと必ずしも十四代でなかった。その間もいろいろあったみたいですが、でもマタイはそういう歴史のまとめ方をしているということ、編集が入っているということが分かるんですね。でもどうしてこういうの歴史の編集をしたかということでありますけれども、でもこの節をとおしてイスラエルの人達は今まで辿った歴史というものを非常にはっきりと示されたということが言えると思います。
①アブラハムからダビデまでの最初の14代時代、途中いろんなことありましたけれども、概ね神様の祝福を頂いて、繁栄した時代、上り調子の時代だったということが言えるんじゃないかと思います。
②ところがダビデからバビロン捕囚までの14代というのはどういう時代だったでしょうか?それとは逆にイスラエルが神様の祝福を失い、没落していくそういう時代だったということ言えるんじゃないでしょうか。
③そして今度バビロン移住からキリストが現れる14代までの期間というのは、どういう時代だったでしょうか?それはユダヤ民族が何の希望も見出せない、暗黒な苦しみの中に閉じ込められてしまった、そういう時代だったということが言えるんではないでしょうか。
つまり第一の時代で神様の祝福を受けて繁栄していたが、次の時代では没落をして、第三番目の時代では救いようのない暗黒の時代に閉じ込められてしまったという、そういう歴史をこの17節の言葉を通して振り替えさせられる、そういう歴史のまとめ方であるということが分かります。
このようにマタイによって紹介されたキリストの系図は、詳しく見ていくと、それは決して栄光に輝く歴史ではなかったということがわかります。むしろ人間の罪に汚れた、そして神様に対する不従順に貫かれているそのことによって、様々な惨めな経験をしなければならない、そういう長い、長い歴史だったということが分かる。恥ずかしさと惨めさに満ちたイスラエルの歴史だったということが分かるわけであります。
しかしその系図の最後にイエスキリストが登場してきた。これは何を意味するんでしょうか。
それは第一に、救い主は人間の罪に満ちた、醜い、そのような現実の中に来てくださったということを表しております。
そして第二番目に、神様の恩寵はそんな人間の罪深さにもかかわらず、歴史の中に貫かれていて、神様の愛は決して変わることがないということを表している。イスラエルは確かに大変な罪を犯しました。何度も何度も神様の御心に背いて、神様を何度も悲しませてきました。不従順を貫き、自分勝手な道を歩みその結果神様の祝福をどんどんどんどん失って、本当に惨めな生活を強いられる捕囚になって、約束の地から引き離されて、国を失って、外国の奴隷となって、本当に苦しい日々を味わう。でもそれでも神様の愛は決して変わらない。イスラエルがどんなに神様に対して、背き続けても、それでも神様はイスラエルを見放すことがありませんでした。何とか彼らを救いたいと願いました。そしてそこで送ってくださったのが、最後の最後に出てくる人物、イエスキリストだったのです。
このイエスキリストの登場によってここから新しい歴史が始まろうとしていました。神様の祝福が全世界の人々に届けられる歴史が始まろうとしていた。そして神様の王国がここから始まっていくというキリストの系図は、旧約聖書と新約聖書をつなぐブリッジのような大切な働きをしている、そういう箇所であるということが分かるんではないでしょうか。ですからこんなたくさんの、名前の羅列に見える、何が書かれてるのかわからないような系図の中に、神様の愛が示されている。
5.まとめ
私たちの過去も、振り返るとこのイスラエルの歴史のように様々な失敗があ、挫折があり、神様に対する不従順があり、その結果苦しんだり、もがいたり、そういうことたくさんあるんじゃないでしょうか?もう一度チャンスがあったらやり直したいっていうそういう後悔とか、そういう気持ちがたくさんある。私たちの過去はそういう歴史ではないでしょうか?でも神様はそんな私たちを決して見放さないで、そこにイエス様を送ってくださった。その恵みを私たち、この時にもう一度感謝して豊かに味わいたいと思うのです。