イエス・キリストをより良く知るために

たとえ皆が躓いても

 
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若井 和生師
若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。

マルコの福音書14章27~31節

 イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたはみな、つまずきます。
  『わたしは羊飼いを打つ。
  すると、羊は散らされる』
と書いてあるからです。
しかしわたしは、よみがえった後、あなたがたより先にガリラヤへ行きます。」
すると、ペテロがイエスに言った。「たとえ皆がつまずいても、私はつまずきません。」
イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに言います。まさに今夜、鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います。」
ペテロは力を込めて言い張った。「たとえ、ご一緒に死ななければならないとしても、あなたを知らないなどとは決して申しません。」皆も同じように言った。聖書 新改訳2017

聖書が多くの人々の心を惹きつけて離さないのは、第一にそこに神様の素晴らしさが表されているからでありますけれども、さらに変わらない人間の生身の姿がそこに記されているからではないかと思います。

人間は進化し、人間の社会も進歩するという考え方が多くの人々の心を魅了した時代がかつてあったと思うし、もしかしたら今も続いているのかもしれませんけれども、しかし聖書が主張していることは、いつの時代も人間は基本的には変わらないということだと思います。

新約聖書であれば今から約2000年前の人間の姿を私たち教えられるわけで、あるいは旧約聖書であれば3000年さらに4000年前の人間の姿というのを私たちは教えられますけども、その聖書の登場人物たちの中に私たちは自分の姿を見ます。聖書の登場人物の姿を通して私たちは自分自身のことを知らされます。

今日の箇所に記されるペテロの姿もその一例ということになると思います。

先週は最後の晩餐の場面を注目をしました。エルサレムでイエス様が最後に弟子たちとお別れの食事をしたというその場面でした。その食事会の最後は賛美だったようです。26に、

そして賛美の歌を歌ってから皆でオリーブ山へ出かけた

と書いてあります。食事を終えて賛美を捧げて、そして彼らはエルサレムからエルサレムの郊外にあるオリーブ山まで歩いて行ったという展開になる、その途中での弟子たちとかわされた会話が今日の聖書の内容ということになります。

(1)イエスの予告「あなたがたはみな、つまずきます」

27節をお読みいたします。

イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたは皆つまずきます。『私は羊飼いを打つ。すると羊は散らされる』と書いてあるからです。」

オリーブ山まで歩いて行かれる途中で、イエス様が驚きの言葉を発せられました。イエス様は弟子たちに言いました。「あなたがたはみな躓きます。」躓くと訳されている言葉は、これは罪に陥るとか人を堕落させるとかそういう意味を含む非常に強い言葉です。イエス様の語られた言葉の中にも、「躓きをもたらすものは災いです」っていうそういう言葉がありましたけれども非常に強い言葉です。それを言われたので弟子たちは本当にびっくりしただろうなという風に思うんですけれども、イエス様は特にここで「皆」躓きますという風に話しておられます。ペテロだけではない。すべての弟子たちが例外なく躓くということをここでおっしゃっておられます。イスカリオテのユダは、もうこの時不在でした。ですからおそらく11人の弟子たちがここにいたと考えられますけれども、その11人全員がつまずくとイエス様はここで予告しておられます。

その上でゼカリヤ書13章7節のみことばを引用しながら、そのことが旧約聖書の預言の成就であるということを示しております。ここにこう書いてあります。

私は羊飼いを打つ。すると羊は散らされる。

これはゼカリヤ書13章7節の御言葉の引用です。この中で「私」というのは神様を表しています。「羊飼い」とはイエス様のことを表しています。「羊」とは弟子たちのことを表しています。つまり神様がイエス様を撃たれる時、羊である弟子たちは散らされるということが旧約聖書に預言されていたということがわかります。そしてこの後の展開は本当にその通りになりました。主が羊飼いであるイエス様を 撃たれると、羊である弟子たちは散らされてしまいました。みんな恐ろしくなって逃げていってしまいました。イエス様はこの後起こることを全部ご存知だったということが分かる。そして同時にそれは神様の大切なご計画の一部であるということを理解していたということであります。

最後の晩餐の場面で、イエス様は大切なメッセージを語られました。弟子たちに新しい契約を結んでくださった。しかしそこにはご自分の十字架という大変大きな犠牲が含まれておりました。その大切なメッセージを弟子たちに伝えましたけども、そのメッセージの前には裏切りの予告がありました。18節に「私と一緒に食事をしている者が私を裏切ります」という裏切りの予告がなされていました。そしてその最後の晩餐の終わった後の今日の箇所においては、つまずきの予告がなされております。

あなたがたはみな躓きますと語られている。ですからこうやって全体を振り返ってみます時に、イエス様の真剣な姿と、しかしそのイエス様の思いをとても受け入れることができない、理解することのできない、ふがいない弟子たちの姿が対照的にここに描かれているということに気づかされる。

そしてイエス様の十字架というのはまさにこのような弟子たちのためのものであったということを私たちは教えられるんではないかと思います。

(2)ペテロの反応「わたしはつまずきません」

イエス様がそのような驚きの発言をなされて、弟子たちみんな驚いたと思いますけれども、最初に反応したのはヘテロでした。29節をお読みいたします。

するとペテロがイエスに言った。「たとえ皆がつまずいても、私はつまずきません。」

そのように言いました。

だいたい今までの聖書の箇所を読んでもそうなんですけれども、最初に反応するのはペテロですね。だいたいいつもそうなんです。そしてこの時もやっぱりペテロが最初に反応しているということが分かるんですけれども、ぺテロはたとえ皆がつまずいても私はつまずきませんという風に話しました。一言、私は躓き、ませんって言えばいいものの、そこに「たとえ皆がつまずいても」と付け加えました。明らかに彼は他の弟子達を意識しながら、他の弟子たちと比較しながら、その中で自分は大丈夫ですということをイエス様の前で主張しているということがわかります。

そしてその言葉は、あたかも他の弟子たちはつまずく可能性があるかのような、そういう印象を与える言い方だという風に思います。そ子には他の弟子たちもいるんですね。そこに他の弟子たちがいる前で、イエス様にその事を伝えました。他の弟子たちは、この言葉を聞いてどう感じただろうか。きっと複雑な気持ちになったんじゃないかなという風に思いますね。

こんな言葉、こんなペテロの言葉の使い方から、当時の弟子たちの複雑な関係が垣間見えるような感じがいたします。彼らはいつもイエス様に付き従って一緒でした。3年近くですね。イエス様とともに生活をして、寝食を共にし一緒に行動していた仲間たちでしたね。ですから彼らはきっと仲良しだったのかなと思うと、必ずしもそうではなかったようです。

そして実はあの最後の晩餐の席上で、これはルカの福音書の22章に出てくることなんですけれども、あの最後の晩餐の席上で弟子たちは、「自分たちのうちで誰が1番偉いのだろうか」ってそんな議論をしていたって事が書いてある。ルカの福音書22章の24節に出てきますけれども、もう最後の晩餐の席上です。

イエス様がもうすぐに十字架にかけられるというそのギリギリのタイミングで、そしてイエス様はどんなに切実な思いでその時を過ごしていたのでしょうか。

でもその時の弟子たちの関心というのは、その程度だったっていうことなのです。12人の中で誰が一番偉いのか、イエス様の弟子として誰が一番ふさわしいのかっていう事が彼らの関心の中心でした。弟子たちは本当に自分のことしか考えてなかったんだなということになるんだと思います。そしてイエス様がその時どんな思いで過ごしておられたのか全然気づいていない。ペテロがその時とっさに見せた反応も、もしかすると他の弟子たちには負けたくないというそういう思いが込められていたんじゃないかなという風に考えられる。

そのペテロに対してイエス様はさらに具体的な予告をしておりま。す30節です。

イエスは彼に言われた。「まことにあなたに言います。まさに今夜鶏が2度鳴く前にあなたは3度私を知らないと言います」

先ほどの言葉は弟子達全員に対して語った言葉でしたけれども、それに対して反応したのはペテロでしたので、今度はペトロに個人的にイエス様は語りかけ、さらに具体的な内容を語っています。「まことにあなたに言います。まさに今夜鶏が二度なく前にあなたは3度私を知らないと言います。」実に具体的です。するとそれを聞いてペテロはさらに答えました。31節で、

ぺテロは力を込めて言い張った。「たとえご一緒に死ななければならないとしても、あなたを知らないなどとは決して申しません。」皆も同じように言った。

そういうふうにペテロが反応したということが書かれてあります。「たとえご一緒に死ななければならないとしてもあなたを知らないなどとは決して申しません」と力を込めて言い張ったと聖書に記されていて、すごい自信だなと思いますね。すごい自信だなと思いますけども、かなり力が入ってるなという感じもします。そして他の弟子たちも同様の反応だったということが付け加えられております。おそらく他の弟子たちもペトロに負けたくないっていう気持ちがあったんじゃないかなという風に想像します。

私たちはこの後どうなっていくかという展開を知っております。ですから結末を知っているので、このペテロの言葉が、そして他の弟子たちの態度が強がりであり、自惚れであるということはよくわかります。

わかるんだけれども、でももし私たちがこの後の展開を全く知らないで、まさにこの場面に遭遇したとしたら、その上でこのペテロの姿を見たらどんな風に感じるだろうかなってちょっと想像してみたんですね。

もしかしたら私だったら、ペトロは勇ましいな、たくましいなって、そういう印象を受けたかもしれないなという風に思いました。少なくても、「自信がないんです。もしかするとつまずくかもしれません」っていうような言葉よりは、ペテロの言葉の方が頼りがいがあって頼もしいな、魅力的だなってそんな風に感じるかなという風にちょっと思ったんですね。ペテロはある意味ではとても正直で熱心だったと思います。本当に心からそう思って言ったんだと思います。心からイエス様に最後までついていきたいと情熱を持っていたと思います。ルカの福音書の22章の33節の並行記事を読みますと、ペテロはイエス様にこういうことも言ってるんですね。

主よ。あなたとご一緒なら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。

本当に覚悟は出来てたんだと思うんですね。イエス様と一緒に死ぬ覚悟でいたんだと思います。それは確かに自惚れだったかもしれないし、強がりだったかもしれない。けれどもでも本当にそういう自分でありたいと願ったんだと思うんですね。

イエス様の前にそういう自分でありたい。そういう心からの願いの証明だったんじゃないかというふうに思う。ですからある意味ではとても正直で熱心なペテロの信仰の告白と言えるかもしれない 。

そんな自分の情熱の裏側に、自分自身の抱えている弱さがあるということに、まだ気づいていない。その点はまだ意識されていないということだというふうに思うんですね。その点では他の弟子たちも皆同じだったということがいえます。

このペテロの姿そして他の弟子たちの姿に私たちは自分の姿を見るんではないかなという風に思いますね。私達も同じじゃないかなという風に思うんですね。

私たちもみなこのように生きて行きたい、神様の前でこんな自分でいたいという願いを持ってるんじゃないかなと思うんですね。神様の前に相応しい自分でいたい。最後まで神様についていきたい。

そういう情熱を持っているからこそ、私たちはイエス様を信じたんだと思うんですけれども、でも私たちは皆自分が願った通りには、なかなかなっていかないというそういう課題を持っているんじゃないかなと思うんですね。

自分が狙った通りに生きていきたい。そういう願いを持っているのになかなかそういう生き方ができないという、そういう課題を皆抱えているんじゃないでしょうか。実は私たちみんな自分のことがよくわかっていません。

自分の願いと、自分の現実と、裏腹になっているという自分に、まだ十分に気づいていないことがたくさんあるんではないでしょうか。

さらに私達は自分の弱さをなかなか認めることができません。ペテロのように自分の弱さをどっかに意識しつつも、つい力を込めて言い張ってしまう。私は大丈夫ですとつい言ってしまう、そんな傾向、みんな持ってるんではないかなと思うんですね。自分の中にある弱さを素直に認めて受け入れるということは、私たちにとって実は本当に大変なことではないだろうかという風に思います。弱さをどこかで意識するからこそ、私たちはかえって逆に強がってしまうこともあるかもしれません。そして私たちは時々失敗してしまう。ペテロやその他の弟子たちの姿ってのはまさに私たちの姿であるということを覚えたいという風に思います。

(3)イエスの導き「あなたがたより先に、ガリラヤに行きます。」

でも今日の聖書の箇所を通して教えられるもう一つの大切なことは、イエス様は弟子たち以上に、弟子たちのことがよく分かっているということです。そしてその上でイエス様は弟子たちの事をちゃんと受け入れてくれているって言うことです。

そのことが今日の聖書の箇所に示されています。今は自信過剰になってる弟子達ですね。自分の力に自惚れて、もしかしたら酔ってるようなところもあるかもしれない。今はもうそういう弟子たちが、もうすぐこの後、自分を見捨ててみんな逃げてしまう、そんな展開をイエス様はよくわかってるんですね。ご存知なんです。

 

でもそのことも全部わかった上で、イエス様はなおも弟子たちを受け入れ、そんな弟子たちのために十字架にかかろうとしているんです。ですからイエス様の弟子たちに対して語られた言葉は、決して攻撃的な言葉ではなかったと思うんですよね。「あなたがた皆躓きます」っていうこの言葉の言い方は、決して攻撃的な言い方ではなかったし、叱責するような言い方でもなかったと思います。

全てを理解し、全てを受け入れた上で、愛に満ちたイエス様のご指摘だったんじゃないかというふうに考えられる。

そして28節でイエス様はこういうことも話しておられるということに、私たちは注目したいと思います。28節、

しかし私は蘇った後、あなたがたより先にガリラヤへ行きます。

ここでイエス様は「蘇る」って話してますね。復活の事を話してます。そして復活された後に、先にガリラヤに行きますとおっしゃっておられました。 これは先にガリラヤに行って、あなたたちが来るのを待ってるよっていう、そういう意味の言葉です。イエス様はちゃんと先々の事を考えてたってことが分かりますね。

この後、弟子達はイエス様を見捨てて逃げてしまいます。ペトロは最後まで粘りました。この後見て行きますけれども、最後まで頑張った方ですね。ぺテロはよく頑張った方だと思いますが、でも結果的にはイエス様が予告された通りになりました。知らないって3回言ってしまいます。イエス様を否定してしまいます。

その経験はペテロにとっては大変大きな挫折でした。自分の自信もプライドも、もう粉々に砕かれる。自分はもう生きていけないと思うくらい、大変な挫折の経験だった。

ところがイエス様は全部分かってらっしゃる。そのことも全部承知なんです。全部わかった上で、弟子たちに先にガリラヤに行って待ってるからねって言っておられた。そんな弟子達をちゃんと理解した上で、でももう一度受け入れ、もう一度立たせ、もう一度用いられようとしている。イエス様の姿がここに示されているということに気づかされる。

弟子たちはこの時には全然気づいてなかったと思います。この言葉の意味が全然わからなかったと思います。けれどちゃんとイエス様は先のことを考えて準備をしておられたということに気づかされ、驚かされます。

ガリラヤっていうのは弟子たちの出身地ですね。そしてそこでイエス様と出会った場所です。そこでイエス様に育てていただいた場所です。つまりガリラヤていうのは弟子たちにとって信仰の原点です。その信仰の原点の場所が彼らにとっての再出発の場所になるんだよっていうことを、イエス様は伝えている。

(4)結び

すべては主のご計画の中にあるということを私たちは教えられます。私たちのこともよくわかってるんじゃないでしょうか。私達が時々失敗をしたり挫折したりつまずいたり罪を犯したり色々苦しみますよね。そして自分の自信もプライドも全部砕かれることがあるんじゃないでしょうか。全部わかってらっしゃるんじゃないでしょうか、イエス様は。全部わかった上で先にガリラヤに行って待ってるよって、そういう風に言ってくださるイエス様じゃないかなという風に思うんですよね。

つまり私たちはいつでも戻れる場所があるって事なんです。いつでも帰る場所があるって言う事なんです。どんなに大変な経験をして、失敗をして、挫折を経験し、自分の弱さのうちに、もがいて苦しんで、とても生きていけないと思うようなことがあったとしても、でもちゃんとその先にイエス様は待っていてくださる。そしてちゃんと私達を受け入れてくださる。そしてもう一度立たせてくださる。そんな私たちをもう一度用いられようとする。そういうイエス様の愛の配慮があるって言うことを、私たちは聖書を通して成長してしっかりと覚えるものでありたいなという風に思います。

私たちもみんなそれぞれ弱さを抱えている一人一人だと思います。そのくせすぐ自惚れるんですよね私達って。すぐ昂るんです。でも結果的に失敗したりして落ち込んだりっていうこともあります。そして時々不安な気持ちに襲われることがあります。自分では大丈夫だと思っていたのに、こんなにも自分って弱いのか、こんなにも自分って脆いのかって気付かされる時が時々あるんじゃないかなと思うんですね。

もしかしたら今のコロナの時期って、そういう時なのかもしれないなと思います。今までは大丈夫だ、自分は大丈夫だと思ってたのに、こんなに危険が迫っているってことを意識した時に、急に心が不安になる。しかも誰にも相談できない。誰にも話ができない。なんかそういう時に非常に不安になって、足元から根底がぐらぐらと揺るがされてしまったようなことが、私たちにあるんじゃないかなと思うんですよね。

私も東日本大震災の時にはそういう気持ちになったことがあります。自分ではもう大丈夫だと思っていたのに、自分ってこんなにすぐに不安になってしまうのかって、そういう経験したことがありますけれども、もしかしたら今の時期ってそういうことなのかもしれないし、そういう中に歩んでおられる方々もいらっしゃるかもしれない。

でもイエス様という方は全部わかってます。そういう私たちのこと全部ご存知なんです。そんな私たちのためにイエス樣は十字架にかかって死んでくださったんです。そんな私たちのために復活をされて、そして私達はもう一度呼び集めてくださり、もう一度立たせてくださり、もう一度用いられようとしている。そんな主の導きがあるって言うことは忘れないようにしたいなと思うんですね。

そしてそういう本当に不安な時というのはとても大事な時じゃないかなと思うんです。不安になったり恐れたり失敗したり挫折を経験したり自信を失ってしまった時って、私たちにとってとっても大切な時じゃないかなと思うんです。

なぜならばそこに主が共にいてくださるということを、私たちは経験で知ることができるから。そしてその時に本当に主により頼むことができるんですね。本当に主の御手の中に生かされている恵みを、その時に知ることができるんです。

ですから不安な時、怖い時、失敗してしまった時、自信をなくした時、とても大事な時だと思います。

弟子たちもみんなこを通りました。みんなそういう経験を与えられながら、でも主の御手の中にあって支えられ、御言葉によって生かされてる恵みを知るものに変えられていった。

私たちもそういう導きの中に生かされているっていう事をぜひ覚えるものでありたいと思います。

コリント人への手紙の第2の12章9節の御言葉、

私の恵みはあなたに十分である。私の力は弱さのうちに完全に現れるからでる。

ってそこに書いてあります。神様の恵みはいつも十分にあります。十分すぎるぐらいに私たちに注がれています。そして神様の力は私たちの弱さのうちに完全に現れます。

私たちが弱い時に、神様の力が表され、私たちの弱さのうちに主により頼むことができますように。決して高ぶることがないように、高ぶりから守られるように、本当に私たちが弱さのうちに神に信頼することができるように、そして主の力によって支えられながら、この一週間もこの一か月も歩んでいくものでありたいと思います。

 

 

お祈りをいたします。恵み深き私たちの父なる神様。私たちのことをよくご存知で、私たちも気づかない弱さも全部理解してくださって、なおもその上で私たちを愛し受け入れ導いてくださる方、そして立たせ用いてくださる方であることを覚えてありがとうございます。そのような主の導きの中で、今週も今月も歩んでいくことができますように支え助けてください。どうか私たちが高ぶり、うぬぼれから守られますように、砕かれた心で主に信頼しより頼んでゆく事ができるように導いてください。御言葉を心から感謝し、イエス様のみ名によってお祈りをいたします。

 

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